たわやかな漆黒
夏の匂いがした。生温い風が頬を撫で、絡みつく毛先を大げさにはらう。陽射しから逃れるように顔を伏せれば、わたしを見つめる二つの目と合った。
「ーーお姉さんは嘘をついてるね」
「……嘘なんて、ついてないよ」
額に汗が浮かぶ。拭う素振りをしようと手を額に近付かせれば、眼鏡をかけた少年は一歩踏み出す。
「その手のひらの絆創膏。血が滲んでるよ。どうしたの?」
手のひらに収めるために小さめの絆創膏を貼っていたところを指差した少年は、わざとらしい表情で首を傾げた。
「これは、爪が刺さっちゃったの。思いっきりね。血が止まらなくて、慌てて絆創膏貼ったから、滲んじゃったのかも」
「へえ。本当はナイフを素手で握ったんじゃないの?」
「……まさか。そんなに馬鹿じゃないよ。刃の部分を素手で握ったら怪我するのなんて、君でもわかるでしょう?」
「うん。でも、そうしなければならなかった。お姉さんは逃げずに、真正面から受けて立ったんだよね」
引き攣りそうになるのを堪え、わたしは少年を見つめる。眼鏡の奥の二つの目はわたしから逸らそうとはしない。
「本当は、お姉さんが殺されるはずだった。違う?」
少年の言葉には事実と過信が入り混じっている。僅かに上気した声に、わたしは首を傾げた。
「……確かに、ここに来た理由は借りていたものを返すためじゃない。呼び出されて来たの。でも、嘘をついていた訳じゃないよ。ただ、言えなかっただけなの」
「言えなかった? 疑われちゃうから?」
「言ったら、なぜ呼び出されたかとかも聞かれるでしょう?」
「そりゃあ、そうだろうね」
夏を迎えた陽射しは痛い。小さく肩をすぼめては下ろす。少年が欲しいであろう言葉は、わたしを追いつめる。
「君は嘘がいけないことだと思っているのね」
「言っていい嘘と言っちゃ駄目な嘘があるのはわかるよ。でも、こういう時につく嘘はいけないものだと思う」
「……君は、殺されるとわかっているのに、のこのこと会いに行くの?」
「……え?」
少年は驚いた様子でわたしの目を覗き込む。嘘偽りなど決してない言葉に、少年は弾かれたように頭を振った。まるで、そんなはずはないと言っている気がして、わたしは少しだけ頬を緩めた。
「わたしが彼女に殺される明確な証拠もなければ、わたしが彼女を殺したという証拠もない。机上の空論で物事を言うのはやめた方がいいよ。ねえ、小さな探偵さん」
わたしは彼女に指一本触れてはいない。出くわしたことは本当だが、借りていたものを返すために立ち寄っただけだ。この部分が嘘だとしても、わたしは少年が予測していた行動はしていない。
「……それに、彼女を本当に殺したのは違う人だったでしょう。名探偵の毛利小五郎さんが解いてくれた。それが正解で、事実。君はそれを真実だと思わないの?」
事件も解決し、事情聴取も終え、ようやく殺害現場から離れることが出来たというのに、後ろから追って来た少年によって、わたしの長い一日は終わりそうにない。
「……それでも、僕はお姉さんが正しいとは思えない。お姉さんは彼女のことを、見殺しにしたも同然なんだよ」
「見殺し、か。わたしが殺されてたら、君は彼女に指を突き立てて問い詰めてくれるの?」
そう言って笑って見せたわたしに、少年はなにか言おうと口を開いたがすぐに噤んだ。
「それが探偵だって言うなら、君は可哀想な子ね。疑うのが探偵の仕事かもしれないけど、人の気持ちは目で量れるものではないの」
少年の背丈に合わして前屈みになり、顔の半分を占めている眼鏡を外す。驚いて目を見開いた少年の眼鏡を手にし、わたしは薄く、笑みを浮かべて見せる。
「か、返して」
前屈みをやめて、少年から距離をとるように眼鏡を掲げる。きつく唇を結んだ少年に向けて「随分と、変わった眼鏡をかけてるのね」とこぼせば、少し間を空けて慌てた様子で首を振った。
「ただの眼鏡だなんて、思ってないわ。君、これでわたしの電話の内容を聴いてたわね?」
「だから、わたしが嘘をついているってわかったんでしょう」と続ければ、少年は一瞬だけ驚いた表情を浮かべたが、直ぐ様「なに、言ってるのか……僕、わかんない」取り繕うにしても、あからさまな言葉に思わず笑い声が洩れる。
「小学一年生だっけ? 年の割に大人びているし、色々と言葉を知っているみたいだけれど、嘘をつくのは苦手なのね。それとも、わたしが気付いてないとでも思っていたの? それなら、なんて愚かなの」
陽射しに反射し、眼鏡を通して地面がきらきらと光っている。少年が飲み込んだ言葉を無理矢理、奪うようにわたしは続ける。
「誰が一番、嘘をついているのか。君なら、わかるでしょう? 江戸川コナンくん」
生温い風が頬を撫で、貼り付いていた毛先が煽られる。少年はなにも答えないまま、それでも、視線だけは逸らさずに眼鏡を受け取った。
それ以来、少年とは会うことはなかった。
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夏の融ける匂いに泣いている