「……せんせー、ばかだねえ……」
 彼女は心底呆れたとばかりの溜息をつくと、テーブルの上に肘をついた。反対側に座る俺はシュンと背中を丸くする。彼女は、いつだか――そう、ちょうど祐月が来てくれた時にギャイギャイ言ってた二年生の女子生徒だ。尚、手は出していませんし、出すはずがありません。
「え、お前、あいつがおかしい理由分かるの……」
「分かるよ。ファンだし。追っかけだし。ま、せんせーにはお世話になったし、教えてあげても良いけどー」
 授業サボりの身でよく言うものだ。彼女はアハハと笑い飛ばしてそう言うが、こちとら真面目なのである。できるだけ真剣な目で見据えるが、無視されている。それよりもせんせー、これ見てよ、と校則違反の雑誌を差し出される始末だ。生徒に親身な先生を目指してきたはずが、俺、なめられてる……?
「せんせー!? 見てって言ってんの、あんたの恋人なんでしょ」
「……え?」
「え、って、それどれに対しての『え』よ」
「え……こいつ、なんでこんなでっかいページで……?」
 雑誌特有のテカテカした紙が光を反射するものだから、気のせいかと思ったら、気のせいじゃなかった。祐月だ。斜め上を向き、うつくしい滑らかな輪郭から頸を惜しげも無く晒した祐月が、見開き一ページを使ってこちらへ目配せをしている。全体的にトーンは暗く、陰影のはっきりした加工が施されている。その中で、彼のトレードマークともいえる赤い瞳が宝石のような輝きを鎮めているのが、綺麗だ。同時に彼の顎を上向きに持ち上げる女性の手のマニキュアが赤いから、まるで互いに操っているかのようなストーリーを感じさせる写真だった。ご立派に、華々しい煽り文句も横に添えられて、どうやら彼の特集らしい。確かに祐月は美人だし、モデルは天職だと思う。が、彼の語り方の軽さから、モデルといっても端っこの端っこだと思っていた。所詮、数多並んでいる中の一人だと、思い込んでいた。考えてみれば、あの祐月の美しさがそんなところでおさまるはずがない。
「知らなかった……」
「あのさあ……せんせー、祐月さん今相当話題の人なんだからね……なんで知らないの」
 次のページは、インタビュー記事だった。無表情や伏した微笑み、屈託無くスタッフと笑い合う場面など、様々なカットが散らばる中、黒背景に白字の文字で彼の言葉が散らばっている。目が滑ってよく読めなかったが、見出し部分は目に入った。その付近で探してみると、引用部分はすぐに見つかった。
『――最近、はまっていることはありますか?
うーん。話すと長くなるんですけど…僕、実は長い間同居してる人がいるんですよ。
――え!?スキャンダルの予感…(笑)
いえ、男性ですよ(笑)長年の腐れ縁なんです。その同居人が、ぬいぐるみを買ってきてくれて。ウーパールーパーのぬいぐるみなんです。写真…は撮ってなかったけど、すごいかわいいんです。その子の周辺を整えるのが、最近のマイブーム(笑)服とか作りたい(笑)』
 ……何言ってんだ、コイツ。その後を読んでもインタビュアーの困惑具合がよく分かる。カットや編集をしてこれなのだから、本当はもっと意味わかんないことを言っていたのだろう。名前はウパさんって言うんですーとか、言ったところでどうすんだよ。あいつ、ああ見えて言葉少ないし、話したところで下手くそだからな。そう呟くと、彼女が「口下手なんだ〜! こんなキレイなのに、かわいい〜!」と喜んでいる。なんなんだ。てか、そんなにウパさんのこと気に入ってたのか。
『――祐月さんといえば、異界感や妖といったキーワードがよく添えられますね。
なんでですかね(笑)不思議ちゃん系ってことなんでしょうか。
――(編集部一同、首を振る)いえいえ!そうではなく、祐月さんの雰囲気全体が、まるでこちらを異世界に引き込むような感じがあるというか。これ、ファンの方だったらわかりますよね?
