『彼女の朝のはじまり』(3年目)
アスヒの朝は早い。
睡魔によりぼんやりとする意識を無理矢理覚醒させ、数種あるメイド服のひとつに袖を通して身支度を整え、部屋を出る。
まず真っ直ぐに厨房に向かい、誰もいないその静かな空間で、アスヒ達用の掲示板に今日の予定と指示を書き込んでいく。
そしてその書き込みが終わったぐらいに、住み込みではなく唯一自宅から通っているコック長が出勤してきた。
お互い朝の挨拶を済ませて、コック長はクロコダイルの朝食作りを始め、その隣でアスヒも自身の朝食を軽く済ませる。
2人で呑気な会話もしつつ、手早く朝食を食べ終わったアスヒは次に専用のカートを用意する。
カートに出来上がったばかりの朝食を乗せ、きちんと銀色のクロッシュを被せて。
「では、いってきます」
アスヒは寝起きのクロコダイルの元へと朝食を運んでいくのだ。それが彼女の朝のはじまり。
朝の静けさと寒さが残る廊下を、アスヒは慣れた手付きでカートを押して歩む。
寝起きのクロコダイルは決して機嫌が良いとは言えない。だからこそ、この朝食を運ぶ仕事はメイド長しか任されていなかった。
大人気なく殺気を放つクロコダイルは確かに恐ろしいが、アスヒはそれがただの低血圧だと知っているため毎回大した気にすることもなく、むしろどちらかといえば呆れさえ覚えていた。
呆れた顔が彼に見つかれば、それこそ殺気は本物になりそうだけれども。
ノックノックノック。3回ノックを繰り返して、アスヒは少し待つ。でもここでクロコダイルの返事がないのはいつもどおり。
「失礼いたします」
声だけはしっかりとかけて、アスヒはカートを押して私室へと足を踏み入れる。
奥の寝室からもやっぱり反応はないのだけれども、いつもテーブルに朝食を並べていけばそのうちズボンとワイシャツだけのラフな姿でふらりと寝室から出てくるのだ。
その時ばかりは隠すこともなく眠たげな顔をしているクロコダイルを少しだけ見て、アスヒだけはさっさと退室するのが常だった。
食器下げや食後のお茶の時間あたりにもなると、クロコダイルの目もだいぶ覚めてくるので、あとはメイドに仕事を任せらる。
今日もアスヒはさっさと朝食を並べて退室する予定だった。
のに。
(………珍しい)
アスヒが朝食を並べ終わったあとも奥の寝室からなかなか姿を見せなかった。
気配に鋭いクロコダイルであれば、例え眠っていたとしてもノックして部屋に入れば嫌でも目覚めてしまうだろうに。
普段とは若干の違いにアスヒは戸惑う。クロコダイルの寝室に入るべきか否か。
風邪だったら事だが、あのクロコダイルが風邪など引くのだろうか。
若干失礼なことを真面目に考えつつ、誰もみてないのをいいことに思い切り顔をしかめたアスヒは、はぁと溜息をついて、クロコダイルの寝室へと足を進める。
放っておいてもいいのかもしれないが、今日もクロコダイルには沢山の予定が詰まっていたはずだ。クロコダイル自身が困る分には全くもって構わないが、こちらに八つ当たりされてはかなわない。
「クロコダイルさまー」
ゆっくりと潜めた声で名前を呼びつつ、反射的に殺されないことを祈り、寝室へと入っていった。
広い寝室の、大きなベッドへと近づいていき、覗き込むと目を閉じているクロコダイルの姿。浅い息を繰り返すクロコダイルは確かにまだ眠っているようだった。
(驚いた)
素直にアスヒはそう思う。こんなにも至近距離でクロコダイルが眠っている姿を見るとは思わなかった。
驚きつつも、このままクロコダイルの寝顔など眺めていても面白くないし、アスヒはさっさと彼を起こすことにする。
「クロコダイル様ー?」
声はしっかりとかけて、肩に触れて少し揺する。この場にはクロコダイルとアスヒ以外の誰かが来ることもないだろうし、クロコダイルに咄嗟に殺されないように能力を使うことすら考える。
