『良い人、悪い人』(4年目)

その日は珍しく忙しくはない日だった。

以前から読みたかった本もゆっくり読むことができたし、部下であるメイドと使用人の2人とお茶会をしつつ、なんてことはない会話を楽しんだりもできた。
主であるクロコダイルも外出中で、彼女達は優雅に、そして緩やかに職務をこなしていた。

その安息は午前中いっぱいで終わってしまったけれど。

「アスヒさんッ…!」

慌てた様子でアスヒを引き止めたのは、先程別れたばかりのメイドだった。
彼女を安心させる為に微笑んだアスヒは、何事かをやんわりと聞いた。

答えを聞いたアスヒの表情に険しさが加わる。


†††


ノックをする前に1度深呼吸をして、アスヒは凛と背筋を伸ばす。

彼のことは『知って』はいるが、実際に会ったことはない。
そして知っているといっても、彼の情報はひどく限られているということもある。無礼のないようにしなくては。

「失礼致します」

声をかけて部屋に入ると、伸びていたアスヒの背筋がより一層伸びたような気がした。
部屋を包む冷気にも似た感覚。張り詰めている空気を感じながら、アスヒは客室で待つ彼を見据える。

ソファでゆったりと足を組んで座っていたのは、主君と同じ王下七武海のジュラル・ミホークだった。

最初、鍔広の帽子で顔が見えなかったミホークだったが、少し顔を上げ、部屋に入ってきたアスヒを見つめる。
深々と礼をするアスヒが内心の恐れを一切見せないまま、ミホークに微笑みを向けた。

「大変申し訳ございません。クロコダイル様は只今外出しております」
「ふむ。どれぐらいで戻る?」
「あと1時間程でお戻りになる予定です」

困った顔を見せながらも微笑み続けるアスヒ。ミホークは彼女の言葉に短く頷いた。

「ならば待たせてもらおうか」
「はい。かしこまりました」

王下七武海同士で何か話があるのだろう。アスヒが再び頭を下げた時、部屋をノックする音がした。

アスヒが扉の近くへ寄ると、メイドが来客用の飲み物を持ってきていた。
怯えた顔をする彼女からカートごとそれらを受け取って、メイド長であるアスヒがカートを部屋へと運んでいく。

ミホークはそんなアスヒの姿を見つつ、ふと何かを考えるようにしてから「そういえば」と声をかけた。

「メイド長がいたと思ったが?」
「前メイド長は寿退社しました。今は私がメイド長を任されております」

ぺこりと頭を下げると、ミホークは1度瞬きをすると次に肩をすくませるようにしてから苦笑を零した。

「ほう。苦労するだろう」
「えぇ。とても」

否定するでもなく微笑みと共にそう告げると、ミホークもその鋭い視線を一瞬だけ緩めて微笑みを返した。

初めて見る優しげな彼の笑みに、一瞬ぽかんとするアスヒ。だが、彼女も次ににっこりと笑みを浮かべた。
彼女の笑みはいつもの余所行きの笑みではなく、僅かに優しさが見える笑みだった。

アスヒの微笑みを見て、ミホークも思う所があったのかもしれない。
彼は纏っていた雰囲気を和らげたようにも思えた。
グラスにワインを注ごうとしたアスヒの手を止めて、ミホークは帽子を深くかぶり直す。

「俺は一眠りしよう」
「はい。何かありましたらお呼び下さい」

ミホークは足を組み、腕を組み、そのままソファで眠る体制をとった。アスヒは目を閉じている彼に再び頭を下げて部屋を出る。

「…うん。いい人だ」

扉を閉めて、廊下に1人になったアスヒはそう確信して小さく微笑みを浮かべる。
七武海故の独特の雰囲気をまとってはいるが、それよりも紳士的な態度が好ましかったアスヒはミホークを『いい人』認定する。

少し上機嫌になった彼女はカートを押しながら長い廊下を歩き出した。


†††


1時間程してからだった。予定通りに帰ってきたクロコダイルの姿を見つけて、アスヒは彼に駆け寄った。

「お帰りなさいませ、クロコダイル様。
 ミホーク様がお見えです」
「あ? …どうせ、会議のことだろ」
「会議?」

面倒臭そうに呟くクロコダイルに、アスヒは思わず聞き返してしまっていた。
アスヒを見下ろすクロコダイルの目を見て、アスヒは自分の失敗に気が付く。

「てめぇには関係ない」

そうですけれども。

即答された言葉にアスヒは内心不満げだ。深々と頭を下げて客間に向かう主君を見送る。
2人のために飲み物を用意しなくては、と準備してから客間に向かうとちょうどミホークが出てくる所だった。

ミホークも出てきた時にアスヒの姿に気が付く。頭を下げたアスヒに対して、ミホークは苦笑を見せた。

「追い出されてしまった」
「えっ」
「気に障ることを言ったようだ」

肩を竦めるミホークはたいして気にした風もない。が、1時間近くも待たせた相手を5分もしない間に追い返すのはどうなのだろうか。

何も言わないながらも口を尖らせるようにしていたアスヒに、ミホークは視線を向けたあと彼女に手紙を差し出した。

「あとでクロコダイルに渡しておいてくれ」

ミホークもクロコダイルの気まぐれを予想して予め手紙を用意していたのだろう。
こういった扱いを受けるのは1度や2度ではなさそうだ。アスヒは顔をしかめたままだ。

「かしこまりました。
 主の非礼、誠に申し訳ございません」

再び頭を下げるアスヒにミホークも苦笑を返した。最後に「前メイド長に会ったらよろしく頼む」と言い残し歩いていくミホーク。
そんな彼の背中を見送って、1度溜息をついたアスヒは振り返って、クロコダイルの私室の扉をノックする。声とともに部屋に入ると、やはり彼は不機嫌そうだった。

「ミホーク様からお手紙を預かっています」
「そこに置いとけ」

ミホークが例えどんなにいい人だろうとも、アスヒの主君は、今とても機嫌の悪いクロコダイルなのだから。

何があろうと主を変えるつもりはない。

今の所、だけれども。


(良い人、悪い人)

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