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スタートダッシュは絶対であった。

教室の時計はアテにならない。数分ずれてチャイムが鳴ることなど日常茶飯事だ。学校のチャイムも精密ではないので兄のおさがりの電波時計も役に立たない。
だがアドバンテージは机の位置。教室後ろ側の出入り口に近いこの席は迅速な脱出に有利な上に、部活に急ぐ生徒らが殺到するため一時渋滞に陥りやすいのだ―――そこを突く。

すうっと深く深呼吸。机の上のものは全て仕舞い、そっと鞄に片づける。荷物良し、ブレザー良し、心拍数良し。そしてチャイムが、鳴る。

「っあ、おい!」

がたがた、皆が席を立つ。その音に紛れて跳ね飛ばした椅子の音と呼び止めるような彼の声を背に、万全の踏切、廊下に飛び出すまでは計画通りだった。

誤算だったのは下駄箱を目指し角を曲がった次の瞬間。柔らかな何かと正面衝突、尻をつくより早く床についたのは左手首。ずきりと走った痛みに顔をゆがめるのも束の間、名前はがばり、驚き慌てて顔を上げる。そこには名前もうろ覚えな他クラスの女子が目を丸くして立っていた。

「うわ、ごめ―――」
「おい名字っ!」

名前と同じくらい慌てた様子で(ただし名前と違って表情は平均的)で謝ろうと口を開いた相手の女子の声はしかし、背後から飛んできた大声に遮られる。名前はびくりと肩を揺らした。しくじった。逃げられない。

相変わらず表情は乏しいもののその強張りは見て取れたのだろう、顔を上げて急速に距離を詰める男子生徒の接近を確認した他クラスの彼女は、躊躇いこそ消えない顔ながらも膝をつく。

ふわり、香ったシャンプーの香りに名前は横の彼女を見やった。肩まで落ちる黒髪は特別派手でも長くもないが、きちんと手入れされており、指通りのよさそうな艶のある直毛だ。
それに比べて。
視界に入る自分の髪は全力疾走も相まって、いつも以上に空気を抱え込みうねっている。相変わらず透けるような色素の薄さに嫌気が差して泣きそうになった。変わらず無表情ながら唇を噛んでもろもろを堪える。どう頑張ったってあんな風にはなれない。

ばたばたと大きくなる足音がついにすぐそばで止まる。名字お前。降ってくる聞きなれた声にますます唇をきつく噛んだ名前は、彼、花巻貴大にではなく自分へ話しかけてきた女子生徒に心の底から感謝した。

「ごめん、どこか打ってない?」
「っ…はい、」
「でも手は?派手に突いたように見えたんだけど、」
「!」

その指摘に一番に反応したのは、名前当人ではなく花巻だった。さっと顔色を変えしゃがみこんだ彼は問答無用で名前の手首をとる。拒む間もない反応速度になされるがままになった名前は、思い出したように痛みを訴え始めた左手首に咄嗟にゆがむ顔を隠せなかった。

その反応に花巻の顔が一気に険しくなる。何か言わんとした彼に、しかし名前はすぐに手首をつかむ手を振り払った。花巻が息を呑んで動きを止める。走る緊張、彼の視線から逃れて、名前は顔を俯かせた。一瞬の沈黙。花巻が顔をゆがめたのを、名前は空気で感じ取った。

だが幸いにもその空気を再び遮ったのは、少し乱れた名前の荷物を整え集めて差し出した相手の少女。

「ごめんなさい、私の不注意だった」
「、いえ、私の方が、走って…あの、怪我は」
「私は全然。それより手首、一応冷やした方がいいと思うんだけど―――」

不意に少女がちらり、花巻の方を様子を伺うように見やった。視線を感じた彼と噛み合う視線。次の一手を確かめるような視線に花巻は一瞬目を丸くし、対する彼女はその様子に何か心得たらしい。少しだけ笑うと名前に向き直り、さも申し訳なさそうな声でつづけた。

「…私職員室に呼ばれてるんだ。申し訳ない、今度必ずお詫びに行くから」

そうして目を丸くする名前に構わず、花巻の方に向き直って言う。

「すみませんが、保健室まで彼女の付き添いをお願いしてもいいですか?」
「、え」
「!…あ、ああ、」
「ありがとう。本当にごめんなさい」

そんな。
珍しく表に出された名前の焦りの色に気づきつつも、相手の彼女は名前の腕を二度撫でて立ち上がり、あっさり立ち去ってゆく。残されたのは隣の男子生徒一人。喉をせり上がる閉塞感。こんなはずじゃなかったのに。

しかし対する花巻に彼女を逃すつもりは毛頭なかった。座り込んだままの彼女の鞄を取り、質代わりにして退路を断つ。通りかかったバレー部員に声をかけ、少し遅れると告げた声はすでにいつも通りのそれだった。その余裕もが、名前の心を軋ませる。

