『桃色の鳥と水02』
でんでん虫越しに伝わってくる怒りにアスヒは眉根を下げながら、溜息混じりの声を出す。
「ナノハナですわ」
『ナノハナ?』
「よぉ、クロコダイル」
覗き込むようにしてアスヒの持っているでんでん虫に声をかけるドフラミンゴ。
でんでん虫越しのクロコダイルが顔を顰めるのを感じ取った。
『…ドフラミンゴ』
「察してくださいませ」
小さく声を返すアスヒに、クロコダイルは不機嫌そうにしながらもそれ以上アスヒを責めたりはしなかった。
にやにやと笑っているドフラミンゴを他所に、アスヒはクロコダイルに言葉をかけた。
「隙を見てそちらに帰りますわ」
「おい」
『そうしろ』
「おいおい、てめぇらホントつれねぇなぁ」
そうは言いつつも楽しげなドフラミンゴを不満げに睨むアスヒ。
『夕食の準備はしろ』
最後に言葉を告げてがちゃりと切られたでんでん虫。アスヒの表情が困惑に変わる。
懐中時計を取り出し時間を確認して、改めて溜め息が溢れた。
「………間に合うかなぁ…」
アスヒはちらりと隣のドフラミンゴを見上げる。ドフラミンゴは初めて不服そうに口を尖らせた。
「本当に帰る気でいるのかよ」
拗ねたような声にアスヒはにっこりと微笑みを向けた。
「あら。送っていってくださるんですか?」
「えー、どうしようかなぁ」
一切返す気はないであろうドフラミンゴが笑顔を向ける。アスヒもにっこりと笑顔を返したあとに、冷たく溜息をついた。
「何が良くて私に構うのです?」
「あの鰐が気にしてるからな。何か裏があるんじゃねぇかと思って」
今までクロコダイルが他の人間を、政府の会議に連れて行ったことなどないのだろう。
それだけで疑うドフラミンゴもどうかと思うが、疑われてしまう彼の人間性もどうかと思う。よっぽど他者を近づけない生活をしていたのだろう。
「それで何か見つかりました?」
「なーんも」
「そうですか」
淡々と答えを返したアスヒ。ドフラミンゴはにっこりと笑いながらアスヒの肩を抱いた。
「ホントなーんもな。どっから来たのかも、生まれも、親も、歳も、詳しいことはなぁーんも、な」
アスヒを抱き寄せるドフラミンゴの力がぐっと強くなる。
言ってしまえば異世界から来たアスヒの情報などあるはずがない。
ミズミズの実を食べてからはクロコダイルも、外部にアスヒの情報を極力出さないようにしている筈だ。
「かえって怪しまれてる、と」
浅く微笑みを向けるとドフラミンゴは内心を悟らせない笑顔でアスヒを見下ろしていた。
「そういうこと。名前だって調べるの凄く大変だったんだから」
大袈裟に肩を落としてから、ドフラミンゴは逃がさないとでも言うようにアスヒの肩を抱いているその手を力を強くさせる。
今は逃げる気のないアスヒは不快感を抱きつつも、ドフラミンゴからの質問を淡々と返していた。
「なんかの能力者?」
「どう思います?」
「ぱっと見能力者には見えねぇが、」
その時、不意にドフラミンゴが取り出した指輪。その宝石部分を押し当てられてアスヒはぞわりとした体内を隠して、怪訝そうな顔をする。
ドフラミンゴは一瞬驚いた顔をしながらも、納得したように指輪を彼女から離した。
「……海楼石。は、効いてねぇみてぇだな」
「これに海楼石が?」
驚きの表情を浮かべつつ、指先で宝石部分をなぞるアスヒ。
決してドフラミンゴには悟られないようにしていたが、指先から感じ取れる力に、これが本物の海楼石のものだと確信していた。
ドフラミンゴは取り出した指輪をすぐに頑丈そうな箱へと戻す。海楼石は能力者には危険な物質だ。
下手に扱ってしまえば、ドフラミンゴも不利になるだろう。アスヒは呆れたように告げる。
「わざわざそんなものまで持ち出したのですか?
