▼ ▲ ▼

「うわ、またドロドロにしてる」

液体でも個体でもない、冷えた不定形を左の手のひらに絞り出す。目の覚めるようなロイヤルブルー。右手の中指と薬指で塗り拡げ、掬い取った白を混ぜ込んだ。混ざりきらないマーブルのまま、指ですくってキャンバスに塗り付ける。
塗って塗って物足りなくなって、結局手のひら全部を使って塗った。ブルー。月光を帯びる湖。…乗らない。今回も駄目だ。

「おはよう」
「もう放課後だよ。ていうか筆は?」
「面倒でやめた」
「そんなんだから絵具使い過ぎってまつもっちゃんに言われるんじゃん」

苦笑する友人に肩をすくめて見せる。渋い顔をする顧問を思い出し、思わず顔をゆがめた。だったら好きに描かせてくれ。何度も言ってきたそれが聞き入れられたことはない。

「紫乃っていつから手で描くようになったっけ」
「筆が嫌になってから」
「だからそれいつなの」
「古過ぎて忘れた」
「なにそれ」

呆れたように笑う友人は自分の作業用エプロンを身に着け、描きかけのキャンバスに向かった。その手にはよく手入れのされた絵筆と古びたパレット。モチーフは深い森。朝焼けの前、白銀の霧と静寂に沈む木々。
快活で明るくスポーツも出来る彼女は、クラスの女子に馴染んでしまえば本当にごく普通の女子高生にしか見えない。だが私はこの子の人間性、真価とも言える本質は、筆を握った時に初めて明らかになると思う。流行りのファッションとスタバの新作で思考容量の三割を潰すような人間に、この仄暗い崇高さを帯びる美しい絵を描くことはできまい。

「良い絵だね、朱音の」
「紫乃のがずっと上だよ。私のはなんか、教科書っていうかビニール栽培みたいな」
「そんなトマトみたいに思わないし、私の絵は好きでもない」
「またそうやって。じゃあ何が描きたかったの」
「…これってのはないけど、これじゃないんだ」
「でも描いちゃうんでしょ?」

呆れたように笑う彼女に嫌味な調子はない。仕方ないなあ、そんな風に笑って許してくれるのは彼女と前の部長だけだ。
厄介者をしている自覚はある。前部長には「お前は天性の絵描きなのに、絵さえなけりゃ優等生なんだよなあ」なんて言って笑われた。それでも部長は私が色だけの絵を描いても、嫌になったモチーフを途中放棄しても、手で塗るせいで絵具を山ほど消費しても、苦言を呈する顧問をいなしてそれで良しとしてくれた。

今回のテーマは「時と自然」。画材は自由。だから参加を了承した。油絵限定なんて言われたら絶対描きたくない。さすがに油絵具を相手に手で描くのは無謀過ぎるし、手への負担が半端ない。でも筆を持つのはやっぱり面倒だ。

「紫乃はさあ、本気で絵筆で描いたらものすごいことになると思うな」
「革命的に下手ってこと?知ってる」
「それ本気で言ってる?全国レベルの大賞になるってこと」

先生も言ってたじゃん、と悪気なく笑う朱音に私は閉口する。求められていることは知っている。筆で描けばわかりやすく繊細で美しい絵が描けるのだから。他人の受けも良いし、賞を獲れば学校も騒ぐ。

王道の美しさ、万人に通じる美。まるで清すぎる小川のようだ。棲むどころか息継ぎさえままならない。
画家ぶって語るようで自分でも嫌だけれど、"これ"じゃないと気づいた時から、私の中で何かが変わってしまったのは確かだと思う。それが埋もれていただけの本来の姿なのか、それとも変質の結果なのかは今でもわからない。

ただ渇く。片づけきれない感情が上手く色にならないことが増えてから、私の中の何かはもうずっと渇きつづけている。

「紫乃は自分の絵があんまり好きじゃないかもしれないけどさ」
「うん」
「私は紫乃の絵、いいと思うよ」
「…ありがとう」

優しい肯定がささくれた心臓を宥める。それでも浮かべた笑みはすぐさま消えた。
べったりと手のひらに乗った青が少しずつ乾いてゆく。その上に真っ赤なカーマインをぶちまけて、目の前の月光輝く湖面を斜めに切り裂いてしまいたい衝動を、白混じりのマーブルごと握りこんだ。

絵を描くのは好きで嫌いだ。評価も批評も賞も要らない。描いた絵一枚に私のすべてを見たように語る審査員の審美眼などどうでもいい。
私はただ呼吸がしたいだけだ。このどうしようもない閉塞の内側で、せめてわずかな酸素を求めて澱を吐き出したい。それだけだ。

151021
また面倒な主人公になりそうです。
ALICE+