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成瀬朱音は困惑していた。

「…紫乃は…いつから?」
「…先生が言うには、八時にはもう」

土曜の朝の部室には異質な空気が漂っている。その根源は言うまでもなく皆が分かっていた。後輩の顔にありありと浮かぶ心配の色が、それ以上の濃度となって自分の顔にも急速に広がってゆくのが、彼女にはわかった。

短く切られた髪の襟足から僅かに覗く頼りない項の上で、キャンバスに向いた頭が腕の動きに合わせて揺れる。彼女の友人は室内でも抜きん出て大きいイーゼルを部室の隅に構え、皆に背を向けるようにして椅子に腰かけていた。

その利き手たる左手はべっとりと絵具にまみれ、手首や右手にも乾いた絵具が散らばっている。傍に放り出されたパレットの絵具はすでに乾ききっていた。朱音は経験則から知っている。一度描き始めた紫乃がパレットを放り出すまでは少なくとも二時間以上かかるのだ。

「…えっ、と、…紫乃?」

恐る恐る近づいた朱音はしかし、次の言葉を続けることは出来なかった。
触れれば切れそうな、横顔。

規格外のサイズをしたキャンバスをえぐるように絵具を塗り付ける指先に迷いはない。否、迷いがないというよりはむしろ、何かに憑りつかれているかのような―――いや、それも違う。

身体の中心にあるべき魂が離れ、色を移す指先にすべて乗り移ったかのような。

「―――…っ」

稀にスイッチの入った紫乃が唐突に纏う空気を一変させることを朱音は知らないわけではない。むしろ部内で一番それを理解し、のめり込んだら暫し帰ってこない紫乃のフォローやバックアップを買って出るのは、入部当初から世話焼きな朱音の役目だった。

だがこれは、見たことがない。朱音は漠然とした不安に駆られた。削ってはならないものを、そう、例えば魂を削り取りながらそうするように、紫乃はキャンバスに色を乗せている。

紫乃の横顔にはいつだって鬱屈とした閉塞があった。楽しい顔をして絵を描くことなんて一度だって見たことがない。描かずにはいられないけど描きたくない、紫乃はことあるごとにそんなことを口にした。

これは違う。あの青一色の絵を描いていた時でさえ、ここまで刃の様な空気を纏ってはいなかった。
だが何より朱音を驚愕に陥れていたのは、そのキャンバスに浮かぶ絵だ。

「…これ…」

古い家の絵だ。掘りごたつのある居間、抜けた先に和室を一つ越え、黄昏時の黄金色が溢れる縁側。庭の赤は紅葉か何かか、まだ形はおぼろげだ。

真ん中の四角い卓袱台には何かの色が点在している。卓袱台の右側、そしてそこから直角になる奥側の一角だけが不自然にキャンバスの白を残して空いていた。まるでそこに、居るべき人がいないかのように。

紫乃は人を描かない。朱音は恐れず踏み込みその理由を問うて、そして端折られながらも紫乃自身の口からそれを語られた数少ない人間の一人だ。
だからこそ朱音は驚愕していた。紫乃は今、人を描こうとしている。

「…紫乃、ねえ紫乃ってば…!」

朱音はたまらず紫乃の薄い肩に手をかけた。強く揺さぶれば、はっとしたように手が止まる。ちゃぶ台の木目を描いていた小指の黄土色と、薬指の濃い焦げ茶、手のひらの混ざり合った茶色や朱。
重力を狂わすような静謐な壮絶さが、ふっとほどけて霧散する。

「…ああ、朱音…気づかなかった。ごめん」
「…ううん、いいよ。おはよう」

振り返った紫乃はまるでいつもと変わらないように見えた。朱音は反応があったことにほっとしたもののまだ安心はできず、浮かべた笑みに自信もなかった。

これを描き上げたとき、この親友はどうなってしまうのだろう。その指先に込めた魂をすり減らし、絵具と一緒に塗り込んで、最後には抜け殻だけになってしまうのではないか。そんな抽象的な想像が妙な現実味を帯び、朱音の胸を騒がせる。

「…紫乃、ちゃんと休むんだよ。昼は一緒に食べるからね。あと今日六時には部室も閉めるから」
「え、けど…」
「閉めるからね」

朱音は譲らず言い切った。その有無を言わさぬ口調の中に滲む懇願に、紫乃は戸惑いを感じながらもとりあえず頷く。朱音、私平気だよ?呼びかけた紫乃に朱音は黙り、相槌すら打てずに沈黙を守った。
生気をすべてキャンバスに注ぎ込まんとするようなその横顔の、どこが平気なのか問い質したい気分だった。




