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「―――あれから二年か」

ありがちな三流小説のプロローグにありそうな台詞は、思った以上に感慨深く響いた。

こぢんまりした建物だ。日差しを受けて輝く白い壁が目に眩しい。元は雑貨店だったというそこは都心にほど近くも、中心部からは少し離れて人通りは多くない。だが着実に人は集まりつつあった。

「早いもんだな」
「ほんとにね。みんなとはいつ合流?」
「もう来るってラインあった」
「うわー、私も会うの二年ぶりだよ」
「俺とは一年くらいだっけ」
「…うん、そうだね。紫乃んち行ったとき以来だし」

懐かしい話だ。そう長くは経っていない過去なのに、思い出す日々は今が色褪せる程キラキラして見える。
目立たせる気など露程も伺えない目立たない紹介文、そこに記された旧友の名前に、松川と朱音はしばしの沈黙のもと眼を細めた。





二年前、紫乃は高校の卒業式に出席しなかった。

風邪だの何だのといった些末な理由でないことは直感的に察せられた。紫乃はどうしたのか。式が終わるなり尋ねにきた松川に、朱音は黙って首を振った。一体どういうことなのか、困惑する四人の言葉を止めたのは、朱音が持ってきた大ぶりの紙袋から取り出された四枚の絵だった。


一枚は及川を描いたものだった。伸びる指、しなる肢体、湖水の様な冷静と、燃えるような蒼い熱が共存する双眸。紫乃にとっての及川はきっと、最後まで気高く一途に、骨の髄までセッターだった。潜めた獰猛さを閃かせるセットアップの刹那は、それがわかるほど鮮烈に描かれていた。

リベロではないはずの花巻はしかし、見事なレシーブを捉えられていた。攻守ともに巧みな彼の絶妙なフォローがチームを救ったことは数知れない。飄々とした横顔と冷静な瞳に、アンバランスに調和して光る汗。その秘められた熱の温度差に、紫乃は魅せられたのかもしれない。

岩泉はやはりエース、その堂々たるスパイクモーションを。硬質な光を凝縮させた強い瞳、筆跡に伺えるのは崇拝にも似た羨望だ。十の言葉より背中一つで仲間を鼓舞し、如何なる時も前を向いてチームを引っ張る。岩泉のそんな揺るがぬ強さと、眩しいほどの真っ直ぐさに、紫乃は焦がれてやまなかったのだろう。

指で描かれているのは松川だけだ、と朱音は言った。高くそびえる壁を築く寸前、物言わぬ威圧を纏い油断なく身構える様。最も長く知る彼のイメージはきっと、紫乃にとって誰より多面的だったに違いない。使われた色も塗り重ねも一番多い。悩んで迷って、時間をかけて描いたことが透けて見えた。


『…北村さんは、もうここにはいないんだね』

水彩画とは思えない迫力のそこからは、息づく呼吸すら聞こえてきそうだった。メッセージなど一文もない。タイトルもサインもない。受け取ったそんな各々の絵を言葉なく見つめていた四人の中、一番初めに声を取り戻したのは及川だった。

質問ではなく確認に近い問いかけに、朱音はただ目を伏せた。連絡が取れないことを不安に思い、卒業式の二日前紫乃の自宅を訪れた朱音に、出てきた紫乃の母親は「やっぱり」とこぼすと、困ったように笑んだという。

ごめんなさいね、口止めされてるの。

紫乃は忽然と姿を消した。四人の魂を削りだしたような絵を残し、誰にも何も告げす、別れすら告げさせないままに。



紫乃の居場所が判明したのは、それから一年ほど経ったある時のことだ。

発見したのは美大に進んだ朱音の友人だった。彼女の送ってきた海外の美術系雑誌の一ページに記されていたのは、北村紫乃のローマ字名だった。
場所はフランス、所属する大学はない。並々ならない才覚に反し無所属で出自不透明、無名の画家としてその界隈を騒がせている、それがその記事の内容だった。


一年越しに訪れた紫乃の実家で、応対した紫乃の母親はカレンダーを見やると、「もう時効かしらね」と観念したようにころころ笑った。

高校卒業を目前にしたある日、紫乃は突然フランスに行くと言い出したという。
私大の合格は辞退し、留学として行くつもりもない。引っ込み思案な娘の突拍子もない申し出に驚愕し、理由を問うも返ってくるのは「絵を描きに行く」の一点張り。しかし困惑する両親の言葉を封じ込めたのは、その二日後届いたフランス行きの航空券だった。事情を聞いた紫乃の祖父が送ってよこしたのである。