クロコダイル様の前では出さない方が得策ですよ」
「出さねぇさ。あいつは機嫌を損ねたら面倒だからな」
笑いながら告げられた言葉に、ドフラミンゴとクロコダイルの付き合いの長さを察する。
それでいて一切仲良さそうに見えないのだから、クロコダイルはよっぽどドフラミンゴを嫌っているようだ。
肩に回っていたドフラミンゴの手が腰元まで降りてきて、さらに撫でようとしてきた時に、アスヒは手を弾く。
「節操のない人」
ふんと愛想なくそっぽを向いて、ドフラミンゴを置いて先に行くアスヒ。
ドフラミンゴはすぐに歩幅を詰めて、ひとり楽しそうにしている。もう1度肩を抱き寄せると、アスヒは諦めたように溜息をついていた。
「男慣れしてねぇくせに逃げねぇな」
「逃げられたらいいんですけれど。一般人です故、七武海には勝てそうにありません」
さらりと答えを返して、そっぽを向くと、ドフラミンゴは楽しそうに笑った。
「なぁ、そんな一般人のメイドちゃんよ。俺はこのままてめぇを逃がすつもりはないんだけど、どうやって逃げるつもりなわけ?」
サングラスの奥の目を細めながら、アスヒを見つめるドフラミンゴ。アスヒはドフラミンゴを見つめ返した。
「内緒です」
アスヒは口元に人差し指だけを当てて、にっこりと綺麗な微笑みを向けた。
完全に他所向きの笑顔だったが、それは息をのみそうになるほど美しい微笑みだった。
「へぇ」
美しいアスヒの姿を見て、サングラスの奥で目を細めるドフラミンゴはにやりと不敵な笑みを返す。
「じゃあ、それまでデートだな、アスヒちゃん」
調子に乗ってまた腰元に伸びてきた手を、アスヒはぱちんと弾いた。
ドフラミンゴはその程度では諦めないのだけれど。
「欲しいものはねぇの?」
「では、食材と洗剤、基本的には消耗品各種…。あぁ、あと新しい帳簿ですね」
指折り数えて告げると、ドフラミンゴはあからさまに呆れた顔をする。
「……。そうじゃねぇだろ。女だったら洋服とか香水とか、指輪なり宝石なりなんでもあるだろーが」
「お洋服はメイド服だけでよろしいですし、香水も気に入ったものがありますし、指輪も…」
一言区切ったアスヒが片手を上げて、赤い指輪に視線を注ぐ。視線はどこか満足げだった。
「これが気に入ってますから」
「ふぅん。随分安い指輪つけてんな」
でこぴんの要領ではじかれそうになった指輪を彼から遠ざけて、アスヒはふいと顔を背ける。
彼女はこれが何よりも大事なものなのだ。貶されて嬉しいわけもない。
「随分安い指輪…」
一方ドフラミンゴは自分が言った言葉が何か引っかかったのか、言葉を繰り返して、そして次に思い出したように赤い指輪が嵌められているアスヒの手を掴んだ。
アスヒは隠すこともなく怪訝そうな顔を浮かべる。
「なん、ですか?」
「そうだ。そうだ。あの鰐野郎もあいつらしくねぇ安い指輪つけてたんだよ。
あれ、アスヒちゃんの趣味だろ」
確認するように指輪を見ているドフラミンゴ。アスヒは表情をムッとしたものに変えて、ドフラミンゴの腕を振り払った。
「貴方様が言っている指輪が私が考えているものと同じならば、それは彼自身で購入したものですわ」
「だとしても選んだのはアスヒちゃん?」
「主への詮索はその程度で」
言葉を断ち切って、アスヒは先を進む。追いついたドフラミンゴは1人何か納得したように頷いていた。
1人楽しそうに頷いた彼はアスヒと並んで歩きながら、フッフッフッと笑った。
「そーんなに鰐野郎といて楽しいか?」
「楽しくはありませんよ。何をしたってお礼のひとつも言われないんですから」
「逆に言うけど、素直に礼を言う鰐野郎を見たいわけ?」
言葉にアスヒは人差し指を唇に当てて一瞬黙り込む。少し考えたアスヒは次に苦笑を零した。
「……遠慮したいものですね」
「だろ?」
「それでも私の唯一の主ですもの。……私は彼の傍にいなくては」
小さく呟いた彼女は儚げで、美しさをより一層際立たせているようだった。
ドフラミンゴはそんなアスヒを興味もなく一瞥したあと、アスヒから手を離して飲食店の方へと少し歩いた。
「なぁ、アスヒちゃん、ここ…、」
入ろうぜ、と続けたかったドフラミンゴの言葉が消えていった。
振り返ったドフラミンゴが見たのは街の中を流れる川だけで、アスヒの姿がどこにもなかったのだ。
「糞! やられた…!!」
たった一瞬だ。一瞬だけ目を離した隙にアスヒはドフラミンゴの元から姿を消していた。
舌打ちを零しながら、ドフラミンゴは片手を手繰るように握るが、何の感触も残ってはいなかった。