案の定というべきか、朱音の不安は的中することとなった。

夏休みが明け、通常授業が再開すると同時に、紫乃は体育館に通うのをぱたりとやめた。そして暇さえあれば美術室に籠もりきりになり、最終下校まで居残るようになった。

日常が綻びを見せ始めるのに時間はかからなかった。これまできちんとしていた提出物や持ち物を忘れたり、授業中にぼーっとして板書を忘れることが増えた。日常生活に対する集中力と、キャンバスに向かう際の熱量の反比例は、日を追うごとに落差を広げた。

だが朱音が何より気を揉んだのは、増してゆく危うさに対する紫乃自身の恐るべき無自覚さだった。目に見えて明らかな不調を顧みない紫乃を繰り返し窘めるうちに、朱音は自分の認識が紫乃のそれと噛み合わないことに気がついた。紫乃は自分を顧みるだの何だの以前に、むしろ自分の異変に全く気づいていなかったのだ。

埋まらない認識の差にやきもきする友人をよそに、もともと色のない紫乃の顔色は一段と蒼く透け、目の下の隈はとれなくなってゆく。張り詰めた緊迫感が一日中付きまとい、少ない言葉数はますます少なくなった。

にも拘わらず、紫乃は絵に向かうことをやめない。いつ見たって完成したと言われても納得するような出来なのに、紫乃の手が動くたび、その絵は一段も二段も上のレベルへ変化を遂げる―――ただ一つ、真ん中の卓袱台の奥側、その左端の不自然な空白を覗いて。

三日も見ていれば、朱音にはそこに佇むべき人が誰か推察できていた。卓袱台の左側には新聞を広げた藍染の着物の人物が腰掛けている。厳格な雰囲気を纏う、短い白髪と痩身の老人。間違いなく紫乃の祖父だ。であればその斜め向かいに腰掛けるべき人など一人しかいない。

けれど紫乃はまるで目に入っていないかのように、そのぼんやりとした空白には色を乗せなかった。背後の和室や縁側の樹木が深みとリアルさを増してゆく横で、その部分だけは迷子のように白く漂ったままだった。

出来上がる祖父母の家の居間。手を付けられない卓袱台の隅。日に日に濃くなる瞳の壮絶さと、重みを増す背負う影。

最早自分には声をかけることも躊躇われる。

朱音が心を決め、体育館へと走ったのは、紫乃がキャンバスに向かい始めてから一週間たった日のことだった。




「、…成瀬?」
「!松川、」

片づけを終え、自主練前に一度顔を洗うかと体育館を出たところには、思わぬ人物の姿があった。ばっと顔を上げて駆け寄ってきた同級生の顔には明らかにほっとした様子と、しかし隠せぬ不穏な気配があって、松川は眉を潜める。
朱音の様子からして誰かを待っていたようだが、部活動の終わるこの時間に、文科系部に所属するこの同級生が体育館外で部活終わりを待つ用事とは果たして何なのか。至極当然な疑問だが、生憎松川には思い当たる節があった。手のかかる友人である。

「北村になんかあった?」
「!さすがだよ…そうなの、ごめん部活中に」
「いや、もう終わったし大丈夫。それよりどうしたん」

やや配慮の足りないところもあるが、基本的にはよく気が回るのが成瀬朱音という人物だ。ここでじっと待っていたというのであれば恐らく緊急ではない。だが極めて不器用な紫乃のフォローをほぼ全分野にわたってこなす彼女が自分のところに来る決断を下したからには、相当の事情があるはず。そう身構えた松川の背後から、別の声がかかる。

「成瀬?もう七時回ってんぞ、まだ残ってたのか」
「、岩泉」
「松川も何……どうかしたのか」

ボールを片づけようと倉庫近くを通り過ぎた岩泉が、朱音の姿に気づいて歩み寄ってくる。二人のやや緊迫した気配を察知したのか、松川に倣ってすぐさま聞く体制に入った岩泉に、朱音も必要でない遠慮をするのはやめた。