チケットにはいかばかりの現金と、住所の書かれた紙が同封されていた。それは紫乃の祖母の母親、すなわち紫乃にとっては曾祖母になる人物の、生まれ故郷の住所だった。

『えっ、それじゃ紫乃って…』
『そうね、8分の1はフランス人よ』
『…8分の1』
『微妙でしょ?』

二人はそろって頷くしかなかった。紫乃の母親曰く、血の薄さからしても気づかないのが普通だということだった。むしろ紫乃自身祖母のことは長らく「ちょっと日本人離れした美人な祖母」としか認識していなかったらしく、出自を聞かされたのは少し前だったという。

祖母のルーツを辿りに行ったのか、芸術の国に行くことを願ったのか。そのあたりは両親にもわからないらしい。
ただ紫乃は誰にも告げず、異国の地でひとり絵を描くことを選んだ。


『美大行くくらいなら身投げするって言ってたのに、外国には行っちゃうわけ?』

帰り道、呆れたように笑った朱音は、半分泣きそうな声で言った。

岩泉が紫乃に想いを寄せていたことを、その逆もしかりであったことを、そして二人が黙って道を違えたことを、朱音は知っている。紫乃が姿をくらませてからずっと、朱音がそれを人知れず気に病んでいたことを、松川も知っている。
けれど彼にはもう一つわかっていることがあった。

『成瀬のせいじゃねーよ、絶対』

松川は雑誌の1ページを差し出した。皆が確認していなかったそこには、柔らかな暖色で描かれた笑う少女の美しい絵があった。タッチの加減から見ればきっと指だ。邦題は「友へ」。優しい絵だった。





「あーまっつん、成瀬さん!」
「お、いたいた」
「うわー及川くん久しぶり、ますますカッコよくなってるね」
「ええ?照れるな、ありがとー」
「の割には相変わらずフラれんだけどな」
「ちょっとマッキーやめてくんない!」

開場から一時間、人の出入りはなかなかのものだった。高校時代から頭角を現していた名は今や、その界隈でも十分確立されつつあるのだろう。新進気鋭の天才アーティスト。相応しくも似合わない肩書きだと思う。案の定と言っていいのか、記されたそんな謳い文句を裏切るように、ギャラリーはとことんシンプルだ。


紫乃が日本で個展を開くことを聞いたのは、去年の冬だった。
なんでも世話になった向こうの画家の計らいだとかで、本人は乗り気じゃなかったものの断り切れなかったらしい。そんな裏事情まで含めたリーク元は紫乃の母親だ。何も言わずに消息を絶った娘が旧友たちに近況を報告するわけがないと踏んで、朱音に連絡を入れたのだ。

そこからの朱音の行動は早かった。もともと決断力と行動力で遙かに紫乃を上回る彼女はまず松川に、彼を通して及川と花巻にも接触を図った。二年ぶりの帰国、それも個展開催だなんてイベントを引っ提げてきて、顔も見せずにフランスに戻るのを黙って見送るつもりなど毛頭なかった。

『会場の一部、出来れば一番奥を譲ってもらえませんか』

紫乃には当日まで何も言わずに。

並べた絵を見た紫乃の母は目を大きくし、それから花が咲いたように笑った。






寒々しいほど白いはずの床と壁は、吹き抜けの階上から降り注ぐ陽光のおかげで柔らかい温度を帯びている。

こつこつ、パンプスの踵を静かに鳴らして、紫乃はゆったりと部屋を巡回していた。鼓膜を揺らすころには言葉を崩し、ただの音になっている人々のささやきは、思っていたほど響かない。

古い絵も最近描いたものも拘りなく無造作に並べただけの部屋は、不思議なほど人の足が絶えないようだった。確かに帰りの飛行機代になる程度の利益しか見込んでいない入場料設定なので、世辞でも敷居が高いとは言わないだろうが、それにしたって東京の人は暇なんだろうか。決して馬鹿にしているわけではない、ただどうにも、何を思って自分の絵を見に来るのか純粋に理解できないだけだ。

こつこつ、巡回を続ける。階段を上がって二階に差し掛かる。吹き抜けのためフロアが少ない分、人気もあまりないようだ。

他人の評価は相変わらず自分の思うものからはるか遠くにかけ離れていて、提出される絵の解釈も相変わらずしっくり来ない。そればかりは海を越えても変わりなかった。描いた本人だって理解できないものをどうして他人がわかるのだろう。今でもそう思う。

