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茹だる様な真夏の午後だった。

田舎道にぶつかって膨張する蝉の大合唱。照りつける太陽と、濃い青をした空に立ち上る入道雲の突き刺さる様な眩しい白。

絶え間ない蝉の声が聴覚を一杯に満たして鳴り響く。見下ろした自分は制服を着ていた。中学の頃の紺の制服。特に柄もないプリーツスカートの下、足元だけは高校に入って買ったローファーが一足ずつ。

みーんみーんと蝉が鳴く。肌を焦がす熱線。
道路の真ん中には車が止まっていて、人が集まっていて、誰かが電話を片手に大声を上げている。向こうに見えるのはこの町には無いはずの自分の高校。

ジワジワジワと蝉が鳴く。それ以外には何も聞こえない。
心臓がゆっくりと温度を失っていく。氷の塊のような現実を吸い込んで、ゆっくりと息絶えていく。

「     」

唇が動く。聞こえない。蝉の大合唱。頭が割れそうで、





「――――ッ、」


こじ開けるように瞼を持ち上げた。一瞬体がどこにあるかわからなくなった。

横になっている。頭の下にあるのは枕、お腹にまとわりついているのは布団。ゆっくりと戻ってくる現実の答え合わせをする。そうか、自宅か。そして朝だ。

じっとりと汗をかいた背中が気持ち悪い。目の前がぐるぐるする錯覚。眩暈に似た感覚に吐き気がして、振り払うように仰向けになった。カーテン越しの窓の向こうで空はまだ薄暗い。時計を確かめる。まだ五時過ぎだった。昨日寝たのは確か一時前。

「……、」

身体が重い。もうここのところずっと寝た気がしない朝が続いている。夜更かしと早起きが比例している。そんな逆転現象に体がついてきているかといえば全くそんなことはないのに、日の出前には引き摺りあげられるように意識は浮上し目は覚める。

寝た気がしない。重い頭を持ち上げベッドから身を起こした。ほとんど惰性で支度を始める。その時突然、リビングの電話が鳴るのが聞こえた。

「…、」

こんな早くからいったい誰だろう。いや、誰でもいいが、このままでは家族が起きてきてしまう。
独りきりで迎えた朝、今誰かと顔を合わせる気にはなれない。私は出来る限り足早にリビングに向かい、受話器を取った。もしもし、と寝起きのみっともない声を繕って電話線の向こうに問いかける。届いた声には覚えがあった。

『紫乃か』
「、……祖父ちゃん?」

淡々として乾いた声が鼓膜を握りしめ、一瞬自分の耳を疑った。受話器の向こうのその人は、年老いてもなお厳格さを失わないはっきりした声で、けれど急ぐことなく静かに尋ねた。

『眠れなかったのか』
「…偶々だよ」
『…そうか』

どうしたの、父さん呼んでこようか。聞いてしまえばいいそんな簡単な一言を出せないまま、私は電話線一本でつながった沈黙に身を投じた。
なぜ祖父がこの朝早い時間に電話をかけてきて、要件も告げずに私の睡眠事情を尋ねるのか。普通なら不可思議極まりないところのはずなのに、私は何となく、これを単なる偶然として捨ておく気にはなれなかった。

『盆は、帰らないのか』

私は口を噤んだ。働かない頭に巡る血が鈍く滞るのを感じた気がした。

透明なまま、形のない曖昧な推測が確信の色を帯びる。祖父の問いが、息子家族の一員としての私に向けられたものでないことは直感的にわかっていた。
私はカレンダーを見やる。男子バレー部は確か、インターハイ予選のため今週末から体育館を空けることが増えると聞いている。

深く息を吸う。胸に巣食う迷いが場所を取って上手く呼吸できない。形にならない圧迫を噛み砕くようにして口を動かした。

「……今週末、行くよ」
『…わかった』

ぷつん。電話口が軽い衝突音を立てたのを最後に通話が切れる。私は受話器を元に戻した。





「北村」
「、どうかした、岩泉」
「どうかしたのはお前だべや。最近ちゃんと寝てんのか」

鉛筆を手にしたままこちらをふり向く紫乃の何でもない声音に、コイツ無自覚かと岩泉は眉間に皺を入れた。捩じられた細い首の白さに、そのうち頭が落ちてしまうんじゃないかなんて一歩間違えればスプラッタな感想が頭をよぎる。だが今は何よりその顔、そしてその目の下のクマだ。

