逃走
Getaway

逃げろ、逃げろ。
後ろを振り返るな、前だけを見て只管に走れ。

何も持たずに只々身に付けた衣服と靴を纏い夜のヨコハマの街頭を走り抜ける少女。
"彼"と再会してから、彼の策略にて閉じ込められていたビルと言う名の格子を破り逃げたのがつい先程。

頭の中では未だ整理しきれていない。
何故マフィアの一角である彼が脱獄者の身である自分を逃したのか分からない。

温情?同情?

否、何方もポートマフィアにとって最も皆無な感情だ。あり得ない。
では何故。

それだけが疑問で彼と別れた時から今まで脳内で自問自答繰り返していた。

しかし、只一つだけ思ったことがあった。

振り向き際に最期に見たあの男の顔は何処までも優しさに溢れていた。

遡ること、三時間前____。

少女、紫琴は誰も居ない、今では無人と化した部屋のソファにて一人蹲り怯えて居た。
思い出すのは何時だってあの惨劇だった。

凡ゆる総ての物を鋭刃の如く貫く弾丸が人間の皮膚の中へと割り入った発砲音とそれと同時に貫通したことにより皮膚が割かれ数多の血液が線香の様に大地へと吸収されていく生々しい音も。

悲痛な黒外套の彼の声とそれを哀れむことすらしない無情な上司の顔も。

総て無になったら良いとどれだけ願えれば叶うのだろうか。
【神は居ない】
その現実を突きつけられた彼女は深く絶望する。
譬え居るとしても、とんだ気まぐれな神と残忍な上司を味方する様な神。
善人の味方の神など無に近いのだ。

どの道上司に目をつけられた部下はそのまま殺された。
否、殺されたかどうかは未だ確認されて居ない。
何故なら、射殺されたのだとしたら彼の遺体が何処を捜索しても見つからないのは摩訶不思議ではないか?

では、遺体芥川は一体何処に消えた?
それとも、間一髪命を取り止めそこから逃げ出したのか。

どう考えたとしても、芥川の事は彼女紫琴には分からない。
軍警が捜索して居る今でも紫琴は籠の鳥同然の扱いを受けて居た。
それはこの部屋主の感情や欲が更に膨張したという意味を表すことでもあり、その籠の鳥と称された彼女は自分は無能であると突きつけられる意味を表すことでもあった。

しかし、その部屋主は依然と不在であった。
任務が立て込んで居るのであろう。
と或る組織の破壊か小競り合いの鎮圧か。
それこそ、紫琴には到底分かり得ないことでもあり全く興味がそそらない内容だった。

「芥川…龍之介」

そんな事よりも矢張り彼女にとって芥川の安否が心配ごとであった。
自分を殺しかけた張本人でもあるが、自分の所為で太宰に殺された、或いは殺されかけたのだ。
自分の存在がなければ、こんな事にはならなかっただろうに。

そう思っているうちにと或る疑問が太宰に向けられた。
そこまでして自分を傍に置いておく大宰も分からない、と。
愛しているから…とかそれしか口に出さない彼の真意が読めない。

「でも、それだけで人を傷付けるなんて」

これがポートマフィアとしての遣り方だと言うのであるならば、自分はもう此処には居てはいけない。
逃げなければ、何としてでも。
今迄は彼のするがままに逃げ場の無い身を只々委ねて居た。

しかし、今回は違う。
己の所為で人が一人生と死の境を彷徨っているのだ。
これ以上こんな悲劇を繰り返す訳には行かない。

そんな強い意志とは裏腹に恐怖もあった。
逃げれるか?あの男に。
自分の考えている事、思っている事総てを見透かす様な人間に。
誰よりも人を疑い誰よりも残忍非道な彼に。
芥川との一件で更に欲が暴走した彼に。

若しかしたら、自分から逃げた事に怒り殺しに来るかもしれない。
それに対し、今の自分には何も無い。
助けも呼ばないし、制御不能の異能力も彼の前では無力同然。

しかし戦わなければ、向き合わなければこの機会チャンスは二度とやって来ない。
此処で諦めたら、一生死せる時まで彼によって飼い慣らされるであろう。

意を決して扉の前に立つ。
しかし、ドアノブを回そうとする右手が震え上がり思う様に力が入らない。
だが、ここで終われば待っているのは悪魔の続きだ。
それが脳裏に浮かんだのかそれを首を盛大に横に振る事で否定する。

「此方は…此方は、戦わなければいけない」

譬えそれが家畜の様に飼い主から逃げ果せる意味だとしても、それが無能な者にとって立派な戦いなのであれば。

決意した紫琴は震え上がった右手の上に支える様にして左手を乗せドアノブを引っ張ろうとした。
しかし、それは叶わず代わりに訪れたのは外側からドアノブを引っ張り部屋へ入ろうとする人間であった。

ドアノブが外側から引っ張られたことに気づいた紫琴は勢いよく後退していった。
嗚呼…矢張り彼からは逃げられない運命なのだろうか。

そう思い絶望し人生の終わりを心身に受け止める様に瞼を閉じた。

しかし、何時まで経ってもこちらに寄り付いて来ない彼に不信感を抱いたのか紫琴はゆっくりと目を開けた。
彼女の目に映ったのは、或る日に聞いた橙髪の男。
しまった。
太宰よりも見つかってはいけない人間が扉を開いてしまった。
此の儘己は首領ボスとやらにこの身を差し出され脱獄という大罪により極刑に処されるのだろうか。

そう思ったものの、その橙髪の男は扉を開けた後一言も口を開かず只々凝然と紫琴を見つめて居た。
その事に多少の気まずさを感じたのか紫琴が思わず口を開いた。

「あ、あの…」
「来い」

貴方は…と聞く前に遮られた。
それよりも彼が此方こちらに向けて手を差し出しているのは幻覚だろうか。
その促しの言葉に言葉に詰まった紫琴を見兼ねた橙髪の男はこう云った。

「私の名は織田作之助。君を捕らえている太宰治の友人だ」

矢張りそうだ。
あの時の、顔は見えずとも声で分かった彼の真っ直ぐな声。
しかし、何故。

「あのっ…何故」
「君は脱獄犯で今それを匿う人間が居ない。故にこの事が組織に見つかったら間違いなく君は殺されるだろう、それに…」

と、続けるのと同時に紫琴に駆け寄り何時までも己の手を取らないことに痺れを切らしたのか強引に手を掴みこう続けた。

「君は逃げようと思えば逃げれた筈だ。そして、君は態々【逃げなかった】のではなく【逃げれなかった】、違うか」

如何して、この男はそこまで知っているのだろうか。
今迄見られて居た?
何処かに監視カメラでもあったのだろうか。
そう思った紫琴は咄嗟に辺りを見渡すもその様なものは見られなかった。
彼女の行動の意を理解した織田は呆れた様に云った。

「最近の飲み屋の太宰を見れば判る。これは今迄の彼奴を見てきた友人だからこそ云えるが、今の彼奴は確実に【壊れている】」
「…壊れている?」

「その件に関しては後で話そう。今は逃げるぞ」

織田という彼も決意を固めた様な言葉を脳内で復唱する。
逃げる…それは何時からの望みだったか。
簡単に云ってしまう彼を恐ろしく思う反面、そうやって何も恐れずに只自分を助けてくれようとしている、自分の望みを叶えてくれようと今必死に己の手を引き格子を蹴破る彼に安堵した。

これにより、彼等は、夜のヨコハマの街頭に消えた。

____そして、時は冒頭に巻き戻る。
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