その男、黒獣を操る者
Who governs man, the black beast
「ぐぅ…ぬ、うぅ…っ」
「…彼此1時間は経過した。未だ吐かぬか」
迂闊だった。
太宰が任務に向かったのを好いことに扉を開けてしまった。
しかしながら扉を開けたのも理由がある。
手洗い場だ。
此処は執務室である為若しも手洗い場があるとしたらならばそれは物珍しすぎる。
警備が薄いことを確認して急ぎ足で駆け抜ける。
そうして、戻ってきたは良いが万一任務から帰還した太宰に問いかけられたかと思うと嘘が吐けない。
今はその事が心配でその感情が脳内を支配していたのだ。
だから気付かなかった。
___背後から黒外套を纏った痩躯の少年が殺気帯びた鋭い視線を紫琴に向けていたことを。
その殺気を感じ取り彼女が振り返ったときには既に彼が操る黒獣が
此方に迫っていた。
その男、黒獣を司る者
Who governs man, the black beast
「貴様はあの人の愛人か或は、あの人の弱みに付け込んだ只の男好きなだけの愚者か」
人気すらも感じさせない静寂が支配したと或る倉庫。
男は黒獣で彼女を捕らえ拷問紛いな仕打ちを受けさせていた。
仕打ちと云えば言葉としては不釣りあいだが実際のところそうだろう。
その殺気帯びた眼光だけでなく、嫉妬、怨念、劣等、憤怒、嫌悪ありとあらゆる負の連鎖が彼を支配している。
この静寂が支配した空間だから故に尚更そう感じさせるのだろうか。
しかしながら、彼女自身の言い分もある。
それは、身に覚えのない怒りや苛立ちをぶつけられていることへの不快感と困惑でもなく、今身に纏っている遂に自称夫と名乗り始めた男に理由もなく贈り付けられた服を傷付けられ、自身では何の価値も無いと云っている顔面やら身体やらを傷付けられたことの痛みや怒りでもなく、只単純過ぎる問いかけだった。
____この男は何者だ?
「貴方っ…は、何者なのですか」
「貴様は知らなくて良いことだ。これから屍と成り果てる末路に辿り着く貴様には」
その言葉を瞬時に理解した紫琴は動揺を隠せないでいた。
如何な理由でこうも粗末な扱いを受けねばならない。
云って仕舞えば、今この状況で初めて遭う様な男だ。
当の昔に因縁を付けるような者は居ただろうか。
最悪な状況下で思い出したくもなかったが静かに脳内の記憶を走馬灯のように再生した。
自分で云うのも気が引けるというものだが、さして価値も無い人生を送ってきた為か味方は少ないが敵は多かった。
しかしながら、再生した記憶には彼は出てこなかった。
即ち、彼とは過去に遭っていない。
「此方に…何の恨みをお持ちですか…っぐぅ!」
「恨み?そんなものは無い。あるのはただ一つ、あの人に認めさせること。その為に構成員を抹殺した貴様を殺し
僕が強者であることを証明する」
その瞬間、周りの動きが静止した。
否、彼女自身が静止したに等しい。
脳内に廻るあらゆる感情や理屈が混在する中一つの疑問が現れた。
何故そのことを知っている。
彼曰く、最近になって己の件は極僅かな人間にしか伝えていないらしい。
それでも大事にはなったがそこは責任者である太宰が首領という立場を担う男を見事な饒舌と少しの嘘で説得したらしい。
ポートマフィアあるまじき失態であり前代未聞だ。
加えて獄中や監禁室に入っていることも全て彼が責任を持ち且つ彼しか出入りできないようになっていたという事を最近になって知った。
そして今太宰が所有する部屋に置かれていることも例外なく。
そんな極僅かなそれの一人がこの男だと云うのか?
「…あの人というのは…太宰さんの事ですか?」
「っ!貴様如きあの人の名を呼ぶな!身の程知らずが!!」
そう叫べば再び黒獣を展開し紫琴に向かって放てば彼女は逃げる暇なく遠方へ吹き飛ばされた。
ゆっくりと歩む足を進ませ、恐らく血反吐を吐いているであろう彼女へと向かう芥川。
そして、吹き飛ばされそこの壁で勢いを無くし止まり背中からぶつかったのだろう彼女の周りには土埃が集っていた。
そして、当の彼女は案の定血反吐を吐き横たわっていた。
しかし、彼女は身を捩る事もせず只々横になって目を瞼で蓋の様に閉じていた。
それを忌々しく見た芥川は追い討ちをかけるかの様に彼女の頭を靴裏で嬲る。
「ち…気絶か詰まらぬ」
そう吐き捨てる様に云い、黒獣を展開させる。
此の儘何の抵抗もなく彼女にそれをぶつけることができれば男の目標は達成されることとなる。
「貴様に恨みは無い。だが、"弱い"貴様があの人に目を掛けられているというのが許せん。貴様は捕虜でありながらもあの人の加護下に置かれているのに僕は認められず仕舞いだ。…弱者は呼吸をするな。生きる価値など無い」
そう云い終わったのが先か黒獣を放ったのが先か、彼女と距離は然程ない。
心臓を一直線に突き抜ければそれで終わりだ。
だのに、それすらも叶わない否、叶わせない
悪魔が世の中には人間と紛れて混在している。
譬えばそう。その悪魔の愛情を一身に受け取る麗しの少女がとある男によって命が脅かされているとしよう。
では、そのことを"何らかの形"で嗅ぎつけた悪魔は元凶の男を如何すると思うか。
殺す。そうだろう。
