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「岩ちゃんさ、まっつんとなんかあった?」

振り向くなり一瞬嫌そうに顔をしかめた幼馴染に、及川徹はいつもの食えない表情を返した。語尾につけた疑問符は形式的なものでしかないことにも、自分がすでに事情の粗方を知っていることにも、この相棒は容易く気づくだろう。伊達に阿吽と呼ばれる仲ではない。それでも質問を装って踏み込むのは及川の様式美であり、岩泉に言わせれば性格の悪さゆえだ。
そしてそんな岩泉の方にも、何かと面倒な幼馴染の見え透いた十八番に言葉数を割いてやるつもりはない。

「成瀬から聞いたか」
「正解。さっすが岩ちゃん」
「馬鹿にしてんなら帰れ」
「さすがにここでふざけられるほど楽観的じゃないよ、俺は」

無論及川の軽い口調に普段のじゃれつくような調子はないことは岩泉にもわかっている。そのトーンにバレーの影が落とされては岩泉も幼馴染に向き直らざるを得ない。
及川はセッターというポジション柄を抜きにしても、他人のことは恐ろしく良く見える男だ。練習中の僅かな緊張と微妙なズレなど、小一時間ボールを上げれば察せられるに違いなかった。

「どこまで聞いたんだよ」
「言っとくけど俺から聞き出したんじゃないよ。成瀬さんが相談してきたの」
「成瀬がァ?自分でか」
「そ。岩ちゃんがまっつんと一触即発。しかも憔悴しきってた北村さんを止めずに―――…彼女もこんな言い方はしたくないって前置いてたけど。北村さんを『けしかけた』 」
「…あながち外れちゃいねーな」

淡々と肯定した岩泉を及川はじっと見定めた。この顔を、今するのか。
昔から好き嫌いや主張は顔にも言葉にもはっきり表れる及川の幼馴染はしかし、ここぞというふとした瞬間に忽然とその表情を消し去って見せることがある。こうなってしまった時に秘められた真意を見抜くのは、十数年を超える付き合いをもってしても容易でない。


こう言うと聞こえは悪いが、人を欺くこと―――否、自分を欺いてみせることに関して、及川は岩泉より上手くやれると言い切る自信がある。裏を掻く策も翻弄する小細工も及川の器用さが許す武器であり、基本が実直である岩泉には向いていないしその気骨ゆえに必要でもない。

岩泉は何に対しても真っ直ぐだ。ゆえに基本的には非常にわかりやすい。
しかしその真っ直ぐのベクトルの矛先が変われば話は別である。彼が確固たる理由を持って何かを秘めたり、あるいは黙そうとしたりするとき、その守りは鉄壁となる。一片の後ろめたさもなく、それが最善と確信したうえで選ばれる黙秘は、小手先の揺さぶりなどでは決して揺るがない。

だがそれを熟知しているのも及川であり、それを逆手にとれる器用さを持つのも及川だ。
岩泉が何を思って、朱音曰く「トラウマを自ら抉る」紫乃を、止めるどころか「けしかけた」のかはわからない。だが岩泉はそれが紫乃にとって最善だと判断した。そこに躊躇や後ろめたさはない。淡々と語る横顔の一切の迷いのなさを見れば、そんなことは如実にわかった。

「けど彼女、傍目でわかるほど消耗してるよね」
「そうだな」
「俺の自主練は止めるのに、彼女の無理は止めないんだ?」
「はあ?」

先ほどまでの完璧な鉄仮面はどこへやら、何言ってんだこいつ、と言葉以上に語る表情は相変わらず正直だ。これだから天然モノは恐ろしい、と半眼になりそうな及川に、負けじと呆れ顔を作った岩泉は至極当然のように言った。

「俺が止めたら、お前ウシワカ倒すのやめんのかよ」
「は?」

今度聞き返すのは及川の方だった。何故ここでウシワカ。一瞬静止した脳味噌がフル回転する。つまり紫乃にとってその絵を描き上げることは、自分が因縁の相手との決着をつけることに等しいというのか。