「今緊急事態ってわけじゃないんだけど―――…」

朱音は夏明けからの一週間を手短に、伏せるべきことを伏せて説明した。夏休みの終わる寸前、紫乃が突然キャンバスに向かい始めたこと、その絵の内容、ここ一週間の様子。だが祖父母という単語に、松川のみならず岩泉の表情まで緊張が走ったのに朱音は気づかなかった。

「今日はホントに酷くて…多分全然寝てないのに、気持ちだけで描いてるんだと思う。でも一番心配なのは本人にその自覚が全然ないことなの。あの子きっと、自分が眠いともしんどいとも思ってない」
「…」
「松川、松川が言えば、紫乃も聞くと思う。あんなの…あんなの、」

あの子には無理だよ。

深みにはまりこんでゆく友人の背中を見ていることしかできない。このままではいつか倒れるのではないか、身体が無事だとしても心を壊してしまうのではないか。
美術室に向かう道すがら、廊下に響く朱音の声が悲痛に揺れた。仲間たちに一言断りを入れたのち、練習着のままその隣を歩む二人は黙ったまま彼女の言葉に耳を傾けていた。

朱音とて紫乃の試みを否定したいわけではない。だが応援し見守りたいと思う願いを踏み砕いても有り余るのが心配だ。
まさに血肉を削るようにして描くその行為が、紫乃が自分自身に課した罰に見えた。それを描くことは罪滅ぼしなんて生易しいものではなく、紫乃が自らへ課した断罪だと思ってしまったその瞬間、居ても立っても居られなくなったのだ。

「私もっと、紫乃には時間がいると思ってた。あの子本当に不器用で、落としたら粉々になりそうな脆いところがあるから、だから、何もあんな風に…あんな風に体当たりでやったら、ぱりんって、割れちゃうんじゃないかって」

岩泉も松川も黙っていた。日も暮れて流石に真っ暗になった廊下の先、煌々と光が漏れる美術室が見えてくると、朱音の足はおのずと速まる。後輩たちは帰らせた。あとは紫乃と自分だけだ。

「紫乃、松川が来てくれたよ。今日はもう―――」

声の半分は息とともに呑み込まれ、朱音は小さな叫び声をあげると他のイーゼルを跳ね飛ばす勢いで友人のキャンバスの元へ駆け寄った。そのただならぬ反応に松川と岩泉も部室に飛び込む。

目に入ったのは部室の隅、日本家屋の居間を描いた一際大きな絵と、その前に並べた椅子に横たわった紫乃の姿。松川がさっと顔色を変え、長い脚で一気に距離をゼロにした。

「紫乃、ちょっ…え?」
「おい北村ッ、」
「待って松川、…多分、寝てる…?」

言った本人も半信半疑のまま放心したように言った朱音に、松川はしかし、ますます顔を強張らせた。さざなみだった瞳が椅子に丸まって眠る友人を見下ろす。絵具まみれの手はだらりと投げ出され、目の下の隈は酷い。顔色も無いに等しく、ぴくりともせず死んだように眠っている。

安堵した様子の朱音とは真逆で、松川は僅かもほっとなどできなかった。酷い既視感に眩暈がする。おのずとその視線は眠る紫乃の前のキャンバスに向かった。日本家屋の居間は不完全に整っている―――不自然に残された空白を除いて。

「…っ、」

それを幸いと考えるには行き先が不穏過ぎる。松川は酷い胸騒ぎを殺すように奥歯を噛み締めた。
三年前と、同じだ。

「、岩泉?」

行動に出たのは岩泉だった。ジャッと勢いよく鳴ったのはジャージのチャックが下がる音。迷いのない歩みで椅子の傍まで距離を詰めた岩泉は横たわる紫乃の正面に屈み、脱いだそれを彼女の身体に掛けた。その首元が冷えないようしっかりくるんでやる手には躊躇いがなく、だが眠りを邪魔しないようにという優しさがある。

しかしそんな彼の気遣いに反し、紫乃はふと浅い眠りから目を醒ました。重たげに持ち上がる瞼に、岩泉が一瞬動きを止める。ゆっくり瞬く瞼の下で、酷く疲れた瞳がぼんやりと彼の練習着を映すのが見えた。投げ出されて垂れていた紫乃の手が動いた。

そこでようやく紫乃が目覚めたことに気づいた松川が身を乗り出す。けれどその絵具まみれの手を迎えたのは、岩泉の大きな掌だった。
呆気なく包み込まれた小さな手の乾き切らない絵具が、べっとりと彼の武骨な手を汚した。だが岩泉は紫乃の瞳から一瞬たりと視線を外さなかった。