大きな手は名前の腕を掴むと、ゆっくり引き上げ立ち上がらせた。抵抗こそしなかったものの、見る間に表情を硬直させてゆく名前を見やり、花巻はわずかに顔をゆがめて視線を外した。黙り込む一瞬。けれど間を持たせてくれる存在はもはやおらず、

「…とりあえず、保健室」

なんとか告げた一言に従って、二人は黙って歩き出した。






ここでまさかの保健教諭不在、なんてお約束の展開になれば少女漫画もびっくりの王道コースだったのだが、名前としては幸いと言うべきか、偶然とはそう上手く重なるものではなく。

優しくて評判の保険医に保冷剤を渡され、のろのろと保健室の扉を引いた名前は、案の定、本来ならすでに部活に向かっている筈のクラスメートの姿を見つけて気持ちを重くした。鞄は相変わらず花巻の手元にある。このままでは帰れない。
ちらり、名前のもつ保冷剤を見やった花巻が問うた。

「…手首は」
「……捻っただけ」
「…そ」

降ってくる視線が居たたまれない。背の高い彼の視線をどうしたって一番に浴びるのは、黒くも真っ直ぐもしていないこの色素の薄いくせっ毛だ。

教師に疑念の目を向けられるのも無遠慮な男子に揶揄われるのも、女子からの理不尽な僻みや憶測を投げられることにも慣れている。割りを食うことだって少なくないが、それでも縮毛矯正や黒染めを選ばなかったのは負けん気と頑固さだけが理由ではなく、髪や肌の白さを馬鹿にされ半泣きになって帰るたびに、酷くすまなそうな顔をする両親の存在があったからだ。

それでも今は、今ばかりはその意地を放り出してでも、母の色と父の癖を持って生まれたその髪を晒していたくなかった。同じように色素が乏しく、けれど名前よりやや赤みがかった瞳の下に、彼の一番になることのできないくせっ毛を晒すのが、苦痛でならなかった。

「…髪染めんの、本気なの」
「、…」
「ストパも」
「…」
「……イヤんなったの、その髪」

そうとも、ほとほと嫌気が差した。心の中で吐き捨てて、名前は頑なに口を噤んだ。

たかが髪色と髪質の話だ。人間を構成するパーツのごく一部だなんてことは重々理解している。それでもすまなそうにする両親には決して言うまいと決めているとは言え、コンプレックスの塊には違いない。

けれど、花巻がこの色を好きだって言ってくれたから。結ったり編んだりしてくれて、女の子の友達が増えて、何か言われてもさほど気にならなくなったから。上手に話を振ってくれて、返事を拾ってくれて、そのおかげで血も涙もないマネキンみたいに言われることがなくなったから。
花巻がいてくれたから、毎日がこんなにきらきらし始めたのに。

『その色も、ふわふわしてるのも、』

彼のくれた一言だけで、他の誰がどんなことを言おうが、なびく髪で胸を張っていられるほどに嬉しかったのに、


「俺は好きなのに」


名前は息を止めた。いつかと全く同じ台詞を、脳裏に過ぎらせたのと全く同じタイミングで口にした男に、一瞬思考が白紙になった。

凍り付く心臓が燃え上がる。行き場のない憤りが出口を求めて喉を圧迫した。堪え切れずに押し出されたのは高まる激情に震える一言だった。


「――――嘘つき」
「…は?」

自分の中で吹き荒れる感情が理不尽で支離滅裂なのは、頭の隅できちんとわかっていた。

確かに花巻は自分の髪を褒めてくれた。でも一番だと言ったことはない。好みのヘアスタイルがまっすぐな黒髪ではいけない理由などどこにもないし、名前がそれに文句をつける権利などもっと皆無だ。ただコンプレックスの塊だったこの髪を、人の目から見て魅力になるまでにしてくれたその彼が、自分には絶対に手に入らない色と質の髪を好みだと言った。自分とは全く違うタイプであろう女子が好みだと言った。

それがまるで、裏切られたように感じられた。
理不尽とわかっていながらも、それが名前は辛抱ならなかったのだ。

「嘘だ、ホントは違うくせに」
「はあっ…!?俺がいつンなこと言ったんだよ!」
「この前部活で、部室で言った。黒髪の、ストレートの子が良いって言ったくせに!」
「ッ!?おま、なんでそれ…っ」

荒げた声の勢いを失くし狼狽えた花巻に、名前は唇の裏側を力いっぱい噛み締めた。それでも涙を見せないあたりが負けん気の強さを物語る。これ以上何か言えば崩壊しそうな感情を紙一重のところで抑え込み、押し殺すように喉を開けば、絞り出すように言葉が漏れた。

