▼ ▲ ▼

発注した絵具が届いたという知らせを受け、職員室まで赴いた放課後。段ボールにぎっしり詰まった絵具は業務用の特大サイズのチューブばかりで、これで暫くは顧問に頭を下げないで済むなあなんて思う。備品のための十分な予算を下ろしてもらうには、わかりやすい実績が必要だ。そのため私は年に数か月を煮ても焼いても食えないような絵のために費やすことになる。うんざりするけれど、そのおかげで少なくとも数枚は好きに描いても文句を言われなくなった。これはその報酬である。
そんな戦利品兼これからの戦友を抱えてえっちらおっちらと廊下を進んでいれば、不意に後ろから声がかけられる。

「北村?」
「、…松川」
「久しぶりだな」
「そうかもね」

目測数十メートルはあったはずの距離をわずかな歩数で縮めながら、ジャージ姿の友人が近づいてきた。松川一静、中学時代からつかず離れずの友人だ。女子的な感覚でいうところの友人と呼ぶには絡みが少ないのだが、男子というカテゴリーで考えればよく話す方だし、なにより松川自身が常に自然体で話しかけてくるので変な緊張もない。中学から一緒の顔見知り、そんな感覚で気さくに声をかけてくれる。

「それ何?」
「絵具」
「美術室まで運ぶの?」
「そうだよ」
「貸して、手伝う」
「え、いいよ、部活でしょ?」
「ちょっとだし大丈夫」

見上げるようなジャージ姿は彼が今部活の真っ最中だということを語っている。確かに重いけど運べないわけじゃないし、厳しい運動部の彼の時間を取るのは申し訳ない。そう渋ったが、大きな手で軽々と箱を奪われてしまえば、私に成す術はなかった。

「ごめん、ありがとう。時間大丈夫?」
「休憩中だし、どっちにしろ職員室に呼び出されてたから問題ねーべ」
「…じゃあ甘えようかな」

爽やかなミントブルー。高校生にしては大人びすぎた容姿の彼にはちょっと爽やかすぎると最初は思っていたが、今ではしっくり馴染む色だ。絵で使ったことはない。

「今何描いてんの、北村」
「なんか、湖」
「説明テキトー過ぎるだろ」
「好きで描いてるんじゃないし」
「あーまたコンクールか」
「青が嫌いになりそうだ」
「青に罪はないだろ」

緩やかに返される返答には角がない。彼の物言いはいつもこうだ。核心の場所を知っていながら、その少し隣にそっと収まるような、そんな話し方。私のものでありながら私には手の付けられないものも、彼にはきっと見えている。それを不快に思うことがないのは、松川がそんな素振りを見せないためだ。

「あ、じゃあついでに見てっていい?」
「絵を?まだ完成してないよ」
「いいよ別に」
「多分面白くないと思うし」
「まあ確かに北村の絵は面白いってタイプじゃないけど、俺は結構好き」
「…じゃあまあ、お好きにどうぞ」
「サンキュー」

油とアクリル、ポスターカラー。混ざり合った絵具の匂いが染み付いた部室には、まだ私以外の誰もいなかった。彼は段ボールを置くのもそこそこに、見上げるのに首が痛くなるような身長を折り曲げて、まじまじと描きかけの青を凝視する。

「はー…相変わらずすげぇな…」
「…みんな大体それくらい描くよ」

返事はない。瞬きすら惜しむようにキャンバスに食い入る姿に、私は黙って段ボール箱を開けた。物好きな人だ。描けと言われて描いた絵ほど中身のないものはないというのに、彼はその空っぽの器さえいつも上手だと褒める。
でもそのひねりのない褒め言葉は、来賓席にふんぞり返る審査官のこじゃれた批評よりずっと好ましい。彼は美術の世界の人ではないが、少なくとも私の絵より前に私という人間を知る人だ。

「今回も手で描いてんだ?」
「、わかるの?」
「なんとなく。ここ、ダマになってて立体っぽい」
「あーほんとだ」

松川はそれからさらに五分ほど飽きもせずに未完成の湖を見つめていた。私は絵具の整理を終え、水を用意し終わった。

「これ描き終わったらどうすんの」
「…多分またコンクール」
「そっか。んじゃ、それも見に行くわ」
「え、それ絶対今以上に面白くないって」
「だからそうでもねーって。そりゃ解釈とかは絶対できないけど、普通に興味あるし」
「…松川って変だね。今更だけど」
「大事なファンに向かって酷いな」

いつの間にファンになどなったのか。呆れて笑うも、彼は飄々と笑むばかり。
絵に詳しいわけでも休日に美術館に通うようなタイプでもない彼は紛れもなく体育会系、敢えて言っても理系どまりだ。しかし昔からのよしみだからか、松川は思い出したころに私の絵を見にやってくる。私さえ何を描いているかわかってない絵ばかりなのに、それを理解しようとするでも評価するでもない、ただ見にやってくるのだ。その姿勢は彼の寄り添うような物言いにも似ている気がする。

「松川、部活そろそろいいの」
「え、何時?…うわヤッベ、」
「万一なんかあったら手伝わされてたって言って」
「それはナシ。俺が手伝うっつったし」
「あれを私一人に持たせた顧問が悪いってことでFA」
「とんだ濡れ衣だな」

なんて言いながらも笑って頷く松川を見送りに美術室を出る。じゃあな北村、口端だけ吊り上げてひらりと振られた大きな手に手を振り返し、階段を下りてゆく大きな背中を見送った。彼は確か二年になってすぐレギュラーの座を手に入れたはずだ。きっと厳しい練習が待っているに違いない。
戻ってきた静寂を踏みしめて部屋に戻り、パレットを手に取る。その時気が付いた。見覚えのないタオルがキャンバスの傍に落ちている。

「…松川の」

そういえば首にタオルをかけていた気がする。水色のそれを床から拾い上げ、絵具汚れが付かなかったか確認する。アクリルなんかがついたら大変だ。確認すると、アクリル絵具ではないもののポスターカラーの白がついてしまっていた。まだ乾いてはいない。

すぐに水道でタオルを洗い、絞って窓の手すりに干した。帰るまでに乾きはしないだろうし、持って帰ってちゃんと洗って返そう。バレー部はいつも遅くまで練習しているし、邪魔するのも悪い。
私は新品の絵具をパレットに絞り出した。一応筆を握るが、多分そう長くしないうちに、後輩が来るころにはまた手が絵具まみれになっているだろう。

151027
ALICE+