織田作之助という男
A man named Sakunosuke Oda

「紫琴、お茶飲まないのかい?」
「…結構です」
「折角用意したのに冷めてしまうよ」

嗚呼…苦痛だ。
それは最高に最悪な空間。
重苦しい鉛の様な空気と空間に喘いでいる。
肉体の苦しみではなく、それは神経から侵入して脳に行き渡り何度も何度も実感して思い知らされるのだ。

''この男からは逃げられない''と。

それが嫌悪感にしか成らず、かといって仮にその想いをこの目の前に居る男にぶつけたとして、この男は動じるだろうか。
若しくは、己に対する嫌悪感に苛立ちを憶え肉体的な暴力を強いるのだろうか。

否、この男はそう単純ではない。
現に己の今の気持ちを男にぶつけた時だって彼は幾ら愛する者が自分の愛に応えてくれなかったとしても自分の愛でそれを補い【共愛】というものを完成させる。
謂わば強行突破だ。

「あの…」
「ん?何だい」

「その…もう少し距離を置いて下さいませんか。あの、近いです」

彼女の発言の真意は言葉そのままで。
近いのだ、距離的に。
こんな広い執務室なのだからソファの一つや二つはあるのは納得できる。
そこで休息というわけなのだが、
何故自分も一緒に?
と疑問を持たずにはいられなかった。

しかしこの男、太宰は然して当然の様にこう云ったのだ。

「別に気にしなくても良いことだろう?それに私達は一緒に住んでいるのだからこれ位の距離感があっても良い。何だか夫婦のようだね紫琴」

良く云った。
よく誘拐したとは思えない発言をつらつらと云えたものだ。
逆にその清々しさに危うく尊敬の眼差しを向けてしまうところだった。
夫婦などと、婚約どころか恋仲にもなっていないというのに。
強いては此処での関係は捕食者(太宰)と捕虜(紫琴)が一番相応しいだろう。

この広すぎる執務室は自由にも見えて自由ではない。
此処には見えない鉄格子で囲まれている。
逃げ出さないように、自分の手が届くような場所に置く。
その鉄格子成る者が太宰自身なのだ。

太宰がその場に居れば逃げ出すことなど不可能、かと云い彼が不在だとは云え隙を見て逃げ出すのも只の命知らずな愚行だ。
何せ此処は非合法組織の本部(アジト)。
異能力者の集い。
そして武器など腐る程所持している。
万一にも幹部にでも見つかれば執行日無しでその場で処断されるだろう。

ふと、太宰が思い出したかのような口振りで口を開いた。

「そうだ。私は任務に行かねばならんのだよ。だから今良い子で待っていてね紫琴」

その言葉には色んな意味が込められている。
まるで母親が仕事に出かける際に子供に云い聞かせるのと、逃げるなという無言の圧力だ。
察しの良い紫琴はこれら二つを理解したのか首を縦に振った。

「直ぐに還って来るから。決してドアを開けてはいけないよ?この部屋を私以外訪れるのは全員ポートマフィアだ。安易に開けたりしたら駄目だよ」

さぞ心配そうに云い聞かせるが彼女とてそんな事は分かりきっている。
『隙を見て逃げ出そうと扉開けたら銃火器を構えた黒づくめに包囲されていた』なんていう結末になったら堪ったもんじゃない。

「…逃げ出せれば一番ですが、かと云って誰かに見つかったら本末転倒ですので…」

早く…早く行ってくれ。
人殺しの男と一緒の空間に居て尚且つ一緒の空気を吸うことがこんなにも苦痛だとは想像していなかった。
早く行ってくれなければこの儘神聖な空気を吸わなければ発狂してしまいそうだ。
苦痛に耐えていた時「じゃあ、行って来るね」と太宰の声とそれと同時に扉が閉まる音が聞こえた。
嗚呼、近くに居るはずなのに遠くから発せられたように聞こえる。

太宰が執務室を去って1人取り残された紫琴は太宰の云い付け通り大人しくしている筈もなく、扉を数糎開けては覗き見て外の様子を伺う。
それを数回繰り返せば扉から離れ、算段する

「却説、これから如何しましょうか」

太宰の云う通り警備はそう薄くない。
出入り口に辿り着けるまで一体何人と鉢合わせするか如何かと考えてしまう程、この組織は人員が多い。
組織からしてみれば小娘一人制圧するなど赤子の手を捻ること同然だ。