「―――私は好きなのに、」

ピンクブラウンの髪も、同じ色をした瞳も、悪戯に笑う顔も優しい低い声も、髪を梳いてくれる長い指も。飄々として見えて負けず嫌いなところも、大人びて見えて無表情で拗ねるところも。わかりづらさに定評のある自分の表情を一目で解し、一番欲しいものや言葉を与えてくれる優しさも。
私は好きなのに。

「花巻のことが、好きなのに」

でももういい、もう十分だ。これ以上話したって無用に傷つくだけなのだ。
今度こそ立ち去らんと足を踏み出す。しかし彼女の歩みが始まることすら許さなかったのは、その腕を勢いよく引いた花巻の手のひらだった。
ぐるり、力任せに振り向かされ、目を剥いた名前は花巻を見上げる。そこには普段の飄々とした彼からは想像できない、焦りを露わにした表情があった。

「ア、レは!顔がっ、お前に似てたから!」
「…っ?」
「っこれ!」

細腕を掴んだままスマホを取り出した花巻が慌ただしい指使いで画面を操作する。なにやらいろいろ追いつかず呆然とした名前が怪訝な思いに至るより早く、彼は「ほら!」と水戸黄門よろしくスマホ画面を突き出した。

鼻先に迫ったそれをやや仰け反りつつ名前は見つめる。液晶上で微笑んでいるのは確か最近話題の可愛らしいアイドルだ。ちなみに水着姿の彼女の髪は見事な黒髪ストレートである。

「…」
「…」
「…髪の毛、」
「ちっげぇよカオ見ろカオ!」
「…」
「…」
「…全然似てな、」
「俺には!似てるの!お前に!」

名前は花巻を見上げた。眉間にしわを入れた彼の不機嫌な顔が、必死さを隠しきれていないのはすぐにわかった。
名前は再び視線をスマホに、それから足元に落とす。握られた腕は痺れていた。

「……花巻、腕痛い」
「…逃げないって約束しろ」
「痛い」
「……約束して」

取り繕うのも諦められた剥き出しの懇願に、名前はやっと頷いた。さすれば腕を離した手のひらはしかし、流れるように彼女の背へ回り、長い腕が彼女の体を包み込む。

ぎゅう、と抱きすくめられたその思いもよらぬ抱擁に、名前はかちんと硬直した。ふわふわの髪に、薄い肩に顔をうずめるように屈み込まれ、見知った彼の匂いが、今までにないほど強く感じる彼の体温と共に伝わってくる。長く長く吐き出された吐息の熱さに、心臓がどくりと大きく跳ねた。

「…避けてたの、その所為?」

迷って黙って、小さく頷く。目視だけでは見落としそうなほどの肯定も、鍛えられた胸板にうずもれる今はきっと直に伝わったはずだった。
大きく吐かれたため息は呆れたようにも安堵したようにも聞えて、けれど紡がれた声はいつもよりやや拗ねたようなそれだった。

「…言っとくけど、俺別に、名字の髪とか顔だけが好きなんじゃないから。そりゃ見た目も好きだし、知り合ったきっかけも髪だったけど、…たとえ黒髪ストレートだったとしても名字は名字だろ」
「…うん」
「俺は、お前だから好きになったの。お前が好きだから、髪も目もひっくるめて好きなの」
「……うん、」

ほろり、不思議なほど当たり前のように涙がこぼれて、名前はまたぎゅっと内唇を噛み締めた。今日で何度歯を立てられたかわからないそこがじくじくと痛んで、目の前が一層霞む。
耳元で直接注がれる囁きが流れ込んだ先で火傷をつくる。一杯に満たされた心臓が痛い。

そっと背中を解放され、ゆっくりと体を離される。上げた視線を遮るように前髪をよけられ、耳元まで流されて、横髪を耳にかけられる。いつもと同じ手順なのに、いつもよりずっと慎重に触れられるところが、やっぱり火傷するんじゃないかと思うほど熱く疼いた。

「…わたしも、」
「!」

手のひら一杯使っても包めない手が、頬に触れるのを捕まえる。ぎゅうと手首を捉えれば、頬を包む手のひらの硬さに、骨ばった指の感触に、じんじんと心臓を締め付けられた。
目を合わす余裕なんてどこにもない。ただ言葉を出し切るだけで精いっぱいだった。


「花巻じゃない人が、花巻とおんなじ色でも、好きになんかならない」

花巻じゃなきゃ、好きにならない。


心に紡いだそのままの何の飾りもない言葉へ、目を伏せ言い切った名前に、告げられた花巻は目を見開く。
自分の手首を一生懸命に捉える小さな手の傍、長い睫の下に隠された瞳はきっと、淡く柔らかな髪と同じ色をして窓辺の陽光に透けるのだろう。思い描けばどうしても欲しくなる飴色のそれをねだるように、屈み込んだ彼は彼女の方へ顔を寄せた。


end.
160425
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