彼女を本気で殺すのならば気が全て彼女の方に持って行かれるのが道理。
だから気付かないのだ。
愛するの者の命を脅かす男を殺そうとする悪魔が男の背後に居るということを。
男がと或る気配に気づき振り返る前に乾いた発砲音が静寂を支配した空間に響き渡った。
彼女に向けられた黒獣は彼女の心臓の前で静止し程なくして消滅した。
対する男は膝をつき撃たれた患部に手を触れさせる。急所は免れたもののその幹部からするに明らかに殺意が見られた。
男は恐る恐る振り向くとそこには発砲した後で銃口に煙が見られ、男と同じく黒い外套を纏いその眼は冷たく光らせ闇夜に相応しいほど黒ずんでいた。
▽
「何をしているのかな」
「太宰…さ」
芥川と呼ばれた男は問いかけた男の名を呼ぼうとした。
しかし、それも叶わずまた発砲音が鳴り響き、芥川はまた呻いた。
だが、
悪魔、もとい太宰と呼ばれた男は無慈悲に発砲し続けた。
「質問に答え給えよ。何をしている」
靴の踵を地面に叩きつけることで歩み足を進める度に音が鳴り響く。
それはごく普通の事ながら今の芥川にはその音すらも彼の表情筋を恐怖に歪める。
そうして膝をついている芥川の前に来て見下ろせば未だその瞳は黒く隠す気のない怒りを含んでいた。
小さく溜息を零した後、太宰はその有り余った長さの足を浮かせ芥川の頬骨にそれを蹴り込んだ。
先程攻撃を喰らった紫琴の同様に芥川も遠方に吹き飛んだのだ。
まるであの一部始終を見ていたかの様な…。
吹き飛んだ方向を無表情で眺めた後、太宰の視線は忌々しい己の部下から未だ身動き一つせず血を流し横たわる紫琴に変わり、近づいたのだ。
「嗚呼…紫琴。私の紫琴。こんなに沢山傷付けられて、苦しくて痛かったろうに…」
彼女を傷付けた者は誰であろうと問答無用で殺さなければ。
嗚呼…己の部下の血痕が靴に残った。実に忌々しい。
如何してこうも自分の部下は無能な連中ばかりなのだろうか。
太宰の信仰にも似た彼女の身の安否は向こうより芥川が覚束ない足取りの音により終わりを告げた。
彼の瞳には驚愕、困惑、焦燥、否今の彼には
心慌意乱が相応しいだろう。
男は噎せる口を掌で押さえそれでも留めなく出てくるのは清らかな紅。
射殺す勢いで睨みつける男とは対象的に太宰は飄々と不敵に嗤っていた。
「あれ、君死んでなかったのかい?可笑しいな…。間違いなく頭蓋骨を命中させた筈なのだが…」
「しかし
僕は死してはいない」
「態と外したのだよ。それ位判れよ…何処までも察しが悪い」
何処までも男を蔑み嗤う太宰。
対して何処までも太宰を憎みそれでも彼を敬う男。
「却説、君に質問をする。なァに単純な事だ。その質問に対して君は只答えれば善い。但しそれ以外で答えた毎に一発、更に二発撃つ。…良いね?」
これでは只の拷問ではないか。
そう思うもそれが事実であり、現実なのだ。
しかし、それを未だ理解していない男は太宰に反発しようとした。
それに対し太宰は瞬時に懐から銃を取り出し男に向け躊躇せずに引き金を二度引き発砲した。
「が、っ…がはっ!!」
その銃弾は彼の脇腹を擦り肩を突き抜けた。
そしてその反動でその場に蹲る男。
太宰は銃の弾を装填しながら嗚呼…とまるで他人事の様な態度でこう云い放った。
「嗚呼…反発したら二発ね。云い忘れていたけど」
一体如何したらそこまで冷酷非道になれる。
そこまで躊躇せずに黒塊の引き金を引ける。
そこまで人を蔑むことができる。
人の命を…疎かにできるか。
多分、今意識不明の彼女が目覚めてこの光景を目にしたとしたらこう云っただろう。
しかし、彼女は今夢もない只真っ暗な世界に彷徨っている。
詰まり、彼にそう問いかける人物がいないということだ。
だが、彼も彼で仮にも若し彼女からそう問いかけられたら迷わずにこう告げるだろう。それも必死にご主人様に取り入ろうと縋り付く様な猫撫での声で。
『君の為だからさ』
そんな彼女への態度とは対象的に異なる太宰の今の顔は殺人のそれだ。
そしてここで芥川は気付いた。
この男は自分を除く己を含めた彼女を一度でも見た者を抹殺する気なのではと。
最初から己を生かすという選択肢などこの世に存在しなかったのだ。
太宰は装填した黒塊を最早虫の息に達している芥川の眉間に押し付けた。
芥川は己の憶測が充たったことに対して酷く絶望した。
ならば最後に己の生に終止符が打たれようとしたとしても最後だけでも己の師の顔を見届けなければ。と思い芥川は死を覚悟して遥か目上にある太宰の表情を見て再び絶望したのだ。
何という顔をしているのだ、この男は。
今彼が浮かべる表情は何処までも彼を欺き蔑む様に不敵に嗤う口元。
そして、何処までも人を見下す何かを持っている瞳は黒く塗り潰したかのような黒い瞳を柔く弧を描き己の幕が閉じる生前最後に恩師から聞いた言葉は何処までも酷く執着する女に関する質問だった。
「では最後に質問する。…彼女の存在を何処で知った?」
そう云い終わった直後に未だに静寂が支配するこの倉庫に一発の銃声と生々しい何かが潰された音が静かに響いた。
「却説、君を脅かす者は消え去った。帰ろう紫琴。私たちの愛の巣へ」
そう云って彼女を静かに抱き抱えた彼の手は何処までも清らかな紅で染まっていた。