『グラスにワインを満たして02』
「姫や女王にはなれませんよ、私は。きっと器ではないのでしょう」
それは正直な感想だった。ごくごく一般的な人間だったアスヒは、クロコダイルの屋敷に来てそれなりに豪勢な暮らしを目の当たりにした。
が、それはあくまでも仕える者としてだけだ。他の誰かに敬われたり、崇拝されたりするのは、元から性に合わない。
国を手にしたとしてもアスヒの手にはあまるだけだ。
アスヒは小首を傾げつつ、クロコダイルを見つめた。
「貴方様は国が欲しいのですか?」
「国はいらねぇなぁ」
問いかけたというのに、クロコダイルはあっさりとそう言った。そして、一瞬だけらんと目を鋭く輝かせたクロコダイルが言葉を続けた。
「欲しいのは軍事力だ。
…てめぇは俺の戦力だ」
伸ばされた鉤爪がアスヒの首を引っ掛ける。無理矢理に近づいた距離にアスヒの視線がクロコダイルに固定される。
アスヒは慌てることもなくただ黙って彼を見つめていると、クロコダイルは悪そうな笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。彼との距離は息がかかりそうなほど近かった。
「ミズミズの実の能力者が他の能力者に負けることはない。最強の実だ。
…油断さえしなけりゃな」
「クロコダイル様にも勝てるようになるんでしょうかね」
一切頬を赤らめることすらもしないアスヒが、感情をみせない声で小さく紡ぐ。言葉を聞いてもクロコダイルはにやりと笑っていた。
「俺に逆らう気でもあんのか?」
「……ありませんけれども」
クロコダイルに逆らう気は毛頭ない。それは数年前から変わっていないし、これからも変わることはないだろう。
アスヒは視線を落としてから、大人しく彼の腕に収まったまま思考に耽る。
もしも国を手にした時、彼はそれで満足するのだろうか。
軍事力を手にしたあと、彼は世界と戦争でも始めるのだろうか。
その時、アスヒはどこにいるのだろう。
もし、望んだ場所にいられるのならば、アスヒは、
「わ」
アスヒが思考の波に飲まれていると、クロコダイルが突然彼女の肩を引き寄せた。
1度驚きの声を上げてしまったが、すぐにいつものように落ち着いて彼の好きなようにさせる。
クロコダイルは器用に片手でボトルを引き寄せて、アスヒが持ったグラスにまたワインを注いだ。
満たされるグラス。アスヒは抱き寄せられながらクロコダイルを見つめる。
「…貴方様のペースに合わせていたら潰れてしまいますわ」
「誰も合わせろなんて言ってねぇよ」
酒をついでおいてそんなことを言うクロコダイル。アスヒは溜息をついて、グラスの中身を一気にあおってからぴったりとクロコダイルに寄り添い、瞳を閉じた。
目を閉じるとクロコダイルがいつも吸っている葉巻の香りがする。いつもはこうやって寄り添うことなんて絶対にしないが、今日くらいはいいだろう。こんな遅い時間に呼び出したクロコダイルが悪いのだ。
ちらりとアスヒが見たクロコダイルが静かに呟く。
「寝るのか」
「眠りますわ。…明日も早いですもの」
欠伸を噛み殺してから、クロコダイルに鉤爪に指先を乗せて遊ぶ。こんなことが出来るのもクロコダイルが機嫌がいい時だけだ。と冷たい金属の感触を堪能する。
クロコダイルは左手を自由にさせておいて、自分はアスヒの髪に触れる。
触れられる髪を心地よく思いながら、アスヒは小さく寝言のように言葉を紡いだ。
「飽きたら捨て置いてくださいまし」
目を閉じるとすぐに睡魔が襲ってくる。
(本当に放置しやがった。あの鰐野郎)
目覚めた時には、ソファにそのまま放置されていたアスヒ。
彼女は寒さにくしゃみをひとつして、自分はさっさと寝室に行ってしまったであろうクロコダイルの、見えない姿を睨みつけた。
だがそれもすぐに諦めて、アスヒはソファの上で身を起こす。
身体には掛布1枚かけられていない。もう1度内心で不満を零して、アスヒは立ち上がった。
何事もなかったように彼女は今日もメイドの仕事を始める。
(グラスにワインを満たして)