警戒はしていたはずだった。だが、クロコダイルの瞼が開かれて金目を見つけた瞬間、アスヒの視点はいつの間にか天井を見上げていた。
ミズミズの能力を使う暇もなく、両腕を右手ひとつで抑えられ、喉元には金の鉤爪があり、少しも勝てる気がしないアスヒは内心で舌を打つ。
殺意が溢れているクロコダイルに馬乗りにされたアスヒは、むすとした表情のまま身動きを取ることも出来ずにじっとクロコダイルを見つめる。
眠気が若干残っていたクロコダイルだったが、少しして覚醒してきたらしい。アスヒの姿を確認したクロコダイルはぱちくりと瞬きをした。
「は?」
そんなに驚きの表情を浮かべられても驚いているのはアスヒも同じである。
彼女も「えーっと」と困惑の声を掛けつつ、それでも反射的には殺されなかったことに安堵して、アスヒは戸惑いつつの言葉を続ける。
「ええと、朝食をお持ちしたのですが…」
「………わかった」
クロコダイルは短くそう答えて身体を砂に変えてアスヒの元から離れていく。
掴まれていた腕も解放されたアスヒは、身体を起こし、ベッドに腰をかけたその体制のまま腕をさする。
彼女自身もまだ若干混乱しているが、早めに平常に戻ろうと立ち上がる。
その瞬間、アスヒの隣、ベッドの隣に上半身裸のままのクロコダイルが現れた。
彼の手にはシャツやいつも首元に巻いているスカーフ等が握られていた。
「いるならついでに手伝え」
言葉にきょとんとしてしまうアスヒだが、次には全てを諦めてシャツもスカーフも全て受け取る。
クロコダイルの背後からシャツを着せてから、正面に回り、ボタンを留めていく。
2人の間に距離はほぼない。アスヒは自分の手元を見つめて、クロコダイルは黙ってアスヒを見つめていた。
視線を感じつつもボタンを留め終えて、アスヒは次にスカーフを手にしてクロコダイルの顔を見上げた。
アスヒを見つめていたクロコダイルと視線が合って、アスヒは少し困ったような表情をする。
「……。少し屈んで頂けますか? スカーフがまけません」
淡々と告げられた言葉に、彼女の腰元辺りにあったクロコダイルの手がただ彷徨った。
舌打ちを零したクロコダイルはさらりとその両足を砂に変えた。きょとんとしたアスヒの身体が砂に包まれて、彼女から短い悲鳴が上がった。
彼女の悲鳴が落ち着いてきた時には、クロコダイルはベッドの淵に座り、アスヒは彼の膝の上に座り込んでいた。
(……どこかの誰かみたいなことをする)
アスヒは脳裏に桃色のコートを思い浮かべ、命が惜しいが故に、決してそれを口にすることなく、彼女はクロコダイルの首に腕をまわした。
香水もつけていないクロコダイルは、葉巻の香りがした。スカーフを結んで、何事もなかったかのように立ち上がろうとすると、アスヒの腕に鉤爪が引っかかった。
「なんです?」
疑問の目を向けて問いかけると、クロコダイルは眠たそうな瞳を向けていた。
「なんもねぇのかよ」
「………なにかあって欲しいのですか?」
問いかえすと少し間を置いたあとにクロコダイルの舌打ち。鉤爪が外されてクロコダイルの姿がまた砂となって消える。
鉤爪が引っかかっていたあたりをさするアスヒが立ち上がり、部屋に戻ると、朝食を並べた前にクロコダイルが座っていた。
「……何かありましたらお呼び下さい」
アスヒはいつものように声をかけてから頭を下げて、部屋を退出していく。
クロコダイルからは特に何もなかったが、不機嫌なようには見えなかった。廊下を歩きながらアスヒははぁと長い息を吐く。
「びっくりした」
思わず声に出した彼女は言葉とは裏腹にどことなく機嫌が良さそうだった。
(彼女の朝のはじまり)