そう思いはするが、それを圧迫に感じて鬱屈することはなくなった。


日の当たらない角の壁に掛けた青い絵に不意に目が留まる。ついでに足も止めて向き合った。渦を巻く閉塞。与えられた名は確か「空漠」―――それを似合わないと切り捨てた実直な瞳を思い出して、思わず目を逸らしそうになる。

懐かしい絵だ。フランスを出るとき、必ず展示するよう言い含められた一枚だった。仕方なく飾りはしたが、やはり陰鬱だと思う。目を細めてそっと触れた。こういう個展じゃ作品に手を触れるのはタブーと言うが、描いた本人がするなら文句はないだろう。

ごつごつと荒々しいタッチが指先に反発する。ミイラのようだ―――当時の私のささくれた心の。吐き出された蒼い残骸。けれどもう過ぎ去ったことだ。そう思える今の自分が嫌いじゃないから、それでいいと思えるようになった。
そっと離れて歩き出す。これで確か一周できたはずだ。もう裏方に戻って適当な雑用でもして、

「、?」

きい。小さくドアの軋む音がして、ふと顔を上げた。右側奥、物置だと聞いていた小さな部屋のドアが細く開いている。

南向きなのだろう、一際強く差し込む陽光が廊下に伸びるのに、吸い寄せられるように近寄った。その向こう、陽光にきらきらと踊る細かい埃に手を伸ばすように、ドアを押し開け――――並べられたミントグリーンに、息が止まった。

「……これ、」

なんで。





「むしろこっちが聞きてぇよ」

放り投げるように言ってやれば、振り向いた彼女は雷に打たれたような顔をしていた。

いっそ亡霊を見るかのような表情に、彼は思わず呆れたように笑う。髪が伸びた。顔立ちからあどけなさは消えている。パンプスの馴染む佇まいは、繰り返した季節の月日を思わせた。

次々と足を踏みいれ、「おー、相変わらず圧巻だな」「並ぶとやっぱすごいよねえ」だなんて好き勝手に周りを見渡す仲間たちを背に、彼もまたその三白眼を柔らかく緩めた。

小さな部屋の壁を、ぐるりと取り囲む五枚の絵。
うち四枚はあの卒業式、朱音の手により各々へ渡された四人の絵。そうして最後の一枚は、フランスに渡ったのちに紫乃が描き、この個展には出す予定のなかったはずの朱音の絵だった。

「よ、北村。久しぶり」

及川、花巻に次いで、最後に二人、松川と朱音とが共に、ドアを潜るようにして足を踏み入れる。眠たげな目に紫乃を映した松川は、いっそう細めた瞳で眩しそうに彼女を見詰めた。そうして昨日も会っていたかのように、けれど決してそれだけでは語れない声音で気軽に言う。

「お前ね、卒業式くらい出てから行けっての」
「…馬鹿紫乃、心配したんだからね」

続いた朱音の声は涙声を隠しきれていなかった。へたくそに笑って見せた親友の涙に、呆然と立ち尽くしていた紫乃の瞳が揺れ始める。だがその衝撃に何とか耐えたかと思われた紫乃は、次の瞬間呆気ないほど簡単に決壊した。


「久しぶりだな、北村」


ぽろり、呆然と揺れる双眸から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

自分がどうして泣いているのか、どうして泣かずにはいられないのか、相変わらず紫乃にはわからなかった。ただ目の前で、離れても遠ざかっても焦がれて焦がれてやまなかったその彼が、岩泉一が笑っている。二年の月日に大人びた色など何の意味もなさずに変わらない、あの美しく透き通った真っ直ぐな瞳で、くしゃり、仕方ねぇなあなんて言うように笑うから。

「おい、泣くなよ、どうしていいかわかんねーだろ」

言うくせに笑ったままの声で、手のひらで、岩泉は紫乃の頭を引き寄せた。懐かしい温度に、匂いに、手のひらに、その腕に大人しく収まって、紫乃はただ言葉もなく泣きじゃくる。

二年がたった。ほとんど皆が二十歳を超え、高校生ではなくなった。それでもあの日々に残してきてしまったいろんなものは、やっと向かうべき先へ歩み始めようとしていた。

160520
これにて閉幕。長らくお付き合い頂き本当に有難う御座いました。
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