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関西の夏は茹だるように暑い。東北に生まれ育った私はそう思う。
スーツケースを転がして一人進む田舎道に人気はなかった。真上から降り注ぐ太陽が頭の上をじりじり焦がすのが分かった。少し顔を上げればアスファルトを揺らめかす陽炎が目に入る。目前に佇む日本家屋に足を止めた。
「来たか」
がらり、引いた引き戸の向こうから、外の熱気もどこ吹く風と言った自然な冷気が流れ出した。家の中だけ夜のようだ。
短い白髪、藍染の着流し。佇む痩せぎすの姿と厳格な気配に変わりはないように見えた。
「…お世話になります」
頭を下げれば一拍おいて、足音が廊下を遠ざかる。私は玄関の敷居を跨ぎ、冷えた石畳に靴を脱いで揃えた。
いつもと同じように、祖父の家は静かだった。
襖を取っ払った客間を抜けて見える広い縁側から注ぐ夏の日差しは、アスファルトを焼くそれと同じとは思えない丸みを帯びて畳を温める。土壁が呼吸していると言うのは本当なのだろう。
物の少ない閑散とした部屋の隅にスーツケースを運び込み、私は客間の奥の壁を見やった。梁の向こうに見えたそこにかけられたままの絵に、心臓が変な音を立てて目を背けた。
「食うか」
居間に戻ると、祖父は小鉢に入った甘納豆と冷えた麦茶を用意してくれていた。祖父が甘いものを好かないことを私は知っている。わざわざ買いに出てくれたのだろうと思って、丁寧に礼を言って食べた。そして思い出す。祖母ちゃんも甘納豆が好きだった。
「祖父ちゃん」
「なんだ」
私に背を向け、食器を拭いている祖父の背中に声をかける。迷いも素っ気もない声が投げ返されてきて、私は言葉を見失いそうになった。黙した私を祖父が振り向く。
「…絵、まだ飾ってたんだね」
顔を向けながらも視線を合わせられなかった私に、祖父は暫く何も言わなかった。そうしてようやくただ一言、「ああ」とだけ返し、再び黙々と食器を拭く作業に戻っていった。
三年前、私が描いた死装束の祖母の絵を、祖父はもうずっとこの家に飾ったままでいる。
客間に小さな机を出し、私は帰省一日目の午後をまるまる宿題のために費やした。
二日目は祖父ちゃんの畑で過ごした。トマトと茄子を収穫して、路上販売のためにビニール袋に詰めた。
三日目には朱音から連絡が来た。花火大会に行かないかという誘いだった。日付を聞けば明後日。まだ祖父の家にいるのだと告げると、大層残念がってくれた。
四日目、することがなくなった。ちりん、風鈴が鳴る。縁側に注ぐ陽光は今日も眩しい夏色をしていた。
畳に仰向けになる。頭を傾け見やったそこには、眠りにつく死装束が佇んでいた。
急にどうしようもなく胸が苦しくなって、寝返りをうって背を丸めた。ぎゅうと目を瞑ってイグサの香を目一杯に吸い込む。
「紫乃」
祖父ちゃんの声がする。目を固く瞑った向こうに、衣擦れの音がして畳が擦れた。
横たえた頭の上に年老いた手が乗せられる。枯れ木のように細く薄い、年月を経たしなやかな手。
心臓が痛い。息が苦しい。頑なに眠ったふりをする私に、祖父はいつもと同じ厳格な声のまま、淡々と簡潔に言った。
「お前のせいではない」
返す言葉は出なかった。
祖父の家に来て五日目の夜、松川から電話があった。
「…もしもし?」
『よ。今ヘイキ?』
「大丈夫だけど…どうかしたの」
『いや、どうしてっかなーって思って』
帰省中の様子すら気にかけてくれたらしい友人に思わず呆けた私は眼を瞬かせた。松川ってやっぱり出来たヤツだ。いや、単に私が放っておいたら勝手に死んでそうに見えるからかもしれないけれど。
否定できない推測に一人肩を落としながら、蚊取り線香を炊いた縁側に腰掛ける。夕食を済ませた後の庭は静かだ。