え、わかってないの僕だけなんですか(笑)
――(一同笑)。』
 だめじゃねーか。思わず突っ込んでしまいたくなるが、この編集部にはあいつにそこまで強く出られる人はいないようだ。まあそうだな、あいつ、ぱっと見怖いから。だが逆に、天然でその場の空気を纏めてしまっているようにも思える。それはそれで、才能なのだろう。俺の知らないあいつの才能。
 それにしても異界感とは、上手いことを言った。普段一緒にいると分からないが、こうして写真を見ていると確かに引き込まれる空気を持っている。遠い世界からこちらへ招かれているような蠱惑さがある。清浄なる天使のようで、淫靡な悪魔のよう。写真の微笑が妖しく読者を誘っている。なんだか、遠い、と思った。
 さらにインタビューを読み進めると、今後の活動について話しているようだった。ちなみに、俺は一回も相談されたことはない。

『正直、僕はスカウトされてから何となく言われた通り、気まぐれに仕事をさせてもらっているだけなんです。自分の意思がない、って言うんですかね。根が、指示待ち人間なんだと思います。
 でも、先の同居人がこの前働いてるところを偶然見る機会があったんですけど、それで、ちょっと動揺してしまって。家だとぐうたらしてるだけのその人が、なんだか違う人に見えたというか。ちゃんと仕事してるところを見て、…なんでしょうね、この気持ち。まだ整理が付いてなくて、言葉にできないんです(笑)
 とにかく、すごく驚いてしまったんです。咄嗟に「だめだ」って、すごく思って…。このままじゃだめだ、僕がだめなのか、彼がだめなのかもわからないんですけど。インタビュアーさん、どう思います?
――あはは、ここで話を振られるとは(笑)そうですねー…何か変わらなきゃいけないと感じ始めたってこと、かもしれないですね。現在の日常に対しての「だめ」なんじゃないでしょうか。
 なるほど…。ありがとうございます、そうな気がします(笑)だとすると、やっぱり、僕も仕事の在り方を変えていきたいのかもしれないですね。漫然と他人に流されるままじゃなくて、本当に自分のやりたいこと…僕の仕事を、見つけていけたらと思います。新しいことにもチャレンジできたらな、なんて、あの人がいなかったら思わなかった(笑)
――同居人さんと本当に仲が良いんですねえ。
仲が良いというか、腐れ縁ですよ、ほんと(笑)でも、信頼はしてます。あの人なら、何があっても僕を受け止めてくれると、信じてます。』

「ねえ、これ、せんせーのことなんでしょ……というか、あの時のことなんでしょう?」
 唖然としてしまった。言葉が出ない俺の代わりに、彼女が柔和な声で語り始める。雑誌の笑顔が、たまらなく愛おしい。
「せんせー、今この写真見てさ、せんせーの知らないこの人を見てさ、どう思った……?」
「辛かった……気がする。俺の知ってる祐月ってさ、案外、祐月の中では小さい部分だったのかなって……遠く感じたし、置いてけぼりにされた気がした」
「そうだよ。そういうものだよ、人って。大事な人の、知らなかった部分を見ると、人は動揺と悲しみを覚えるんだ。あたしもそうだったでしょ、せんせー」
 彼女は少し懐かしむように視線を伏せた。彼女は一年ほど前、不意に保健室にやってきたかと思うと、幼馴染の『女の子』に恋をしてしまったことを打ち明け始めた。結局彼女の恋は叶わず、幼馴染とは距離を取られたままだというが、それでもこうしてまた笑えるようにはなったようだ。彼女がベッドにぼすんと座り込むと、半端に開いたジャバラのカーテンがふたりの間でさらさらと揺れた。
