『グラスにワインを満たして』(5年目)
『寝酒持って来い』
今日の業務も恙無く終わったしシャワーも浴びて寝巻きに着替えて、あとはもう明日に向けて寝るだけ。といったその瞬間にクロコダイルからでんでん虫がかかってきた。
一言だけ告げられ、すぐに切れてしまったでんでん虫。それを睨みつけながら、アスヒは折角着替えた寝巻きを指で弾いた。
「よくも私の貴重な睡眠時間を…」
悪態をつきつつもクロコダイルの命令を無視するわけにもいかず、彼女は再びメイド服に着替えなおしてからワイン倉庫に向かい、何本かを品定めしてクロコダイルの私室へと持っていった。
「失礼します」
声をかけて深々と頭を下げて部屋に入っていくと、ソファに座っていたクロコダイルの視線がアスヒに向けられた。
彼はもう既に風呂にも入っていたのか、いつも綺麗に整えられている髪は無造作におろされていた。
「着替えてきたのか」
メイド服姿のアスヒに対してそう声をかけるクロコダイル。
アスヒはぱちくりと目を瞬かせたあと、彼の前にグラスを置きながら答えを返した。
「主の前に出るというのに、寝巻きではいけないと思いまして」
かたりとグラスと置くアスヒをクロコダイルは黙って眺めている。アスヒは急いで着替えてきたハズにも関わらず、いつもの赤い指輪をつけていた。
そのことに気が付き、クロコダイルは内心愉快だと笑う。軽く目を伏せながら彼はゆったりと声をかける。
「機嫌悪いな」
「クロコダイル様は大変機嫌がよろしいようで」
あっさりと言葉を返し、アスヒは選んできたワインボトルを取り出した時、クロコダイルの眉間の皺が深くなった。
「てめぇ、1番安い酒を持ってきたな?」
クロコダイルの言葉に、視線を向けないままにアスヒの口元に笑みが浮かぶ。
主に睡眠を妨害された彼女の小さな復讐。アスヒは微笑みを浮かべ、言葉を紡ぎながらワインを注ぎ入れる。
「ここにあるのは貴方様が例え安酒といっても、一般的には値の張るものでしょうに」
「屁理屈たぁ、生意気じゃねぇか」
低く声を出したクロコダイルだったが、ワインが注がれたグラスを持ち上げる。
再び取りに行かせることも出来たが、それすらも面倒だったのか、クロコダイルは大人しくそのワインに口をつけていた。
酒を嚥下するクロコダイルをちらりと見たアスヒは、さっさと退室してしまおうと、スカートの裾を少しだけ持ち上げながら深々と頭を下げた。
「まだ退室の命令はしてねぇよ」
だが、その動作をクロコダイルは一言で止めた。アスヒの表情に一瞬だけ怪訝そうなものが浮かぶ。
浅く笑ったクロコダイルは困惑しているアスヒに向かい、言葉を続けた。
「てめぇも、飲め」
「え」
スナスナの実を使って片腕を飛ばしたクロコダイルは、部屋の何処からか新しいグラスを持ってきた。
手に押し付けられたグラスを困惑の表情で見つめながら、そしてアスヒは少しだけ不満げに頬を膨らました。
「それなら1番高いものを持って来ればよかった」
「クハハハハ」
上機嫌に笑ったクロコダイルがボトルを掴んで、注ぎ口をアスヒに向けた。
主に酌をさせることに抵抗を覚えるアスヒだったが、クロコダイルを待たせてはいけないとグラスを持っておずおずと彼に差し出した。
「飲めんのか?」
グラスにゆっくりと酒が入っていく中、クロコダイルがふと思い出したかのように問いかける。クロコダイルはアスヒがアルコール類を飲むところを見たことがなかった。
注がれる真紅を眺めながらアスヒはゆっくりと答える。
「強くはありませんが、味を見る程度には」
「ならいい」
満足げにそう言うクロコダイルがソファの背もたれの部分に鉤爪を乗せてくつろぐ。
グラスを持ったままのアスヒが、彼の対面に座ろうとした時、クロコダイルは顎で自身の隣を示した。
再び悩むアスヒだったが、やがてゆっくりとクロコダイルの隣に腰をかけた。彼はより一層満足げにしていた。
(本当にご機嫌)
アスヒは上機嫌な主の姿を見ながら、グラスに口をつける。
クロコダイルが安い酒だ。とは言っても、それはとても上質で、アスヒは素直に美味しいと感じた。
舌の先で転がして味わいながら嚥下して、ちらりと上機嫌なクロコダイルを見る。
この調子ならば問いかけても機嫌を損ねないだろうと判断した彼女は、素直に主に問いかけた。
「何か良いことでも?」
「まぁな」
そしてやはり、いつもならば返っては来ないであろう肯定がすぐに戻ってきた。
クロコダイルがそれ以上を言うことはなかったが、それでも珍しいと再三思いながら、静かに酒を進める。
2人は特別会話することなく静かにボトルの中身を減らしていく。
「国を欲しいと思ったことは?」
ふいに掛けられたクロコダイルの問いかけを、アスヒはただ黙って聞いていた。
少し考えるアスヒがもう1度ワインを口にして、そして視線を落としたまま呟いた。
「……国、ですか」
規模が大きすぎてイメージがしづらい。ただの宝石や生活用品ならば手に入れた時の喜び効果はきちんとわかる。だが、国ともなると…。
考えるように黙ったアスヒを、促すようにクロコダイルが言葉を続けた。
「国の支配者となって、国や人員を管理して好き勝手に生きたいと思ったことは?」
「……考えたこともありませんでしたわ」
追い打ちをかけるように問いかけてきたクロコダイルに、考えていたアスヒは諦めたように素直な感想を返した。