序章


カランカラン

耳に心地いい音が店内に響いた。木製の少し年季の入ったテーブルを拭いていた手を止めて、佐藤千春は笑顔で振り返る。ふわりと高い位置で結われた彼女の黒い髪が揺れて、ゆっくりと首筋を撫でるように舞った。「いらっしゃいませ。」営業のスマイルを顔に貼り付けて、千春はぺこりと頭を下げた。

「こんにちは。」

「千鳥さん!今日はお早いですね。」

来客者がおなじみの常連だと分かると千春は少しだけ肩の力を抜いた。慣れた手つきでいつもの彼の席に案内し、彼の口から注文が出る前に「いつもので?」と確認の問いかけを行う。照れ臭そうに笑いながら、千鳥はそれに頷いた。もう何度も繰り返されたやり取りだった。


挽きたてのコーヒーの匂いが彼女は好きだった。静かな店内に流れるお洒落なBGMも、白い口髭を蓄えたマスターも、水曜日のお昼に訪れるこの決まったお客さんも。この場所は、彼女の好きがたくさん詰まった場所だった。


「いつもと違う格好でしたから、気づくのに時間かかっちゃいましたよ」


彼のお気に入りのコーヒーをテーブルに置きながら、肩をすくめて笑う。上品な仕草でカップに口をつけるこの常連を、千春は名前しか知らない。毎週通ってくれる仲の良い常連だとはいえ、客と店員としての立場を踏み越える気は無かった。

しかしながら、今日の彼はまるでいつもと違って見えた。ラフな格好で通っていた普段とは違い、よそ行きの高そうなスーツに身を包み、整った顔でカップを持つ様はまるでどこかの御曹司のようである。

「えぇ。何せ今日は人生をかけた日ですから。」

「それはまた…。とても大切な事があるんですね。」

穏やかな目つきは千春を見つめたままにこりと笑ってませる。どきりと頬を赤らめてしまうのは、彼に恋愛感情を抱いてなくても仕方がない事だ。熱が集中する頬な手を当てて、誤魔化すように千春は首を傾げた。正装して人生をかけた日なんて、プロポーズにでも行くのだろうか、とぼんやりと仮説を立てる。


「そうですね。焦がれていたものが漸く手に入りそうなので。」

「もし、迷惑でなければ聞いても良いですか?その、千鳥さんがらそこまで望むものって何なのでしょうか。」


サラサラ流れるミルクティー色の髪に、充分過ぎる程整った顔立ち。加えて身につけているものはどれもシンプルでありながら高そうなものばかりだ。恵まれすぎていると思わざるほど完璧なこのお客は、何を手に入れるのだろう。そんな小さな好奇心で千春は僅かに身を乗り出した。

ちらりと店内を見回しても奥に老人が一人読書をしているだけで、今日の仕事は忙しいとは言い難い。老人の前にあるコーヒーも、おかわりがいるほど減ってはいないのは既にチェック済みである。千鳥とは千春をお気に入りとする常連の一人であり、混雑する事がなければ多少話をしていても怒られる事はないだろう。


「私はね、千春さん」

「!あ、の…?」


ニコニコと相変わらず上機嫌に笑いながら千鳥はそっと千春の手を握った。カッと顔が熱くなるのは条件反射で、心情は戸惑いの方が大きかった。引っ込めようと力を入れた右手は、冷たい千鳥の手によって本人の意思に従う事ができない。


「手に入れたいものがあるんです。」


まるで愛の囁きのように、千鳥の言葉は千春の耳をくすぐった。 時間が止まったように、千春は動く事も声を発する事もできない。抱きしめられたと気づくのは、本当に時計が止まったかのように周りの音が聞こえなくなってしまったからだった。


「どんな事をしても、何を犠牲にしても、どれだけ月日をかけようとも。もうずっと、貴女に焦がれてきた。貴女の幸せそうな笑顔を見るたび、いっそ正反対の絶望を与えて私しか見れないようにしてしまいたいと、何度貴女の首を絞める夢を見た事か…」

「……っ、!」


ぐっと腰に回された手を解く術を知らず、千鳥の思うままに顎を上に上げられ、無遠慮に唇が押し付けられた。嗚呼、これはファーストキスになるのだろうか。理解を求める頭の片隅で、そんな場違いな疑問が浮かんだ。



「私だけを見て。私だけを考えて。私だけを探してください。待っています、いつまでも。ずっと、ずっと。」



無理矢理喉の奥を通る遺物に苦しみながら、そんな彼の言葉を聞いて千春は意識を手放した。


Azalea