「そして、その瞬間、日常は非日常になってしまう。周りの人が日常を過ごす中、秘密を抱えさせられた人だけ、ぽつんと取り残されてしまう、いや、先に進みすぎてしまうんだ。空中に浮遊して先に飛びすぎてしまったシャボン玉みたいに」
 俺は、あの日カーテンの向こうに置いてきた祐月のことを思った。口付けだけ残して去ったあの「非日常」の中に、彼はまだ、いるのだというのだろうか。俺を見上げた時のぼんやりと意思のない表情を思い返す。
「でも、そんなことを何も知らない鈍感なせんせーは、いつも通りの日常を生き続けている。一歩先外れた道を歩き始めてしまった祐月さんにとっては、その日常こそがよくわからないものになったんじゃないかな。上手く言えないけど、当たり前を揺さぶってくる感じ、って言うのかな。それって、すごく苦しいんだ。ひとりでパラレルワールドに行っちゃうみたいな気分なんだ」
 少女は立ち上がると、俺に背中を向けた。長い髪をひとつに結わえた姿が、否応無しにあいつと重なってしまった。彼女は首だけで振り返ると、にへらと不器用に笑った。
「ねえ、せんせー。せんせーは、どうするの」
「どういう……」
「この前みたいに、日常へ引き戻そうとするの? いつも通りになれ、って言うの? それとも、死なば諸共だーって、非日常に飛び込むの?」
 カーテンの間を大股でわざとらしく歩き、行ったり来たりする彼女。
「俺は……あいつが、幸せな方がいいよ」
「それなら、書いてあるじゃん。ほれ」
 彼女の指差す先には、理想のタイプについて語る祐月の台詞があった。
『理想のタイプですか(笑)まあ…運命共同体だな、って思える人ですかね』
 祐月。
 そっか。そういうことか。
 無理矢理お前を引っ張ってくるんじゃなくて、俺が足りないだけだったんだな。俺がお前の一段下にいるのに、そこから引っ張ったら怖いよな。俺が一歩、超えてしまえばいいだけの話だ。お前のいる、「向こう側」へ。取り残されたカーテンの内側へ。空を飛ぶシャボン玉の中へ。安寧と停滞を手放し、新しさと恐怖に満ちた非日常へ。
「会いたい……なあ……」
 机に顔を伏せ、ぼりぼりと頭を掻く。今すぐ帰って、抱き締めたい。逆らう手をはねのけて無理矢理にでもキスしたい、あ、でもそれじゃあだめなのか。とにかく愛おしくてたまらない。逸る気持ちが抑えきれない。身悶えしていると、少女が少し悲しげに呟いた。
「祐月さんはいいなあ、私も、こっち側に来てほしかったよ、好きな子に」
「悪りぃ……変なこと相談して」
「いいよ、せんせーには恩があるし。あたしがカミングアウトした時、せんせーも男の人と付き合ってるよ、って言ってくれたの、すごい救われたから。ありがとね漣せんせー」
「俺こそありがとな、……その、もう一個聞いていい?」
「なに?」
「……向こう側って、どうやったら行けんの」
 彼女はきょとんと大きな瞳をまばたきさせた。それから、インタビューの記事をもう一度指差した。

「……おかえりなさ、い……!?」
「祐月! 海、海行こう!」
「は……、え?」
「そんなんじゃ寒いだろ、カーディガン着て先に車乗って! 俺も着替えたら行くから!」
「え、待って漣さん、もう夜ですけど……」
「ばあか、真夜中ドライブデートだよ、夜のバカンスだ!」

――今、デートに行くならここ、って場所とかって、ありますか?
