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時は昼休みに遡る。

名字名前は憤怒していた。
否、その感情はもっと複雑で面倒で、多分悲しさとかショックとか失意とかいろんなものを詰め込んだごった煮に違いなく、敢えて言うなら投げやりになっていた、その一言に尽きる。
見た目から誤解されやすいが、何度でも訂正しておこう、名字名前は生憎のところ何かあったら可愛らしく泣き寝入りするようなお約束系女子ではない。色素と表情筋が足りない代わりに行動力は人並み以上。そんな彼女が三日も煩悶したのは大した健闘ぶりであり、結果メーターを振り切らせ半ば自棄に近いアクションに出たのはある意味必然だった。

だがそれに巻き込まれる身にもなってほしい。及川徹は切実に思う。

「髪を染めて、真っ直ぐにするには、どうしたらいいの」

及川は目を点にした。言われた内容を反芻し、目前の人物のプロフィールを思い出し、簡潔に一言「ん?」と聞き返した。目の前には変わらずハーフかと見紛うほど細く淡いふわふわの天然パーマ、同じ色をした大きな瞳と白磁の肌。見れば見る程人形のようだと言われるのも頷ける彼女からの思いもよらぬ問いかけは、耳を疑い尋ね直した及川を裏切り、一言一句違わず繰り返された。

「髪を染めて、真っ直ぐにするには、どうしたらいいの」
「…オーケー、いや、ちょっと待とう。まず落ち着こう」
「わかった。落ち着いて、及川くん」
「いや俺じゃなくて君がね!?」
「私は落ち着いてる」
「全ッ然でしょ全然冷静じゃないでしょ」

今更の事実だが名前は生来天然パーマだ。細い髪は色素も薄く、入学当初は何かと目立ったし教師からの目もあった。だが二年になった今要らぬ誤解は解け、彼女の髪をとやかく言う輩はほとんどいない。
つまり何かと言えば、その生来の髪をどうこうする外的要因はほぼ存在しない今、彼女に髪を染めたり伸ばしたりする必要がなぜあるのかということだ。

「どしたのいきなり、また煩く言うヤツでも出てきたの?」
「…そういうわけじゃ、ない。でも、染める」
「けど、またなんで?」
「……なんでも」
「……」

名前に口を割る意志はないらしい。及川は一瞬黙した。そして瞬時に分析する。髪染めとストパなら美容院に行けば済む話だ。それを灯台下暗しと言うべきか、わざわざ苦手意識の残る(と認めるのは悲しいが)俺に聞きに来た時点で名前は全く冷静ではない。
そう、何よりおかしいのはその冷静でないこの時、「俺に」助言を仰ぎに来たことなのだ。いつもなら誰より先にあの色素の薄い友人の下へ足を向けるはずである。

脳裏を駆け巡る幾多の情報と推測。察しの良さでは他の追随を許さぬ及川である。この時点で事の全容に見当を付けつつあった彼の洞察力はさすがのものである。
及川は敢えて核心には触れずに尋ねた。

「…何色にしたいの?」
「………黒」

随分と空いた間とその答えに確信した。三日前からの異変、マッキーの数学のノート、その日の部室での話題。
及川は踏み込んだ。満を持して切り込んだ。

「じゃあ、いつもみたいに、マッキーに相談しなかったのはなんで?」
「―――花巻には、言わない。絶対言わない!」

頑なな声音が本当は少し泣きそうなのは筒抜けだった。やはりそうか。あの時の話題、何気ない会話の断片を彼女はドア越しにでも聞いてしまったのだろう。
だがそれならば話は早い。及川は少しの呆れと安堵を持って苦笑した。人心把握術と洞察力に長けた彼のシナリオに穴はないはずだった。

「名字さん、それって―――」

唯一の誤算たる、タイミングを除けば。

「……なんだよ、それ」

ぽつり、独り言のような呟きが鋭利な冷たさを纏って廊下に砕け散った瞬間、空気が凍り付いた。

及川は名前の表情がここまで揺らぐのをかつて見たことはなかった。愕然という言葉が最適であろう色を浮かべた彼女の瞳が向かう先は自分の肩越し、その背後。聞き間違えるはずもないチームメイトの低音に冷や汗が垂れる思いで振り向けば、一切の表情を消し飛ばしたピンクブラウンが無機質な瞳で二人を捉えていた。