「どうもしてないよ。普通」
『その普通の内容が気になるの』
「…松川ってやっぱたまに変だ。趣味とか」
『なんでここで趣味出たよ』
「ていうか、今日花火大会じゃなかったっけ。電話してていいの?」
『俺だけ早抜けしてきたからヘーキ』
「なんで?」
『そりゃだって、お前いないし』
思わぬ台詞にまたも呆けた。互いの息遣いだけが電話線を行き来する。
「…変なの。せっかくなのに」
『いいんだよ』
松川が小さく笑うのが聞こえた。不意に、その眠たそうな笑顔が見えないことが奇妙に思えた。そういえば、松川と電話するのって初めてかもしれない。
不思議だ。まるで東北に戻ってきたような錯覚がすると同時に、友人の姿が見えないことが私に600キロの距離を思い出させる。
『北村、なんかあった?』
「…なんで?」
『声。いつもとちょっと違う』
「……気のせいだよ」
電話線が沈黙する。私はその静寂の向こうで、松川がそれを言おうか慎重に測っているのを感じた。互いの息遣いだけが微かに聞こえてくる。松川が私の名前を呼んだ。
私は彼が迷っていたその何かを言うことを決めたのだとわかって、口をつぐんで身構えた。
『俺はさ、お前が口下手なのも、すげえ不器用なのも知ってるわけ』
「、…うん」
『めっちゃいろいろ考えてんのに、なかなかカタチになんないんだろーなってのも何となくわかってる』
「……うん」
『だから、上手く説明できねーからって、何でもかんでもなかったことにするのヤメロ』
とん、と。無防備に晒した胸をやすやすと射抜かれた、そんな気がして息が止まった。
『…俺は北村が何考えてるか、そりゃ言ってくんないとわかってやれないけど。けどどうしても言ってほしいわけじゃないし、お前が絶対説明しなきゃダメってわけでもないだろ』
「…」
『だからさ、なんかあったなら、あったって言ってよ。上手く言えねーならそれでいいから』
ぐらぐら、心臓が揺れる。ぎりぎりのところでバランスを保っていたそれが、度重なる衝撃で足場を崩されて、今にも落っこちそうに傾いている。不用意に言葉でも出そうものなら、真っ逆さまに落下してしまいそうに。
あばらの内側が締め付けられるような錯覚。喉の奥が酷く痛いのを堪えて、殆ど絞り出すように言葉を押し出した。
「……苦しい」
『…』
「わかんないけど、…わかんないんだけど」
『うん』
「苦しい、まつかわ。息が、上手に出来ない」
『…うん』
耳元に届く低い声に縋りつくように、膝を抱えて顔を埋める。蒸し暑い夏の夜のはずなのに、丸めた背中が寒々しくて仕方ない。祖母ちゃんが死んでから、もうずっと、私は上手く生きていけない。
あの時からずっとそうだ。描かなければ窒息してしまいそうで、でも描いたって突き動かした衝動の答え合わせをしてくれる人は誰もいなくて。
それでも自分には描く以外に能がない。
祖母ちゃんはもうどこにもいないのに。
「祖母ちゃんに、あいたい」
『、』
目の縁が熱い。どうにかこうにか吐き出した言葉で喉が焼き切れそうだった。火傷しそうなほどの熱が瞼の縁を乗り越えて、抱え込んだ膝の頭を濡らす。
駄目だ、松川。やっぱり上手く言えないよ。
「わた、わたしの、せいなのに」
だって、祖母ちゃんが死んだの、私の所為なんだよ。私が絵具を切らさなかったら、祖母ちゃん出かけずに、轢かれずに済んだのに。
私のせいじゃないなんて、祖父ちゃん、それは嘘だよ。
「松川、わたし、…まつかわ、」
『聞いてる。…ちゃんと聞いてるから』
どうしていいかわからないんだ。ひとを描こうとするたびに思い出すんだ。胸一杯に満ち溢れる冷たい鉛はあの時から少しも変わらない。生々しいまま重たいまま指先まで広がって、息が苦しくて身動きがとれなくなるんだ。
160312