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ダァン。

床を打つボールの打突音だけを残して、すべての音が蒸発した。


何が起こったのか一瞬わからなかった。スイッチが切れたように届かない歓声と振動。死んだように凍り付く心臓の位置を確かめたいのに、感覚の遠い手足は僅かも持ち上がらなかった。

あの夏の日に知ったそれとは質の違う静寂に眩暈がする。凍り付いた感性が内側から崩壊するこの感覚を、人は絶望と呼ぶのかもしれない。否、きっとそう呼ぶには足りない。であれば私などの部外者ではない、あのコートの上に立つ当人である彼らを襲う感情は何と名づければよいのだ。

ホイッスルが高く鳴る。文字通りに最後の闘いへ幕を下ろし、勝敗の結末を告げるために。

「―――ッ、」

春の高校バレー、宮城県代表決定戦。
青葉城西高校―――準決勝敗退。






「アイツんとこ行かねーの」

パタン。入部以来世話になってきたロッカーの戸の閉まる音が、この三年に区切りをつけるように響いた気がした。
口火を切ったのは松川だった。周囲でがやがやと着替える皆にはしっかりは聞こえない声量と、聞えたとしても気にならない声音。けれどその言葉の真意は、隣で黙々と着替えていた岩泉の肩を揺らすには十分だった。

「…そういうお前こそ、行かなくていいのかよ」
「俺はもういったし」

いった。それは行ったのか、言ったのか、どちらなのだろう。
柄じゃない深読みが心を掠める。黙する岩泉へと、松川は暫しの間まるで読めない視線を差し向けた。そうして彼は実に何気ない調子で、しかし堂々と、その目の合わない友人の本丸へと斬り込んだ。

「告んねーの?」
「ッ、…はあ!?」

ここに至るまでの水面下の沈黙を根底からひっくり返すドストレート。核心には一切触れずやってきた流れは一体どこに行ったのか。いっそこっちがおかしいのかと思うほどしれっとした顔で投げ込まれた剛速球に、岩泉は信じられないように目を剥いた。

「なっ…わけねぇだろ!つーかお前こそ、」
「いや、だって俺フラれてるし」
「!?」

ポロっと零れた失恋報告は速球を通り越して最早爆弾だった。今度こそ凍り付く岩泉に、松川はつまらなそうな顔をして脱いだシャツを鞄に押し込む。
まあ、報告っつうよか敗北宣言かもしんねーけど。思いつつも混乱の最中にある相手を見ていれば冷静になってくるものだ。松川は肩をすくめて見せ、何でもないように尋ねた。

「そんな驚くことか?」
「…お前が一番、アイツに近かったろうが」
「まあそうだけど。でも、俺はあいつを甘やかしちまうらしいからな」

意味ありげな口調で告げられたそれが指すのは、いつかの美術室での一件だ。自虐ともとれる松川の言葉に、岩泉は罰が悪そうに顔をゆがめて本格的に黙り込んだ。その彼らしい姿を見て、松川は喉を鳴らして笑う。
もう少し追い打ちをかけてやろうか。それは小さな復讐心のようでもあり、確認作業のようでもあった。

「いいんだよ、事実だし。アイツにはお前みたいに、背中蹴り飛ばしてでも前を向かせてやれるやつが必要だったんだよ」
「…北村はお前のこと、すげぇ信頼してただろうが」

不貞腐れたような声が出て、岩泉はそんな自分にますます顔をしかめた。けれど事実だ。いつだって差は歴然だった。紫乃は松川に対し常に無防備で、明け渡せる限りを全て委ねていた。絶対的な安心感。松川は文句なしに、紫乃の一番の理解者なのだ。
そんなもろもろを仏頂面に滲ませる岩泉を視界の端に入れながら、松川は薄く笑って言った。

「なに、妬いた?」
「…そりゃな」
「!」
「けど、そういうもんだろ。アイツがここまでこれたのはお前がずっとついてやってたからだ。んなこと見てりゃわかる」

俺は最後にちょっと手ぇ出しただけだ。

「―――……」

ああ―――こういうところだよ。

得も言われぬ敗北感を感じるのはお門違いだろうか。松川は静かに笑った。良くできた男だと、心底噛み締めるように思う。思わざるを得ないのだ。

岩泉は厳しい。自分にも他人にも、無用な容赦は一切しない。でもそれは最善の決定を導き出す賢明さと、それを揺らがさない強靭な意志に裏打ちされた正しさだ。
自分が痛みを負うことも他人に嫌われることも厭わず、通した筋を貫くことは、優しいだけの甘やかしよりずっと難しく意味がある。
けれど岩泉はその甘やかしを、松川が紫乃に与えてきた優しさを、無意味だったと切り捨てない。それが必要だったと、彼女にとって不可欠だったのだと、何の疑い無く言い切れる。