この数日、紫乃の顔色は日を追うごとに悪化していた。普段からなんとなく浮いた空気を纏っているとは言え、皆で弁当を囲んで笑う時なんかにはナリを潜めていたはずのあの仄暗い気配が、日増しに濃く重く彼女を押し包んでいくような気がしてならない。
それと同時に濃くなってゆく目の下のクマと血の気のない頬は、目に見えて睡眠不足を示唆している。険しい顔をした岩泉に、紫乃は頷くとも首を振るとも言えない曖昧な仕草を見せた。

「…まあ…普通程度には寝てるよ」
「どの顔でそんな嘘つけんだよ」

わかってるなら聞かなきゃいいのに、なんて理不尽極まりない紫乃の内心も彼にはお見通しだ。岩泉は鋭くした視線だけで紫乃を追及する。紫乃は斜め下に視線を逃がして、それを左右に泳がせた。それが彼女の返答に詰まっているときの癖だと気づいたのはいつだったか。
岩泉には一つ思い当たることがあった。

「…また顧問になんか言われたのか?」

紫乃は瞳を大きくして岩泉を見上げた。熱気の籠もった体育館、うっすら汗をにじませたままの額に夏の日差しの破片を浴びながら、岩泉は真っ直ぐに彼女を見下ろしている。その三白眼に潜んだ心配の色に、彼女は面食らい、どぎまぎと瞬きを繰り返して、それから首を振って否定した。

「いや、顧問は全然…絵もちゃんと一枚描いたし」
「、そうなのか」
「うん」

紫乃はポケットからスマホを取り出し、数回タップし岩泉の方に差し出す。訝しげにそれを受け取った岩泉は、一瞬触れた彼女の指先の冷たさにどきりとし、それから画面に映った映像に瞠目した。

「…これ、あん時の」
「…うん、そう」

しんと凪いだ早朝。黄金色を帯びる山際と、東雲色に色づく雲の端、夜明けの名残を残した群青を孕む空。
剥き出しの自然の美しさを前にして荒漠と映る無機質な灰色のアスファルトには、点在する水たまりの青が切り裂くような鮮烈さを持って映えている。

自分にとっては「ちょっとしたすがすがしい朝」程度に映ったあの景色は、彼女にとってこうも美しく見えたのか。
はっと息をのむほどの清冽な静寂。スマホの画面越しにこれなら、実物を見ればどれほど強く心をつかまれるだろう。

「…屋上の。岩泉が連れてってくれた時の」
「…すげぇな」
「……そんなに見るほど?」
「たりめーだろ」

何がそんなに面白いのかとでも言いたげな紫乃を見下ろし、岩泉は大真面目に頷いて見せた。この絵を前にしたこの反応が紫乃本人の反応でなければ憤慨しているところだ。

一体描いた本人の目に彼女の絵はどう映っているのか。紫乃は時折、呆れるのを通り越して心配になるほど、自分に対する自己評価が低いと岩泉は思う。

そんな紫乃は瞳を大きくして岩泉を見つめていた。窓から差し込み、磨き上げられた床に乱反射して散らばる夏の日差しが、瞳の黒を淡く透かす。
吸い込まれる。思った一瞬、意識を持っていかれたのは間違いなかった。
紫乃は目を伏せる。ゆっくりと伸ばされる彼の手に、彼女は気づかない。

「…コンクールが終わったら、多分返ってくるから。その時まだ興味があったら、見に…」

紫乃の声は途切れた。その眼の下の薄い皮膚をなぞるかさついた指先に、彼女は身を固くした。
うつむき加減だった彼女に、岩泉の表情は見えない。

「…それ描いてて、夜更かししてたのか」

一瞬の間があって岩泉は問うた。紫乃にとっていつもとなんら変わりなく聞こえた彼の声が、本当のところどんな色をしていたのか彼女にはわからなかった。

大きな分厚い手が無造作に頬に触れる。目の下をごしごしこする親指の付け根が唇に触れ、駆け上る熱で一気に顔が火照った。心臓が痛いほど脈打っている。

紫乃はやっとのことで頷いた。眠れない理由は決して絵のせいではなかったけれど、そうでもしないと岩泉は手を放さないだろうと思った。

「阿呆」
「っむ、」

きゅ、と徐に頬をつねられて思わず目を瞑る。岩泉が吐息だけで笑う声がした。何をするのだと抗議の思いで見上げた彼は、ぶっきらぼうに尖らせた唇で、けれどいつもより丸みを帯びた眼差しを紫乃に注いでいた。