うーん…海に行きたいです。砂浜があるところ。昔住んでたところは海に近かったんですけど、屋敷の中から見るだけだったので(笑)そういうバカンスみたいな、非日常が味わえたらいいなって。


 都内から車を走らせること一時間ほど。都心に近い海なんて江ノ島くらいしか思いつかなかったから、その通りにナビに入力した。冷静に考えればお台場のが近かったのかもしれないが、近付くにつれてその念は晴れていった。一面の砂浜と見晴らしの良い景色は、こいつのはじめての海に相応しいと思った。
 祐月は最初怪訝な顔をしていたが、助手席で揺られるうちに心地良くなったらしい。折角の綺麗な髪がぐしゃぐしゃになるのも気にせず、ウパさんを抱き枕にしてほとんど眠りこけていた。だが潮の香りが近づくと同時に目覚めてきたらしく、窓を開けてじっと海の先を見つめていた。まるで少年のような新鮮な瞳の輝きに、思わず俺も微笑んでしまった。
「海だ……」
 シューズが砂まみれになるのも気にせず、堤防を越えた矢先祐月は覚束ない足取りで、海の闇へと引き寄せられていく。夜風に吹かれてロングカーディガンと結わえた髪がぱたぱたと揺れているのを、俺は後ろからのんびりと追いかけていった。
「漣さん……海って、入れますか」
「入れるけど、危ないぞ。夜だし、足元見えないし」
 波に触れるか触れないかのところまで辿り着くと、こちらを振り向いた彼は月明かりに爛々と瞳を輝かせてそう呟く。俺の返事にあからさまに背中を丸めるのがあんまりにもかわいそうで可愛いが、命がなければ元も子もないのだ。
「でも、入れるんですね。浅瀬だけならいいでしょ……」
「あっ馬鹿……!」
 いつの間に靴を脱いでいたらしい、祐月はゆっくり、恐々としながらも確実に海辺のほうへと足を進めていく。そのまま夜の闇に攫われそうな危うさも持つから、余計に恐ろしい。妙に早い心臓をよそに、俺も靴を置いてその背中を追いかける。
 波が突然闇の中から現れた。波はピチャンと可愛らしい音を立てて祐月の足元で跳ねて、スゥと引いていく。初めて触れた、波。祐月は自分の濡れた足元をきらきらとした瞳で見つめている。
「漣さん、……冷たい」
「そりゃあ、夜だからな」
「ねえ漣さん、もうちょっと奥に行っても……わっ、」
「おま……っ、その調子だとほんと転けて流されるから、って、馬鹿!」
「大丈夫ですよ……あ、七分丈でも捲らないと濡れちゃうんですね……」
 ずんずんと奥に進んでしまった祐月は、もう俺の腕の届く範囲より先に行ってしまった。いざとなれば助けに行ける距離だとは思うが、俺がこれ以上奥に行くのは単に捲し上げるのが面倒くさいだけだ。波打ち際、規則的に素足が濡れるのを繰り返しながら、ゆっくりと祐月の歩みに合わせて、海岸沿いに歩いて行く。祐月も徐々に慣れてきたのか、ぱしゃ、ぱしゃと水を分けながら歩き始めた。月の光に照らされながら夜の海を歩く美青年。背中には、金色の長髪とロングカーディガンの裾が靡いている。幻想的な光景の中、その絵画のモチーフのひとつのように描かれた祐月。見慣れたはずの姿なのに、なんだかぞわぞわした。
「……祐月、さあ」
「……?」
「綺麗だな……」
「海、綺麗ですね」
「いや、それもそうなんだけど、お前が……綺麗だよ」
 祐月は返事をしなかった。ただ、オマエ・ナニイッテルンダーとばかりの冷たい視線だけは頂戴した。だがこれで耐えられず笑いに変えてしまっては、いつも通りなのである。無言で視線を逸らし、何事もなかったかのように歩き出す。祐月も、すぐに視線を戻すとまたゆっくり水を分けながら歩き出す。