如何したものかと唸っていれば、突如部屋の戸を叩く音が響いた。
太宰な訳がない。
そう思った紫琴は慌てて物陰というより机の下に隠れた。執務室の机なため正面から見たとしても見えるのは机の板だけだ。
息を潜めて事の成り行きが過ぎ去るのを待った。

「誰か居るのか?」

聞こえたのは、太宰ではない知らない男の声。
男は靴底を床に付けて音を鳴らしながら部屋に入って来る。
無断侵入…にはならないのだろうか。
と云いつつも、組織側からしてみれば紫琴こそ侵入者というよりも脱獄者だ。
立場上何方が不利な状況など幼子でも理解できる。

「おい、出て来い。其れとも、太宰が隠れているのか?最近酒屋で見掛けないと思ったら…」

此処で紫琴は本気で焦ったことだろう。
彼が云っていた困った原因。
全て紫琴に関わっていることだ。

順を辿っていけば、先ず紫琴が捕まってからというもの太宰は任務以外と何処か飲み屋に行く以外はは外で外に出なくなった。
任務外で外に赴くぐらいなら紫琴を構っていた方が幾億分マシらしい。
男が最初に云っていた元凶は自分だ。

しかし、部屋に篭っていたのならば書類を渡すのは難儀ではないだろうと思うだろうが、そうではない。
部屋に篭っているということは太宰は彼女を構い倒しているということに繋がる。
妙な連鎖だが、男は真逆太宰が一人の少女を手篭めにしようとしているなど想像もつかないだろう。

「おい、太ざ」

ふと、彼を捜す様に掛ける声が次第に無くなり歩む音も止まった。

「…」

気づかれたか。
と、口元を手で押し付けるが時既に遅し。
男は執務室の机、詰まりは紫琴が身を潜めている場所を手に掛けた。

この侭覗かれてはその時点で己の人生に終止符が打たれる。
如何にかしてこの状況を乗り切らなければとその誠意は幾らでも出せる。
が、実行と理想は違う。
机を覗くか否かはこの男次第なのだから。

しかし、男は何を思ったのか、机を覗こうとはせずそのまま身を翻し来た道へと戻って行く。
やり過ごしたとほっと安堵する紫琴だだたが、そんな安堵も束の間、男は扉に出る際にこう告げた。

「…私は何も見ていないし何も感じ取っちゃいない。これは単に独り言だ。…逃げるなら今だぞ」
「っ!」

気づかれていた。
まるで、此処に紫琴が居る様な口振りに紫琴は次から次へと汗が滴る。

だが、どういう意味だ。
あの男は顔は見えずともこの本部の屋内に居るということはあの男もポートマフィアだろう。
逃すとでも云うのか。

「逃げれるなら…既(とっく)に逃げてるよ」

そう云って嗤う女。
そうだ。その温情は無意味。
幾ら組織の中で脱獄犯を手助けしようという心意気がある者でもこの見えぬ格子は破れない。

あの男がいる限り。

「紫琴、ただいま」

ほら、誰かが泥沼に堕ちた自分に救いの手を差し伸べようとする度に、その手を取り這い上がろうとしようとする度に共に堕ちたこの男がそれを阻む。

譬えるならば、湖に落ちて溺れている友を必死に助けようとして、差し伸べられた木々を掴み湖から上ろうとした友を救助をしていた者たちの後ろで傍観していた者が木ごと彼をまた湖に押し沈めたということだろうか。

この男の場合、間違いなく傍観していた人間が相応しいだろう。
だが、この男は友を押し沈めたりしない。
もしその友が紫琴だった場合、木ごと彼女を落とした後、水面に打たれる衝撃が来る前に自分も飛び込み共に湖に沈むだろう。


「この部屋に来る際に織田作とすれ違ったのだけれど、織田作と遭ったりしてないよね?」

織田作…?
誰だそれは。
確かに男は部屋に入って来た。
だが、それが太宰の云っている人物と同一人物かなど知る由もない。

「織田作…?誰ですか」
「…織田作之助。橙髪の男で、私の友人なのだよ」

太宰の友人。
自分で云うのも気が引けるが、こんな男に友達など居るのか。
況してや、不名誉な程自分にご執心なこの男に。

「織田…作之助」
「…分かっていると思うけど、あまりその男のことばかり考えないでね」

否、如何考えるのだと云うのだ。
遭ったこともない見たこともない男のことなど。

今は未だ、こんな事しか考えていなかった。
考える事しかできなかったのだ。

だが、彼こそが今の太宰を動かした張本人などと誰が思うだろうか。

A man named Sakunosuke Oda
織田作之助という男
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