『恵雨』(番外・短編)

雨が降っていた。リズミカルに窓を叩く雨の音は聞いていて耳に心地よい。
遠く聞こえる水の跳ねる軽やかな音も、雨粒同士がぶつかる賑やかな音も。いつもは乾燥しきっているアラバスタの空気も、今ばかりはしっとりとして過ごしやすいものだから、居心地の良さに思わず鼻歌まで歌ってしまっていた。
ようは今の私はとってもご機嫌なのである。

クロコダイルの私室をいつものように掃除しながら、鼻歌交じりに箒を動かしていく。
換気のためにも窓すら開けたい気分だが、周りの家具を濡らして殺されるのは勘弁なので、そこは流石に理性を留めておく。

暫くご機嫌のまま掃除を続け、はたと自分に帰ってきたのは葉巻の香りを感じとったからで、驚きと共に勢い良く視線を入口に向けると、そこには葉巻をふかしつつ、じっと私を見ているクロコダイルの姿があった。

ご機嫌に鼻歌を歌っていた様子を見られ、私の肩が異常な程に跳ねる。手に持っていた箒が思わず上がり、箒の柄が近くに置かれた花瓶に当たり、揺れる花瓶。
そうして重力に逆らうことなく落ちていった花瓶は、私が止める間もなく地面へと追突して、粉々に割れてしまった。

サァと身体中の血の気が引いていく。叱られる覚悟と殺される覚悟を一瞬で整えていたが、クロコダイルは対して気にしている風もなく、短く鼻を鳴らしてから自身の執務席に向かうだけだった。
別に叱られたかった訳では決してないが、それが逆に居た堪れなくなってしまい、私は落ちた花瓶の破片を片付けながらクロコダイルへと声をかける。

「私の給料から引いてくださいませ…」
「向こう3ヶ月は無くなるな」
「やっぱり大目に見てください」

顔を顰めたまま言葉を続けると、クロコダイルはクハハと楽しげに笑う。
弱みを握られたような気分になって、頬が僅かに染まる。何も言わないでくれたら一番良いのに、クロコダイルは私の想いに反してニヤニヤとこちらを見ていた。

「ご機嫌だな」
「そちらもどうぞ忘れてください」

頭痛が痛い。普段はそんな事しないのによりにもよってクロコダイルに見られたことが羞恥を覚えさせていて、一層居た堪れない。私の口からは自然と言い訳地味た言葉が零れる。

「……雨が降ると楽しくなってしまいまして」

私が口にした『ミズミズの実』。能力者だと言うのを隠しているせいもあって、クロコダイルのように日常的に能力を使用している訳では無いが、やはりバナナワニの水槽近くや雨の日など、大量の水が傍にある時には心無しか体調がとても良いのだ。
浮かれたその気持ちのまま先程花瓶を割ることとなったので、これからは気を付けようとは思うが、それでもやはり雨の日は居心地が良い。

「アラバスタの人間らしいじゃねぇか」
「ですね」

からかうように言ってくるクロコダイルにおざなりに返事をして、花瓶の破片を手にする。
小さな報復も含めて、中に飾られていた花を一輪取ってクロコダイルの机に置く。机の上の書類を濡らしてはいけないので、勿論水気は取ってからだ。

クロコダイルは葉巻を咥えたまま、私の置いた花の茎あたりを摘み、つまらなそうにクルクルと回していた。
ようやっと割った花瓶を片付けてふぅと息をつく。クロコダイルが徐に花を持ったままの右手を突き出してきたので、不思議に思いつつも手を伸ばすと、彼の手の中で水分を吸われて枯れていく花。

「これも片付けておけ」
「……承知致しました」

可哀想な花と可愛くない鰐。じととクロコダイルを睨むが花と同じ運命を辿りたくはないため、特に私から何かを言うことはない。

「何時止む?」

私とは違って雨嫌いのクロコダイルの問いに、私の視線が窓の外へと向かう。
深い雨雲から感じる雨量を思うに、まだまだ雨は長引くだろう。

「残念ながら今日は夜まで続きますよ」

私の言葉に見るからにうんざりとした表情をするクロコダイルに思わず苦笑が零れる。

「雨もそんなに悪いものじゃありませんよ」

そうは口にしてみるけれど、クロコダイルの表情を見るに彼の雨嫌いを無くすことは無理そうだ。彼にとっては死活問題にも関わってくるのだから尚更だろう。

手の中に残った花を見つめて、ふと思い至った私は、枯らされた花を手の中で少し回し、ミズミズの実の能力を使って花を生き返らせる。
懲りずにもう一度クロコダイルの机にさっきよりも水々しく咲き誇る花を置いてやると、クロコダイルの心底呆れた顔。私の得意げな顔。

「懲りねぇなぁ。誰に似たんだ」
「とても心根の良い主君に使えていますので」
「可愛くねぇ」
「新しい花瓶をお持ち致しますわ。そちらのお花をもう少し持っていてくださいね」

そう言い残して部屋を出る。背中に掛けられる私を引き止める声は無視だ、無視。
どうやらクロコダイルも珍しく機嫌がいいらしいし、この程度の扱いでも許されるだろう。
廊下に出ると、酷くなったらしき雨がさらに激しく窓を叩いていた。また溢れそうになる鼻歌を堪えて、私は足取り軽く雨の廊下を進んでいく。

こんなにも『良い天気』なのに、なんて勿体無い過ごし方をする可哀想な鰐だろう。花瓶を取りに行くついでに新しい花でも増やしてやろうじゃないか。


(恵雨)

prev  next

- 74 / 77 -
back