校門を潜り抜けると、妙に心拍が上がった。彼の勤める高校は都心から少し外れた、絵に描いたような閑静な住宅地の中に唐突にある。駅からそこまで歩いて行く時は特に何も思わなかったのに、学校の敷地に入った途端、ああ、ここは僕の知らない土地なのだと感じた。駐車場に置かれた、見慣れた彼の青い車でさえ、なにか違うように見える。学校といえば賑やかなイメージを持っていたが、どうやら今は授業の時間らしい。校舎は本当にここに高校生が何百人もいるのかと思うほど物音一つせず、恐ろしい。廊下を通るときは時折チョークの音と教師の声、あとは実験室が近いらしい、高校生らしい賑わいの声が聞こえてきて安心した。
 来訪者名簿に、何と書けばいいのか数秒悩んだ。悩んだ末、上の人のを真似て書いた。まあ、あとで彼に揉み消して貰えばいい話なのだが。何せ悪いのは向こうなのだから。今日は僕の仕事も無い、ゆっくりと片付けをしようと思っていたのに、
『悪い!!!今日提出の書類忘れた、届けに来て(>人<;)』
 ……。小学生の母親ではあるまいに。
 事務員の女性から場所を教えてもらうと、どうやら扉の奥には彼の他に女子生徒がいるらしかった。少しだけ開いた扉の隙間から覗くと、長椅子の隣に腰掛けた彼と少女が話している。立ち聞きは良くないとは思うが、空気を読んだという名目はあるのだし、まあ、いいだろう。窓に背中を預けると、さっき見た青い車がちょうどその奥にいた。助手席には、僕が置いていった灰皿があった。
「こんなこと言えるの、せんせーくらいしかいないから」
「あはは、教師冥利に尽きること言ってくれるじゃねーの」
「でも先生だからっていうより、せんせーって、先生らしくないじゃん」
「……え〜?」
「ばぁか、褒めてんの。せんせーがちゃんと『先生』だったら、こんな相談してないってこと。せんせーは、なんか、ちゃんとあたしのこと見てくれるじゃん。生徒としてじゃなくて、ちゃんと、あたしを」
「まあな、お前はまた特別だけどな。お前、理由つけてしょっちゅう来すぎなの」
「えー私先生の特別枠だったの、きもー」
「今の他の奴には言うなよ、辞めさせられちゃう」
「先生こそあたしのこと言わないでよ、変な目で見られるのやだし」
 二人が、何のことを話しているのかは僕には分からない。扉の奥でしか通じない共通言語がそこにあるようだ。別に、彼と僕は嫉妬や焼きもちなんてする関係ではない。ただの日常生活を共にするだけの謂わば相方だ。だから彼が生徒に手を出そうが秘密を共有しようが勝手だし、興味はない。ただ困るのは、廊下で待ち続ける僕の所在がないだけだ。目を逸らす。初夏も近付くこの季節、あんな日当たりの良い場所に車なんか置いておけば、さぞ暑いに違いない、と、取り留めのないことに仕方なく思索を巡らせていた。
 だから、不意に扉が開いて僕はだいぶ驚いた。が、少女のほうが驚いていた。不幸にもぱちりと合ってしまった視線は、徐々に歓喜の色に染まってくる。……室内だからと帽子を取っていたのが仇となった。これでも、僕の三分の一くらいは有名人であるのを、すっかり失念していた。
「えっ……あの、モデルの、」
「あ……いえ、人違いかと……」
「あっ祐月。悪い、待ってた?」
「えーっっやっぱりそうじゃんせんせー!! どーゆーことか説明してー!? 私大ファンなんですけど、えーっ!?」
 彼が後ろから彼女の口を塞ぎ何とか大騒ぎは避けたが、上手くいけば誤魔化せたかもしれないあの状況で名前を呼んだことはなんというか、思わず溜息が出てしまう。漣さんは少女を解放すると、少し屈んで唇に人差し指を当て、困った笑顔でしいーっと歯を鳴らした。実はこいつ、昔っから友達なの。そんな言葉も挟みながら。びっくりしながらも教室に帰っていったらしい少女の背中を見送った後、彼は白衣のポケットに手を突っ込んでクスリと微笑んだ。教師らしくない、と昔から言っていた蒼髪とのコントラストは爽やかだった。