その気概を表すのに言葉数を増やす必要はない。
それがきっとこの男が持って生まれ、己自身で磨き上げてきた男気というものなのだろう。

「…敵わねぇわ、お前にはホント」

アイツが惚れるのもわかる。

笑って言えば、岩泉はやっぱり顔をしかめて黙り込んだ。吐き出したその声の苦々しさは、疑いようなく本物だった。

「…それァこっちの台詞だ」

真っ直ぐな岩泉が心にもない世辞を嫌うことも、そもそもそんな器用さなど持ち合わせていないことも松川はよく知っている。
松川は満足げに唇を吊り上げた。少なくともこの男にとって俺は十分強敵なライバルだったらしい。 

そう、ライバル「だった」。それでいい。
恋愛と友愛の境目を溶かすような彼女に対する感情は、安らかな終わりを迎えようとしていた。








こんなに澄んで凪いだ気持ちで、ほとんど指を使わずに描くのは何年ぶりにもなるだろう。

筆を下ろす。パレットに散った淡い水彩絵の具。迫力に欠けてもいい。描きたかったのはそこじゃない。
未完成で不完全で、けれどどの角度からどう見ても、向こう側まで透けるほど澄んだ日々を、力強さと繊細さを併せ持った唯一無二を描くには、この透明度は譲れなかった。だからいい。これがきっと、私の描ける最高だった。

目を閉じれば今でもこの身すべてで、あの初夏の日を思い出せる。

圧倒的な迫力、肌を逆立てる覇気、息を呑むほどまばゆい双眸。
衝撃に言葉を失った。描きたいと思った。思ってから冬を迎える今まで描けなかった。
今ならそれも当然だとわかる。あの最後の瞬間までを見ずにして、彼の、彼らのわずかでも語ることが出来るはずがなかった。


がらり、戸が引かれる。不思議とあまり驚かなかった。足音が止まる。息を呑む音。暮れた空の宵闇に塗りつぶされた窓に、現れた彼の姿が映り込むのが見えた。
私は振り返らなかった。ただキャンバスの前でじっと立って、描き上げた絵を見詰めていた。

「―――これ…」

一枚は及川くんを描いた。気高く自信に満ちた姿と華麗なプレーの裏には、文字通り血の滲むような自己鍛錬がある。彼はもしかするとサーブへの注目を望んでいたかもしれないが、私にとっての及川くんは、チームを率い、チームに尽くす一球を上げるひとだった。だから先を見据えて研ぎ澄まされた瞳で、ボールを巧みに繰り出す姿を描いた。

花巻くんはきっとすごく器用で、柔軟なオールラウンダーだ。あと一歩届かないボールを追って振り向いた先には何度も、当然のように彼が待ち受けていた。派手に目立ちはしない、けれど絶大な信頼を寄せられたフォローアップは飄々とした彼らしくて、涼しい横顔に汗を散らし、ボールを掬う姿を描いた。

松川は一番難しかった。一番長く知る彼のイメージは他の誰より多面的で、溢れる何色もの色を拾い集め、一つにして描くのは至難だった。大切な友人。応えられなかったくるしさ。指で描いたのは松川だけだ。大人びた笑みを潜めた静謐の中に圧倒的な存在感を纏い、牙を剥く一瞬を油断なく見極めるネット際での攻防を描いた。

そうして最後に、岩泉を。

「……すげぇな」

―――跳躍の頂点、重力と揚力が釣り合う刹那の滞空。

一夏かけて模索して、けれど帰ってきたのは結局初めに魅せられたその姿だった。スパイクモーション、来ると信じて疑わないボールを待ち受け、負った責任と重圧すら翼に変えて舞い上がる。光の粒を凝縮して深く透き通る双眸は、いつだって硝子の刃のように真っ直ぐ研ぎ澄まされていた。今の私に描ける限りの、岩泉一。

足音が聞こえて、止まって、岩泉の指がキャンバスに触れる。酷くそうっと色をなぞる姿に、心臓が締め付けられた。


「…初めて見た時から、ずっと描きたかったんだ」

眩しいほどの真っ直ぐさに焦がれた。容赦ない優しさに救われ、硬質に澄んだ瞳に魅せられた。

描けないと思っていたひとに向き合えた。鬱屈する閉塞の中で蹲るのをやめる勇気をもらった。息切れしてでも呼吸して、歯を食いしばってでも踏ん張って、それでも立っていられない時には、手も腕もすべて差し出して縋っていいことを理解した。

そうして祖母ちゃんのいない世界でも、息が出来ることを知った。


何度だって繰り返そう。この先どれだけ長く生きたって、こんなひとにはもう二度と逢えない。そう確信できるような人に出逢えたことを、私は私の奇跡と呼ぼう。

「岩泉に会えて良かった」

押し潰されそうな言葉を紡ぐ。ありがちで、使い古しで、けれどきっとこれ以上は見つからない。
きっとずっと、自分でもわからないほど前からずっとそうだった。


「岩泉を好きになって、良かった」


腕を掴まれた。包まれた熱は感じたことのないものだった。ぎゅう、と加えられた圧迫は一瞬で、心臓まで抱きしめるような抱擁だった。


「――――俺もだ」

ありがとな。
掠れた短いその五文字が私の言葉へのものだったのか、描いた絵へのものだったのかはわからない。

ただ心に染み入るように届いたその声が、この一年の尊い奇跡の全てに幕を下ろすのを感じて、私はゆっくりと瞼を閉じた。

160516
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