「ちゃんと寝ろ。倒れでもしたらどうすんだ」
「…寝てないわけじゃないよ」
「十分じゃねぇだろうが」

紫乃は曖昧に笑った。最近ちょっと寝れないんだ。そんな本音がうっかり零れそうになるのを呑み込んで、彼女は寝不足の理由を屋上の絵にしたまま沈黙を守った。

及川に呼ばれた岩泉がコートに駆け戻ってゆく。紫乃はそっとスケッチブックに目を落とした。今日はまだ一枚も描き始めてすらいなかった。
この時期になると毎年こうだ。手が動かない。指先と頭の中のイメージが結びつかない、それ以前に脳裏にちらつく映像がイメージを構成させてくれない。

今日もきっと描けない。
思って鉛筆を手離した紫乃の頭の上に、別の声が降ってきた。

「寝れねーの、今年も」
「松川…」

顔を上向かせれば大人びた顔の中、松川の食えない瞳と視線が合う。静かに観察するようなそのまなざしから逃げて、紫乃は視線をコートの向こうに戻した。松川の手が頭の上に乗っかる。じんわりと溶け合う体温と心地よい重みに、胸にのしかかる重石がわずかに軽くなった。

「…まあ」

ようやく応じた彼女の頭に置いた手で、松川はその黒々とした髪をかき混ぜた。信じられないほど頼りない首をひしゃげてしまわないよう、深手を負ったまま時を止めた心臓を止めてしまわないよう、細心の注意を払って。

何かが体に深く突き刺さった時、すぐにその異物を傷口から抜いてはならないことがある。それは異物を抜くことによって大量出血が起こり、失血死する可能性があるためだ。

紫乃の心はそれに似ている、と松川は思う。
突き刺さるナイフはきっと、あまりに深々と紫乃の心臓に食い込んでいる。それを一思いに引き抜きでもすれば、彼女の脆い心は死んでしまうのではないか。そんな恐怖が胸をよぎった自分にできたのは、傷口が広がらないよう、それを誰にも触れさせぬよう傍にいて見守ってやることだけ。

「あのさ」
「うん?」
「田舎、お盆に帰る」
「、…そっか」

薄い薄い彼女の肩を大きな手で包んでやる。僅かに預けられる重心が心臓を軋ませた。大丈夫だ、そんな思いを込めて、松川は祈るように彼女のつむじを見詰める。たった一人で真夏の陽炎と向き合う彼女が、一歩でも前に進めるよう願いを込めて。






心臓が凍り付いたような、そんな気がして、気づけば息を止めていた。

「……これ…」

検索エンジンにかけた名前がヒットしたのは、美術コンクールが運営するウェブサイトの受賞作品履歴のページだった。
血の気のない肌に浮かび上がる紅を引かれた唇、閉ざされた瞼と眦の深い皺。こけた頬に柔らかさは感じられず、結われた髪は美しくも隠しようなく空々しい。

描かれていると言うよりむしろ、キャンバスを窓枠にして、その向こうに今も横たわっているようなそれは、痩せた一人の老女。
その姿に僅かばかりも生気を感じられない理由は、その身を左前に包む白い着物が語っていた。
死装束。

「…『祖母』」

タイトルは僅かそれだけ。出展された日付は三年前の夏。色とりどりの作品が並ぶ中、明らかな異彩を放つその絵だけが異常なまでに浮いていた。

荒々しいタッチではなかった。ただその一塗り一塗りは刻み付けるように重苦しく、漂う静けさは息の詰まる様な凄みを孕んでいる。
画面越しですら魂を吸い取られそうなほどの圧倒的な存在感。描かれているのはモチーフではない。その向こうに生々しく佇む本質そのものが剥き出しに描かれ、鳥肌が立つほど突き刺さってくる。

死。

一人の人間の遺体を通して、ただそれだけを描いたかのような、壮絶な絵。

指の感覚が遠いのを無視して、検索ワードを変えてエンターキーを叩いた。出てきた新聞記事の中、作品を紹介をするゴシック体が淡々と語る文字に、心臓を握りこまれた気がした。

―――実の祖母の事故死、その葬式の直後に描かれた中学最後の作品。以後人物画の出典は無い。


『…アイツはなんていうか、手足千切るみたいにして描いてるようなヤツだよ』
『人は…ほとんど、描かないかな』

「……ッ」

友人たちの声が鼓膜に蘇る。窓の向こう、まだ沈まない夕陽の中で、みーんみーんと蝉が鳴く。

息絶えそうな白で描かれたその絵の下には、北村紫乃の名前が寒々しく綴られていた。

160301
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