「まあまずあり得ねー仮定だけどな。けどお前、やめねぇだろ。それと一緒だ」
「…ちょ、待って、どういうことか全然わかんないんだけど」
「お前と似たような眼だったんだよ」
「…俺の眼?」

―――横たわる体にまとわりつく色濃い疲労の気配、ゆっくり瞬く重い瞼。
紫乃は確かに憔悴していた。だがその瞳は安寧どころか、眠りさえ拒んで覚醒していた。

「あの眼は何を言ったところで聞きゃしねぇよ。宥めすかして小休止させんのが関の山だ」

試合に敗けた日、何かにぶち当たった時、あるいはここ一番の勝負時に、及川の瞳は静かに燃え上がる。白熱する闘志を蒼く孕んだ双眸は、満身創痍のそのままでなおも自らを火の中に投げ込むように、折れてたまるかと燃え上がるのだ。

前だけを見据えたそれはいっそ盲目だ。無論自分も同じような面構えに違いないが、隣の及川の危うさゆえにか、足元を見失わないでいられるだけの余裕はある。だからこそあの眼をした及川を止める試みがいかに無駄か、岩泉はよく知っていた。そして止める代わりに一緒に並走し、時に怒鳴り、殴ってでもペースを守ってやることの方がずっと得策であることも。

紫乃はそれと同じ眼をしていた。誰が何を言いどうしたところで、結局のところ彼女は描くつもりだ。そこにどれだけの痛みが伴うのか岩泉にはわからない。だが引き金を引いたのは自分でも、覚悟を決めたのは紫乃自身であり、退路を備えるつもりがないのも彼女なのだ。

そうなれば引きとめても立ちはだかっても仕方がない。盲目相手にそんなことをしても無駄だ。見えていないなら存在しないのも同然だからだ。

及川なら隣を走ればいい。幼馴染で相棒、共にバレーに心血を注ぐ仲間として、それが最もふさわしいやり方だ。
だが紫乃は及川とは違う。松川のように昔なじみでも成瀬のように部員や親友でもない俺に、隣を走ることは出来ないだろう。

ならば待っていてやればいい。彼女が目指すと決め、辿り着くまで決して歩みを辞めないであろうそのゴールの先で、彼女がくずおれるより早くその腕を掴んでやればいい。

「説教は全部済んでから成瀬にでも任せりゃいい。まあそれまでにぶっ倒れそうになったら、引き摺ってでも保健室送りにしてやるけどな」

さも当然のごとく言い切られたそこに無用な含みは一切ない。だがだからこそ及川は驚きを持って幼馴染みを凝視していた。
確かに彼は面倒見がよく義理堅いが、決してお人好しではない。その岩泉が何の迷いもなく、紫乃を自分の懐の内側に収めている。三年の春に出会い、知り合ってまだ数ヶ月にしかならない北村紫乃をだ。

「…確かに危うそうな子ではあるけどさ、それ抜きにしても、岩ちゃんってあの子のことすごく気にかけてるよね」
「あ?…別に普通だろ」
「あの子にはまっつんも成瀬さんもついてる。昔なじみと理解ある友達がいるってわかってて、普段の岩ちゃんならここまで介入しない」
「…」
「…、」

言うだけ言って次の言葉が出なかったのは及川も同じだった。言ったところでどうなるというのか。それでも彼は自分の勘を軽んじようとは思わなかった。

形にはなっていない。それでも水面下で静かに張り詰める緊張の意味を、及川は敏感に感じ取っている。
松川が紫乃を気にかける理由の本質が、岩泉が紫乃の背中を押す意味が、紫乃と岩泉について朱音が自分に尋ねた真意が、及川にはうっすらと透けて見えている。

三年の夏が終わる。残すところの希望は春高のみ。築いてきた絆に偽りはないと言い切れるが、全てを割り切れるほど自分たちが大人だとは思えない。

「……余計な心配すんな。バレーには関係ねぇ」

随分と間を置いてそれだけ言った岩泉の声は、いつもと同じ迷いなく芯の通ったものに聞こえた。
だがその返答は及川の推測を裏付けるも同然のものであり、その声に含まれた僅かな硬さが、及川に亀裂の気配を感じさせてならなかった。

160423
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