霧の中をひたすらに走る。霧の中から聞こえるのは喘息のような途切れとぎれの呼吸音。見えるのは人とは到底思えない化物の影。
何故こんなところに足を踏み入れてしまったのだろう。何故こんなところまで来てしまったのだろう。俺がなにをしたというのだろう。

迫り来る化物から逃れて俺は手近なビルへと足を踏み入れていく。
走りすぎてしまって足がもたついてしまい、思わず手をついた。その壁も内蔵が裏返しになっているかのように、赤黒く柔らかく暖かく、どことなく脈動を打っていてあまりの嫌悪感にすぐ手放した。どこもかしこも、なんなんだ、ここは。
室内は文字通りの肉壁と、コンクリートの壁が混在していた。俺の足は自然とコンクリートの壁が続く通路を選んで進んでいく。どこかで休みたいがどこが安全かもわからない。どこまでいけばいいのかもわからない。

見えた扉に思わず駆け込むとそこには肉壁も血錆もない部屋が広がっていた。ここにはあの闇が来ていないのだろうか。ここなら少し休めそうだ。こみ上げてくる吐き気を堪えて、息を吐く。

呼吸を整えて、部屋の奥に足を踏み入れたところで、俺の足はぴたりと止まった。

部屋の中にはマットレスのない、鉄パイプがむき出しのベッドが置かれていた。そしてそのベッドには膝に白いシーツをかけた女が目を閉じ、静かに座っていた。開けっ放しの窓からは緩やかな風が流れてきて、女の髪を揺らしている。
部屋は今までの闇が夢だったかのようにごくごく普通の部屋だった。ただひとつだけ、普通じゃないものが紛れ込んでいた。

大鉈だ。人の背ほどもある大鉈が、ベッドを貫くようにして立てかけられており、女はその大鉈の平の部分に頭を預けて眠っているようだった。
女はどちらかというと華奢な方で、隣にある馬鹿でかい大鉈を振るうとは思えない。ただ異常なことだけはなんとなく理解出来た。

今まで化物しか見てこなかっただけに、ようやくのことで見つけた人間の姿に俺は思わず息を呑む。

「…人間…?」

戸惑う俺が思わず言葉を零した所で、目の前の女がゆっくりと目を開いた。数回瞬きを繰り返したあと、視線が俺を貫く。警戒をする俺だったが、女はじっと俺を見つめたあと、ひとつ欠伸を零していた。隣の大鉈だけが不釣り合いに鈍く輝きを保っていた。

「……まぁ、人間ではあるわ」

彼女は俺の言葉を聞いていたのか、何か一瞬だけ考えるようにしたあと、言葉を肯定した。
そして女は俺を見つめたまま言葉を静かに続けた。

「でも、見ての通り動けないの」

にっこりと笑う女は自身の足元に視線を向けていた。

俺だって、言及こそしないものの気が付いてはいた。汚れ一つ無い真っ白なシーツは、おおよそ足が隠れているであろう部分が異常に薄く、ひらひらと風に舞っているのだから。
俺の目の前にいる両足の無い女は、危機感も無くにこりと笑い続けていた。

じっとりとした恐怖が俺を包むが、この世界に来て初めて会った人間だ。このままここに置いておくわけにもいかない。
この空間は他とは違って普通極まりないが、この部屋のすぐ外にもう化物が迫っている。ここもずっと安全とは限らない。

「すぐ外に化物が沢山いる! 早く逃げよう!
 君1人くらいなら担いでいけ、」

不意に聞こえてきた音に俺の言葉が詰まる。耳を澄ませば何かを引きずっているかのような重い音が聞こえていた。

「何の音だ?」

問いかける俺に、今まで浅い微笑みを浮かべていた彼女が初めて若干の焦りの色を見せていた。

「早く逃げた方がいいわ」

忠告は至極当たり前だった。俺は彼女の側に近寄り、彼女の身体を抱え上げようとしたが、手が身体に触れる前に彼女は左右に首を振った。「でも」と抵抗を見せる俺に彼女は部屋の隅に設置されている金属製のロッカーを指さした。

「……間に合わない。隠れて。
 どうにかしてみるわ」

彼女の言葉に苦い思いをしながらロッカーを開く。そこにはひとりしか入れるスペースは無い。
ちらりとまた彼女を見るが、彼女は血錆に満ちた世界でにこりと微笑みを浮かべているだけだった。

その時、またギィと金属を引きずる音が聞こえた。俺は慌ててロッカーの中に隠れる。彼女は何か算段があるのだろうか。何が迫ってきているのかわからないが、良いものではないことだけは確かだ。

音は真っ直ぐにこの部屋に近づいてきているような気がした。女は俺の入っているロッカーをちらりと見たあと、扉の方へと視線を向けていた。俺もロッカーの隙間から女の姿を確認する。俺だって死にたくはないのだから。
やがて、音が扉のすぐ外で止まった。俺の視線が扉に釘付けにされる。ゆっくりと扉が開いた。

扉の隙間からじわじわと錆が広がって部屋に入ってきた。そして次に隙間を広げて入ってきたのは、これまで見てきた化物とは比べ物にならないほど強靭な身体を持った三角頭の『何か』だった。
三角頭の化物は血錆と共に部屋に入ってくる。三角頭が足を踏み出すたびに錆が広がり、闇が広がっていく。三角頭は女の隣にあったような大鉈を引きずっており、動くたびに金属の擦れあう不快な音を奏でていた。