「…北村、わかるか」

静かな問いかけだった。緩慢に瞬く瞳がゆっくり彷徨い、脱力していた指先が何かを探すように岩泉の手の中で微かに動く。岩泉は彼女の手を拘束する存在を教えるように、彼女のそれを握り直した。
朱音が心配そうに何かを言う。たが岩泉には紫乃が決して夢うつつなどではないことがわかっていた。

既視感を感じるよりずっと早く確信する。この瞳は目覚めている。いくら体が眠りを要求しても、その魂は全てを注ぎ出す時まで安息を赦さないだろう。

こういう眼をした人間には、「辞めろ」も「止まれ」も、ただの煩わしい雑音に過ぎない。
岩泉はそれに似た眼を知っている。


「もう明日にしろ」

紫乃の手が動こうとする。岩泉はそれを許さなかった。抵抗をいなすように、握りこんだ絵具まみれの小さな手を完全に包み込む。静かで、しかし有無を言わせぬ声だった。
紫乃の瞳は岩泉の練習着の胸元を見詰めたまま動かない。身体を起こすのももう厳しいはずなのに、その手はまだキャンバスに触れようとする。

「描くんだろ。なら逃げねぇよ」

自分が何かの引き金を引いてしまったのかもしれない。否、きっとそうなのだろう。岩泉はそれを自覚している。

ラーメン屋のカウンター席、わかっていて踏み込んで、境界線のぎりぎりに爪先を乗せるように尋ねた問いに、強張った紫乃の顔は鮮明に思い出せる。
土足で踏み荒らされることを本能で警戒し身構えた様子に、それ以上の言葉は無用だと、むしろ彼女にとってはすでにチェックメイトも同然なのかもしれないと思った。そうしてその、言葉にしないものを拾い取る彼女の感性の敏感さを改めて思い知らされた。

細く鋭く尖った感受性がどれほど敏く折れやすいか―――それでも真っ直ぐに透き通った、その痛々しいまでの透明度が眩しい。

それでも彼女は言い切った。雨の降るバス停、半分無理やり出した声で、足踏みする自分の背中を突き飛ばすように、後退る自分を追い込むように言い切ったのだ。

『――――描くよ』

背中を押してやった、なんて恰好つけた言葉は選べない。唆したと言われればそちらの方が似合うし、もっと言えば突き落としたのだ。

その本人たる俺が、こいつを引き止めるのは話が違う。
それはいっそ、決断を下したこいつに対する裏切りだ。

「絵も逃げねぇし、お前も逃げねぇだろ」

瞳が揺れる。紫乃が初めて、目前にしゃがみ込んだ岩泉の瞳を捉えた。
彼のよく知る目と同類で少し違う。今にも砕けそうなナリで、体当たりに戦おうとする眼だ。

「…北村、もういいだろ。そんなになってまで、」
「松川、やめろ」
「お前こそどういうつもりだよ、岩泉」
「ま、松川…」

朱音が上擦った声を出すのも仕方がなかった。美術室に急速に張り詰める緊張。一触即発の空気の中、険しさを増す松川の表情に向き合う岩泉は落ち着き払っていた。しかしその鋭い瞳に妥協や譲歩をするつもりがないことは、長らくチームメイトをしてきた松川には嫌というほど伝わってくる。

「こんなに追い詰めてまで何描くっていうわけ」
「何でもだ。コイツはもう決めてる」
「っ…お前は北村を何も知らねーから、そんな無責任が言えんだよ!」

紫乃の手を放し、絵具で汚した手をそのままに立ち上がった岩泉の淡々とした物言いに、向き直った松川が声を荒げた。一見紫乃を止めるようにも聞こえる岩泉の言葉が、むしろけしかけるようなものであることに松川は気が付いていた。

その脳裏に焼き付くのは三年前、今と同じように美術室に籠もりきり、完全に消耗しきるまでキャンバスにかじりついていた紫乃の姿。
遺影と呼ぶにも相応しいあの祖母の絵を描き上げたその日、酷く疲れ切ったまだあどけなさを残す横顔から一切の感情が滑り落ち、冷たい床に砕け散った音を松川は覚えている。