「悪いな、休みだったのにわざわざ」
 インスタントコーヒーしかないのは許して、と言ってマグカップを手渡してくる。彼の生徒もこういう風に手懐けられていくのかと思うと、変な気分だった。黙りこくって闇の底を見つめたままでいる僕に関わらず、彼は何か喋っているらしい。家での喋り方と変わらない、浅い言葉をつらつらと重ねるような、彼らしく愉快で悲しい話し方だ。さっきの女子生徒へのそれとは同じようで微かに異なる気がする。まあ結局、僕が異なってほしいと願っているだけかもしれないが。我ながら鳥肌が立った。
 どうせ居心地は悪いのだし、書類を渡してさっさと帰ろうとしていたのだが、こうしてお茶と菓子まで用意してもらえば流石に帰りにくい。仕方ないので、彼のくだらないお喋りは聞き流しながら、彼の周りに視線を向ける。いかにも保健室らしく部屋の隅で眠る身長計や体重計があるかと思えば、パソコン周りは書類が山積みで汚いのが彼らしい。給湯器の周りにはマグカップが並んでいて、そういえばあれは一緒に買った、などと思い返した。座るとすぐ足を組むところや、微笑みの仕方も、僕の世界の彼と何ら変わらない。だが、どれだけ僕の知る彼の世界を確かめても、やはり彼は保健医なのだと、その白衣だけで思ってしまった。洗濯するときに何度も見ているというのに、実際に着ているところを見るのは初めてだったのだ。その姿で不意に立ち上がって、ジャバラのカーテンを背景にすると、もうだめだ。何がだめだかわからないが、だめだった。無理矢理話を遮って帰ります、と半分まで言いかけたとき、チャイムが鳴った。尋ねると、昼休み始まりのチャイムらしい。
「あー……。タイミング悪かったな。今出てったらお前、顔ばれて大騒ぎだぞ。そこのベッド貸してやるから、もう一時間くらい居ろよ」
「漣さんは……」
「俺は普通にお仕事してるから。せんせー、昼休みはけっこう忙しいの」
 そう言って僕をカーテンの裏側に隠すと、肩を押してぽすんとベッドに座らされる。その間にも扉を叩く音がしていて、彼ははあいと緩い返事をした。生徒が扉を開くその寸前に彼は僕の前髪をかき分け額に唇を寄せると、くるりと振り返りカーテンを出る。後ろ手にカーテンを閉めると、彼は生徒との世界に帰っていってしまった。呆気に取られるがままの僕は、なんだかよくわからない気分――頑張って言葉にしたとしても、「だめだ」としか言えない気分を抱えて、ただ彼の世界の音を聞いていた。男女の生徒どちらにも囲まれながら、様々に話を振られ、ときには生徒同士で彼の奪い合いになりかけているときもあった。その、同じ部屋のなかで、まるで誰も見えないシャボン玉の中に入ってこの空間を浮かんでいるようだ。賑やかな生徒の笑い声が泡の表面を震わせる。今に壊れそうなそのシャボン玉を一番震わせたのは、何よりも彼の声だった。明るく正しく公明な彼の声。有るべき姿。本当の彼。……だめだ。一体何がどう、だめなのだろう。
 僕が帰れたのは昼休みが終わり五限の間、思ったより随分と長居をしてしまった。そのせいか、どっと疲れた。校門を出て、住宅街に入れば少しは安心するかと思っていた。が、だめだった。見知らぬ街に拒絶されるような感覚がした。結局家に着くまで、いや、家に着いてベッドに倒れ込んでもその「だめ」は続き、やがて倦怠の末にそのまま眠ってしまっていた。気が付けば漣さんがもうすぐ帰ってくるような時間で、はっとして夕飯の支度を始めた。

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