 途切れた会話。さざなみの音と、砂を踏む音と、月明かり。ここがきっと、彼の住む国なのだろう。日常の匂いは一切しない、清らかで、寂しくて、美しい世界。静かな国の王子様。あいつが、だめだと言い続けていた理由がようやく腑に落ちた気がした。こちらとあちらでは、世界が違うのだ。境界へと手を伸ばしたら、あちらの世界ははらはらと崩れていってしまうようなこわさがあった。無理矢理繋いで、押し入っていったら、諸共壊れてしまうような、切なく胸の詰まる感覚。そんな俺のことをつゆ知らず、祐月は海の奥を眺めながら呟く。
「ねえ、漣さん」
「ん……?」
「ごめんなさい、気を遣わせて、こんなとこまで……」
 そんな言葉が祐月の口から出てくるとは思わなくて、つい二度見してしまった。よそ行きの気遣いは丁寧すぎる癖に、こいつは俺に対して妙に気が抜けている。どことなくやる気がないというか、俺のことなんかどうでもいいというような素振りをする。ごめん、なんてあんまり言われない。最後に言われたのは、……そうだ、あの日ベッドに寝かしつけた後だった。気まずさに俯いて、下手くそな台詞を吐く。
「いいんだよ、俺が行きたかっただけだし……」
「嘘でしょう、あれ……あの記事、見たんでしょう。それで、海なんて」
「……なんで分かるの」
「顔が変わってるから、朝と……」
「そんなに分かるもんなのか……」
「分かりますよ。だって僕と同じ顔してる」
 カーディガンの裾が、まるで旗のように靡いている。後ろ姿のこいつは、あまりに小さく、か細かった。それが不意に振り向いて、ゆっくりと小首を傾げて微笑むから、俺はぞっとした。
「漣さんは、僕が怖い……?」
 空気を含んで透けるような、幽かな声。美しく悲しい、魔の微笑。くちびるがやわらかく開いて、眉が下がった。ごくりと音を立てて、唾を飲んだ。
「怖い……つーか、遠いな……って、思った、お前の、見て」
「僕も、多分同じ……あなたが、怖くなった」
 俺は、お前みたいな独特のオーラみたいなのは持ってないけどな……そう思ったが、不意に保健室で彼女に聞いた話を思い出した。そういう、話ではないのだ。お互いに、お互いが知らない顔を持っている。俺の場合、多分それは。
「……先生してるの、そんなに変だった?」
「変……じゃなくて、見慣れなかったというか。あんな風に明るいところにいるべき人なんだって、それなのに、僕と一緒にいたら、きっとだめになる」
「あはは、何だよそれ。お前だって一緒だろ、あんな綺麗な顔してるのに、俺なんかに抱き潰されて、お前のほうが」
「漣さんだって、僕しか見てないみたいな顔するじゃないですか、先生なのにそんな顔、だめですよ」
「そりゃあ、実際そのときはお前しか見てねーし、」
「そうじゃない……僕が、どうしたらいいのかわからなくなるから、だめなんですって」
 少し興奮しかけた口調を収めるように、祐月ははあっと俯いて溜息をついた。いつの間にかその背中に追いついていた俺は、もう一歩を進めて、平行線に立つ。数メートル空いた横顔は、睫毛が怯えたように震えていた。
「あのときから考えて、気付いたんです。僕の世界は、思ったよりもあなたが占めるところが広いんだって。あなたの中の僕とは釣り合わないくらいに、あなたは僕の、大事なところにいた」
「……」
「それなのに、あなたは僕を甘やかすじゃないですか。僕が大事みたいな顔するじゃないですか。漣さんには、ちゃんといるべき場所があるのに……漣さん?」
「……くく、あはは……っ」
 こいつがあんまりにも真面目に話すものだから、途中から可笑しくなってしまった。知ってたけど、こいつ、どんだけ自分のことに鈍感なんだよ。せっかく本音で喋ろうとしてくれているのに失礼だと分かっていながらも腹が痛くなるほど面白くって、祐月はずっと怪訝な表情をしていた。
「あははっ……祐月、お前さあ、やっぱ可愛いわ……っはは」
「……どういう意味ですか」