女は恐怖の声を上げることもなく、三角頭を見つめていた。起こるであろう悲劇を予想していた俺だったが、あろうことか女はにこりと優しげに微笑んだあと、三角頭に向かって差し出すように手を伸ばしていた。
女の前に立った三角頭は手に持った大鉈を振るう素振りなど見せずに、女が差し出した手に、自身の手を軽く重ねていた。

あれは、なんだ。

「おかえりなさい。教団員は見かけてないわ。あのウサギもね」

女の声が聞こえてくる。友人のような話しぶりに俺の背中に冷や汗が流れてくる。三角頭は血みどろの手を女の頬に触れさせていた。既に部屋の半分は血錆に侵食されていて、その中でも女が膝にかけた白いシーツだけが、変わらずの白さを保っていた。
部屋に入ってきた化物は話せないのか、女の声だけがひとり言のように聞こえてくる。

「あぁ、これ? 黒い彼が置いていったの。私は重たくて持てないって言ったのに。
 持って行ってあげてくれない? 嫌? もう、仲が悪いんだから」

女の声は化物と話しているとは思えないほどに穏やかだ。三角頭が女を軽々と抱き上げた時も、女は悲鳴すら上げずに大人しく三角頭の肩の上へと腰掛けていた。

血錆の波が俺がいるロッカーのすぐそこまで迫っていた。気味の悪さに息が止まるが、どうすることもできない。そして錆がロッカーを包みきった瞬間、三角頭のその金属の先が俺がいるロッカーへと向けられた。
思わず息が止まる。見つかっている? いや、見つかっているわけは、ない。ないはずだ。

三角頭の化物が一歩前に近付いてきた時、肩に乗せられた女が化物の歩みを遮るように白く細い手を赤い金属に触れさせていた。

「待って」

彼女の言葉で化物の歩みが止まる。

「今はいいでしょう?
 ほら、何もされてないわ」

両腕を広げてなんでもないという仕草をする女。三角頭はじっと固まったまま、ロッカーを見つめていた。

息が止まる。涙が浮かぶ。存在を消す。どうすればいいのかわからない。戦えるわけはない。逃げるか? でも逃げ切れる気がしない。覚悟する、死。

突如、自分が隠れていたロッカーが派手な音を立てて折れ曲がった。金属はただ曲がるだけではなくて金属の破片を見せている。叩き壊したのだ。金属の破片が俺の腹を抉りとり、情けない悲鳴が口からこぼれる。

「そこまでにしてあげて、三角」

女は腹から血を流す俺を眺めて、仕方がないとでも言うかのように、なんとでもないとでも言うように軽くそう言った。三角頭は不服げに三角の頭を僅かに動かしたあとに、女の言葉に従ってぴたりと動きを止めた。
俺は震える手で思わず指をさす。

「ば、化物…!!」

俺の指は目の前の三角頭ではなく、その肩に乗る、両足のない女に向けられていた。
あの女は化物を操っている。あの女も化物に違いない。
それどころか人間の姿形をしている分、より一層穢らわしいモノに見えた。

指さされた女は驚いたように目を丸くさせたあと、彼女に残されている手で口元を軽く隠して、酷く上品に、くすりと零すように笑っていた。

血錆に満ちた悪夢のような世界で、悪魔のような三角頭の化物の肩に乗り、悪魔のように美しい女が音もなく笑う姿は、吐き気を催すほどの恐怖を感じた。
肩に乗る女を片手で支えながら、反対の手で大鉈を持った三角頭がまた一歩、ゆっくりと俺に近付いてきた。

三角頭からはどろどろとした殺意が溢れている。本能的恐怖で悲鳴を上げた俺が化物達に背中を向けて駆け出した瞬間、身体中に灼熱の痛みが走ったかと思うと、


†††


三角頭の前で男は肩から斜めに真っ二つにされていた。ずるりと斜めに崩れていった男は一瞬で絶命していた。流れ出す血液を見ながら、三角の頭に軽く寄り添った彼女は少しだけ眉を顰めただけだった。

「彼。最初は私を助けようとしてくれたのよ」

彼女は静かにそう言う。対する三角頭はより一層不満げに大鉈をわざと引きずって男の死体をさらにばらばらに、そして広範囲に広げていた。彼女はそれを見てさらに苦笑を重ねた。
男は彼女を三角頭から遠ざけようとした重罪人なのだから。執行人である三角頭からすれば男を見逃す理由は微塵もない。

「ごめんなさい。火に油だったわ」

彼女も三角頭の不機嫌な理由に気付いてまた優しげに笑う。ここに来た当初より、彼女は随分表情豊かになった。初めに感じていた緊張も恐怖も、そして他人の死にももう慣れてしまったのだろう。

「ふふ。今更、貴方の傍を離れたりしないって」

微笑む彼女は足元に散らばる死体には目もくれず、三角頭に身体を寄せた。
指先を赤い三角の頭に這わせて、汚れる指先を気にもせずに、抱えられた彼女は異形の三角頭に揺られてサイレントヒルの霧の中に消えていった。

ギィ、ギィ、と金属の擦れる音が霧の中に響き渡り、そしてそれもやがて聞こえなくなった。



(訪問者)


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