あそこから、あのどん底から、紫乃が普通に笑うようになるまで、一体どれほどかかったと思っている。

抜くにも抜けないナイフを突き刺したままの心臓で、息もままならずにここまで歩いてくるのが、どれだけ苦しいことだったと思っている。


松川は歯噛みする。その痛みはきっと自分には一生わからない。口下手な紫乃は一言だってそれを口にしたことはなく、ただ来る日も来る日もやってくる毎日を一歩一歩、歯を食いしばって懸命に乗り越えてきた。彼はそんな紫乃をずっと見守ってきた。紫乃が気づかないほどさり気なく傍について、時に壁となり、道となって彼女の歩みを支えてきた。

謂われのない中傷や批評の全てから彼女を守ることが出来たとは世辞でも言えないが、両手いっぱいを伸ばして守れる分は精一杯に守ってきたつもりだ。

そうしてようやく癒え始めた傷の瘡蓋を、力尽くで引き剥がそうと言うのか。


「…確かに俺はお前と違って、中学の北村もここで三年になるまでの北村も知らねぇわ」

岩泉の声が初めて剣気を帯びた。けどな、と続けた彼は鋭く言い放つ。

「守って庇ってやるだけがコイツの為になんのかよ」
「ッ、」

松川が動いた。電光石火だった。だが踏み込んだ一歩と伸びた手がどこに向かおうとしていたのか、その場にいた誰も知ることはなかった。紫乃が身を起こしたのだ。

「まつかわ」

緩慢な、しかし確かな意思を持って発された言葉だった。寝起きの掠れた小さな声に、勢いを失って迷子になった松川の手が宙で縫い留められる。ずり落ちるジャージ、伸ばされたのは右手。パレット代わりにされていた手のひら以外絵具の残らないその指先が、松川の大きな手を引っかけるようにして引き下げる。
岩泉の手に移った絵具が、松川の手に移ることはなかった。

「…平気。描くよ、私」

起きなりで柔らかく乱れた黒髪をそのままに紫乃は言う。松川の大人びた顔に、年相応の狼狽と苦々しさがありありと過ぎった。どうして。行き場のない焦燥と納得のゆかなさを隠せない彼の手に手を乗せるようにして握り、紫乃はゆっくりと、言葉を拾い集めて告げる。

「私、馬鹿だから、全部は多分気づけてないけど。松川がずっと、心配してくれてることはわかってる」

松川の巧みさ故に気づかぬこともあっただろうし、言葉が足りずに礼を言ったことすら数えるほどしかない。だが紫乃は確かに松川の気遣いに感謝している。
祖父の家にいたあの晩だってそうだ。彼の電話が無ければ、きっと泣くことさえままならなかった。あの時だけじゃない、もうずっとだ。何かと自分を気遣い、降ってくるいろんなものを紫乃が気づくより早くに払い落として、まるで傘のようにずっと自分を覆い守ってきてくれた友人の厚意を、紫乃は紫乃なりにきちんと受け取ってきた。だからここまで歩いてこれた。

そしていつか必ず、その庇護下を出て自分で進まなければならない。

「信じて、松川。私、大丈夫だよ」

そうしてやってきたその瞬間が、きっと今なのだ。

「………送る」

松川が低く言う。言うなりエナメルを床に落とした彼は散らばっていた絵具を片づけ、慣れた手つきで画材道具を仕舞い始めた。紫乃はそれについて文句を言うことはなく、絵具の乾いた手の甲で器用にジャージを持ち上げると、眉間に皺を刻んだままの岩泉に差し出した。

「…これ、ありがとう」

岩泉は何も言わずそれを受け取る。紫乃はゆっくりと洗面台に向かって手を洗う。その後頭部へとすれ違いざま松川の手が伸び、大きな手の一つかみで紫乃の髪の乱れを直していった。
その慣れた仕草に岩泉が一瞬僅かに眉根を寄せた。背けられた視線の意味を知る者はいない。

「行くぞ、成瀬」
「え、でも…」
「北村は松川が送るだろ。お前は俺が送ってく」
「……うん」

ややあって頷いた朱音は、岩泉の迷いのなさについてゆけていないようだった。滅多になく苛立ちを露わにした松川、揺るぎない岩泉の一触即発の空気、紫乃と岩泉の間で交わされた言葉以上の会話の背景。
無言で片づけを行う友人二人を見詰める彼女の瞳には、不安の一言では片づけられない複雑な色が混ざり合っていた。

160407
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