「だってさあ、お前、いじらしすぎるっての……俺のことそんなに好き? 可愛い」
「はあ? え? ……あの」
「恋愛感情じゃなくってもさ、お前にとって俺ってそんなに大事だったのな……なあ祐月、俺もだよ、俺の世界もお前でいっぱい、お前のこと大好きだよ。だから安心しろよ、全然だめじゃねーよ」
 だって、そうじゃなきゃ何でわざわざリスク背負ってまで贈り物したりなんかするんだ。もしこいつがどうでもいいただの同居人だったら、俺はもっと冷たい。俺は元々、興味ない奴には冷淡なほうなのだ、プライベートなんてこいつくらいしか友達なんて呼べる奴はいないくらいだ。それがこうやって、うざがられても構い倒してじゃれついて、挙げ句の果てにご機嫌取りのプレゼントなんて持ってくる始末。俺の心の大事なとこはとっくのとうに、この隣の男に捧げている。本人は今気付いたらしく、首を捻っているが。
「てか、お前のほうが俺なんてどうでもいいんだと思ってたわ、そっか、そんなに俺でいっぱいなの? そっかあ〜」
「……だって、僕は大体家にいてあなたを待つだけだし、相対的な時間が長いから、……漣さん、話聞いて」
「あはは、かんわいい、お前……くくっ」
「漣さん! もう、じゃあ、聞きますけど! ずっと言おうと思ってたんですけど、なんで僕のこと拾ったんですが!」
「はは、愚問だな! 顔が好みだから!」
 断言した。もうこれに関して、言い逃れは出来ない。行き倒れた野良猫のようだったこいつを見つけて、顎を持ち上げ顔を初めて見たとき、惚れた。痩せ、窶れ、見るも無惨な姿の儚い美しさを知ってしまって、もう自分の元へ奪い去る以外のことを考えられなくなった。担いで帰り、丹念に世話をして、その度にその顔に惚れ直していた。徐々にただ人外の如く美しいだけの青年ではなく、不器用ながらも表情の変わる人間だということを知って、もっと惚れた――というより、愛しくなった。この気持ちが、恋なのか愛なのか友情なのか性欲なのか、そもそもそういう枠にはまるのかさえも分からない。とにかく俺は、こいつが、好きだ。そっか、好きなんだ、俺は。
 我ながらサイテーな答え方をした自覚はあったから、もうすぐさぞお怒りの声が飛んでくるだろう。ちょっと早歩きで距離を取って、ぷんぷんしてるのを遠目に笑ってやろうと振り返ったが、そこにはぽかんと俺を見つめるあいつしかいない。脹脛のあたりを波が何回も行ったり来たりしている間も、祐月はじっと俺を見つめ続けていた。風で一瞬、前髪が瞳を隠すように揺れる。風が止んで瞳が再び現れても、その赤色の変わらなさが印象的だった。
「……怒んねーの?」
「いえ……怒るはず、って思ったんですけど、なぜか言葉が出なくて……」
「あはは、なんだそれ」
「むしろ……嬉しくて。なんだろう……。というか、漣さん、」
 不意に、俺の世界は止められる。彼の薄い唇が、ゆっくりと弧を描いた。月明かりが、綺麗な夜だ。風に揺らぐ彼の髪はその光を反射して、普段より一層眩しく、この世のものとは思えない幻想や魔法を纏っていた。
 だが。
「僕も、漣さんの顔、好き……っ」
「祐月!!」
 彼がそれに目を見開いた時には、もう遅い。さっきまでの穏やかな波が嘘のよう、轟音と共に高く聳え立つ波が彼を飲み込もうとしているのだ。間に合え、と手を伸ばす。夢中で掴んで抱き締めて転がった瞬間、高波は俺たちを飲み込む……まではいかず、案外低いところで収まってくれた。むしろ二人で波打ち際に転がってしまったものだから、何もしない方が良かったくらいに全身びしょ濡れだ。ぺたんと座った膝頭が常に浸るくらいの位置で、俺たちは顔を見合わせ目をパチクリさせる。そして、笑った。可笑しすぎて、二人して腹から笑った。
「あはは……っ!! 漣さんかっこつけすぎ、あははっ」
