01
その日、横浜は三日目になる雨だった。
ビニール傘越しの暗い空を見上げ、中島敦は小さく溜息を吐いた。
(太宰さんを探して来いとか、無理難題にも程がある)
先程、彼の職場である武装探偵社で先輩職員の国木田独歩から言い渡された今日の任務(恐らく任務遂行率一割以下)を思い出し、足取りが重くなるのを感じていた。
孤児院を追い出され、当てもなく彷徨っていた自分を救ってくれた人物。
それが太宰治という人間だった。
一般的に、そういう相手の事を「命の恩人」や「救済者」と云うのだろう。
実際、敦も感謝しきれない程の恩を感じているし、何処までも先を読む明晰な頭脳を持つ太宰を尊敬してはいる。
してはいるが、自由過ぎる彼の行動には正直参っていて、現に今も予想すら出来ない太宰の居場所を特定するという、極めて難易度の高いミッションに溜息を漏らさずにはいられなかった。
「はぁ…太宰さんの居る所なんて検討もつかないよ」
こんな時に力を借りたい同じ探偵社員である江戸川乱歩はタイミング悪く今日は出張中。
手掛かりも何も無い難事件を何度も解決してきた彼の能力があればこの任務も少しは楽になるかと思っていた敦だったが、当てが外れてしまったのだ。
探偵社を出てから暫く横浜市内を歩き回ったが、太宰の姿は見当たらなかった。
港や河川敷等、太宰がよく入水に使っている場所も足を運んだが、何処も空振りに終わる。
(何だかお腹空いてきたなぁ、…ん?)
ふと目線を向けた先に見えた太宰らしき後ろ姿。
しかし見えたと同時に路地裏に消えてしまい、見失ってしまった。
「っ!あれ…?」
急いで追いかけたが其処に太宰の姿は無く、敦は首を傾げる。
気のせいだったのか、と後ろを振り向いた時だった。
「、わっ」
「!」
周囲をよく確認せずに勢い良く振り返った為、背後に居た人物に衝突した。
敦は慌てて倒れた人物に声を掛ける。
「す、すみません!大丈夫ですか!?」
其処で、敦は初めて気が付く。
目の前の人物を改めて視界に入れ、思わず息を飲んだ。
透き通るような白い肌に整った顔立ち。艶のある金糸雀色の長い髪は、その美しい顔を際立たせるようだった。
それに加えスラリと伸び均整のとれた長い手足。
目が覚める程の美しい女性とは正にこういう人を云うのだろうと、敦は今の状況を忘れ見入ってしまっていた。
「本当に、すみません…後ろをよく見ていなくて」
「大丈夫ですよ。私も余所見をしながら歩いていたので」
ふわりと柔らかく微笑む顔を直視出来ず、敦は目線を泳がせた。
生まれ育った環境に加え、女性と関わる機会等ほぼ無かった敦にとって、上手くたち振る舞える度胸もスキルも持ち合わせてはいなかった。
「服も、汚してしまいましたよね、弁償しますので」
「良いんです、本当にお気になさらず」
「でも…、」
「それに、私用事があるのでもう行かないと」
「!あ、そ、そうなんですね!お急ぎの所すみませんでしたっ、本当に!!」
慌てふためく姿を見て、その人物はくすりと笑う。
口元に手を当てて笑っているだけなのに、ここまで絵になるのかと敦は素直に関心していた。
「じゃあ、これで」
長く髪をなびかせてその場を後にする彼女の後ろ姿を、敦はただ静かに見つめていた。
今この状況が現実なのかどうかも忘れてしまうような時間だったが、雨で濡れた事で冷えてきた足元を見てふと我に帰る。
(綺麗な人だったなぁ…)
探偵社に居る女性達も勿論容姿が整っていると感じていたが、彼女は雰囲気や仕草一つ一つに気品があり、常人離れした存在だった。
きっと、太宰がこの場に居たのならば一目見た瞬間に心中の誘いをしていたのだろうと敦は心の中で苦笑いをした。
「そうだ、太宰さんを探さなきゃ…っと、」
踵を返し足を動かした瞬間、靴の下に何か違和感を感じ立ち止まる。
(…?名刺入れ?)
拾い上げた其れは小さな名刺入れ。
どうやら先程ぶつかった彼女の物のようだった。
すぐに彼女が歩いて行った方向を見るが、既にその後ろ姿は無かった。
「どうしよう…」
たった数分関わっただけの、名前も知らない人間の落し物。
交番に届けるべきか迷った敦だが、名刺ならば連絡先が書いてあるかもしれないと中身を確認した。
「”まほうやさん”…?」
白い紙に黒の字だけで書かれたシンプルな名刺。
其処に書かれた文字をゆっくりと読みあげた。
ひらがなで書かれた”まほうやさん”という文字の下には連絡先と思われる電話番号が書かれていた。
(良かった、此れで連絡はとれそうだ)
ほっと安堵の表情を浮かべ、敦は息を吐いた。
すると携帯電話が震え、確認すると探偵社からの着信だった。
「はい」
『敦か、俺だ』
「国木田さん?…あ、すみません…。太宰さんはまだ、」
『その件で電話している。もう戻って良いぞ』
「え?でも…」
『太宰は見つかった。だからお前も戻って来い』
「…嗚呼、そうなんですね。判りました」
国木田の声が若干疲れているように感じた敦は同情の念を抱きながら通話を終了した。
結局この数時間は無駄足になり、太宰が何処に居たのかは判らないが、兎に角途方も無い任務から解放された事に肩の荷が下りた気分だ。
「…太宰さんならこの名刺について何か知っているかもしれないな」
再度名刺入れに視線を向ける。
今度は落とさないようしっかりと握り締め、敦は探偵社に向かい足を進めた。
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