「あ、あっれーマッキーどうしたの!?岩ちゃんたちとご飯食べ」
「うるせぇ及川黙ってろ」
「……ウッス…」

あっ駄目だこれマッキースイッチ入ってる。及川は天を仰ぎそうになった。

「…髪、染めんの?あとストパも」
「…」
「俺には言えないんだ。なんで?」
「…」

吹雪く空気は極寒である。上背180弱が普段見せない威圧感全開で対峙する様はまさに尋問。名前は答えなかった。足元だろうか、落ちた視線は花巻に向けられることはない。その顔にはいつもの無表情が、しかし引いた血の気と強張りと共に鎮座している。

黙秘を貫く名前を前に、増し加わる花巻の苛立ちが刺々しく空気に伝播する。その涼やかな双眸に閃いた光の昏さに、いよいよマズイのではと危惧を強めた及川の勘は的中した。

「…もしかして、誰かの為とかそういう?」

ぱきん。すでに凍えていた名前の気配がひび割れる音を聞いた気がした。
図星だ。わかりづらい名前の機微に最も通ずる一人である花巻にとって、それは十分に明確な肯定だった。

なんだそれ。花巻の脳裏に、ミルクティーにもモンブランにも例えられるその癖っ毛を結ったり整えたりしてきた日々が駆け巡る。相変わらず肩下へ伸びることはなかったにしろ、少なくともコンプレックスであったその髪が嫌いでなくなったのではなかったのか。嬉しそうに微笑んだあれはもう心変わりしてしまったというのか。

花巻の顔が僅かにゆがむ。剥がれる無表情に滲むのは行き場のない不満だ。俯いた髪に隠れ見えない名前の瞳が、花巻をさらに苛立たせた。

「へえ、そう。まあそりゃ、俺には関係ないしネ、好きにすればいいけど」
「おいマッキーそれくらいに、」
一発ぐらい殴られるのはもう仕方ない。腹をくくった及川の制止はしかし一歩遅かった。


「黒髪ストパはやめとけば?お前には絶対似合わねーから」


突き放すような声音に滲む冷たい嘲笑か。それが名前に向けられたものなのか、彼自身へ向けられたものなのか、判別をつける間はなかった。

がっしゃん。塗り固めて塗り固めて、名前を守る最後の砦となっていた鉄壁が、とうとう完全に砕け散った。永遠とも思われた間を超えて、この対峙が開始して初めて紡がれた名前の声は恐ろしく無機質に冷え切っていた。

「―――そんなの知ってる」

じゃあ、やめる。

一語一句をぶつ切りにした華奢な体躯からあふれ出るのは拒絶のオーラ。棒立ちになっていた足を踏み出した名前は、花巻には一瞥もくれず大股でその横を通り過ぎ、あっと言う間に駆け足になると階段を駆け上ってゆく。
風を切って通り過ぎる姿、遠のく足音と残された沈黙。ついに繕いきれず表情をゆがめた花巻に、及川は辛抱堪らず声を上げた。

「だああっもうマッキーのバカ!」
「あ?っせぇな誰が馬鹿だよ」
「マッキーがだよ!あの子が髪のことでマッキー以外に相談するわけないだろ!」
「はあ?実際してただろ今。つーかお前ンとこには何回か行ってるし」
「…たとえそうだとしても、あの子にあんな言い方タブーなのはお前が一番わかってるだろ」

花巻のつっけんどんな物言いについに及川が声を低くする。名前のコンプレックスはわかりづらいだけで筋金入りだ。それを認め、慈んできた花巻に、どれだけ名前が心を許しているか。付き合いの浅い人間にだって見ていれば十分わかることだ。

言外に含まれたそんな糾弾に口を噤んだ花巻は黙って及川を睨みつける。その様子に及川はため息を吐いた。ここで仲間割れしたところで何のメリットもない。
仕方ない、当人同士で確認すればいいと思ってはいたが、こうなれば思い当たる事の発端を告げる方がいいだろう。そう判断した及川が口を開いた、しかしその時だった。

ガタガタガッタン。

椅子が床に叩きつけられる不穏な音に、二人はそろって階上のある天井を見上げた。これだけ物音が鮮明に響くのは基本的に、傍の階段を曲がってすぐにある教室からでしかありえない。そしてそれは花巻と、先ほどこの場を立ち去った名前の属するクラスであり。

何かあったのか。
胸をよぎった嫌な予感は花巻・及川両名にシンクロしたようだった。弾かれたように駆けだした花巻を追い、及川もまた階段を駆け上る。

その結果を間に合ったと呼ぶべきか否かはわからない。
しかし明らかに名前の手にあったものであろう鋏を手に、俯く名前を背に回して自分を諌めたチームメイト二人を見たとき、花巻が雷に打たれたような衝動に駆られたのは間違いなかったのである。


160416
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