「……んだよっ! さっき褒めたくせに、水も滴るいい男だろ、ははっ……!!」
「うん、綺麗。いい男ですよ」
「お前もな! あー、髪濡れてるだろ、せっかく綺麗なのにそんな浸ったら傷んじゃう」
「いいですよ、どうせ潮風でだいぶ絡まってますから。海ってそういうもんなんでしょう?」
「よく知ってるなお前……そんなに海行きたかった?」
「そうですよ。だから、また連れ出して?」
「仰せのままに。今度はウーパールーパーの浮輪買ってやるよ」
「そんなのあるんですか……っ、あははっ!」
 さざ波と月明かりに挟まれた、ふたりだけの世界。そこは仕事も家事も、不純物は全部弾き出される、シャボン玉が浮かんだようなうつくしい世界だった。俺たちはそこで随分と笑い続けた。ひとりきりのこの世界はどうにも遣る瀬無かったのに、こいつがいるだけでユートピアに変身する。俺たちだけの、儚き幸福の国がここにあった。帰りたくない、まだ、帰りたくない。ただ、その一心だった。気がつけば、砂の上から彼の両手を引っ張り出して掴み、こう言っていた。
「好きだ」
 真剣に。さっきまでの笑いで流されてしまわないように。祐月もその違いを感じ取ったのか、こてんと小首を傾げた。
「……顔が?」
「ばっか、まあ顔もだけど……、お前がだよ」
「……お前って、僕?」
「ああ。好きだ。友達としてなのか、恋愛感情なのかとか、そういうジャンルは俺もよくわかんねーけど……俺は今、お前がめちゃめちゃ好きだって思った。お前が大好きだって、思った。答えがいるような奴でもないし、お前は気にしなくていいんだけどさ」
 冷たい手が、俺の手と交わってぬるくなっていく。祐月はずっと、無限みたいな間、俺の目を見つめ続けていた。
「好きだよ、祐月」
 深呼吸をしてそう言い切ると、さざ波の音が一気に音量を増した気がした。
 祐月は無言のまま、不意に視線を外した。答えが欲しかったわけじゃないけれど、やはり混乱させてしまったのだろうか。不安が一瞬脳裏に上りかけたが、すぐにそれは払拭される。彼の頬が、じっと見つめているうちに、やわらかく色付いてきたのだ。波が時間を測ってくれるからよく分かる。じわりじわりと頬が染まり、やがては耳まで熱が移っていく。あれだけ淡白だったこいつが、触られて生理的にしか熱を持たなかったこいつが、こんなにも今火照った顔をしている。それを見ている俺の頬も、いつしか燃えるように熱くなっていたのに気がついたのは、祐月が濡れた冷たい額を合わせてきたときだった。
 言葉が、無力だ。互いに目を奪われてしまっていた。恐る恐る、濡れて唇のそばに張り付いた髪に触れると、長い月色の睫毛がうっとりと下を向いた。
 どちらともなく、くちづけた。長い、長いくちづけだった。こんなに大切にしたキスは、こいつと出会ってから、いや、生まれて初めてだった。ファーストキスよりも、大事だと思えた。何もしない、ただのキスなのに、塩味までするキスなのに、こんなにも愛おしく狂おしい。
「なあ、どっか行こう……」
 唇が時間をかけて離れると、俺は呟いた。彼は目線を外して、答えない。
「明日のこととか、もうどうでもいいから……帰りたくねえ、どっか、どっか行こうよ、祐月」
「漣さん、」
 不意に声を上げた祐月は、バシャンと波紋を起こし膝立ちになって俺の頬を包んだ。背の高くなった彼を見上げると、月明かりを背景に、そこには微笑みがある。雑誌に載ったあの表情、ひとを蠱惑するあの微笑みに似た、しかしそれだけではないなにかを浮かべた、俺の為だけの微笑みだ。そして彼はさざ波の音に混じって、俺の為だけの言葉を囁いた。
「行こう、どこへでも、あなたとなら」

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