其々の恋愛事情


飲めない人間とバーに居るのも珍しい話だな、とブランデーを傾ける和臣は秀一を見た。話があるから飲みに行こう、と先に誘って来たのは秀一の方で、御前飲めたっけ?と聞くと、御前は酒が無いと駄目だろう、と此のバーに連れて来られた。
下戸なのに良く知っている、聞くと大学院の研究所の職員が使う場所で、酒の飲めない秀一には楽しい事無かったが、嫌々ながら付いて行って良かった。しっとりとした雰囲気は落ち着いて話すには丁度良い、二人はL字型のカウンターに座るが、窓際はソファ席で、店内の真ん中には巨大な水槽があり、其れを囲うように長テーブルが設置される。青の電球でライトアップされる巨大な水槽の中には小さな鮫が数匹泳いでいる。
カウンター席で仕事の話をし、ソファ席でいちゃつき、長テーブル席で友達と話す…良い配置である。誰も鮫を見ながらいちゃつきはしないだろう、気になって仕方が無い、夜景を見ていちゃつこう。
「で、話って何?」
「そんな急かすなよ、夜は長いんだ。」
炭酸水を飲む秀一は微笑み、食べもしないカシューナッツの殻を剥く。剥くだけ剥き、別の小皿に実を落とす、其れを和臣が横から食べた。
秀一はテーブルに置かれる和臣の煙草を弄り、一本抜いて鼻に付けた。
「赤マル…」
「吸いたいなら吸って良いぞ。」
「いや、良い。匂いだけで、良い。」
禁煙者が良くする行為、禁煙中?と聞くと、そんな愚かな行為はしない、とグラスを傾けた。禁煙する位なら初めから吸い始めないし、和臣程スモーカーでも無い。
「あら、珍しい。」
聞こえたハスキーな女の声、秀一は煙草を鼻に付けた儘ゆっくり視線を向けた。
「よう、アル中。」
「デート中ね、邪魔しないわ。」
和臣が振り向く前に、女は和臣を見ず去ろうとしたのだが、女の横に居る男が、木島さんじゃないですか?、と和臣に声を掛けた。
「こら、梨、駄目よ。」
「ナッシー、です。」
女は横に居る男の肩を撫で、背中に手を回した。
「御免なさいね、躾のなって無い子で。」
「デートじゃないので、お気になさらず。」
和臣はグラスを傾け、女を見た。
和臣の周りには先ず居ないであろう、相手にされないであろう、知的さと品を色気にする…のだが、顔付きが男好きする女が其処には居た。なんというか、水商売顔なのだが下品では無く、銀座等のホステスタイプの女。
女は和臣の顔を確認すると、何か言いたげに眉を上げ、黙って秀一を見た。視線で会話する二人は、秀一が先に目を逸らした事で終わった。
「あんたって、ぶれないわね。」
「黙れ、あっち行け。デート中、なんだろう?」
御前達は、と秀一は、女の横に居る男を見た。視線が合った男は慌てて顔を逸らし、博士、早く行きましょう、と、誰が最初に話し掛けたかと言いたい。
「御前は何時も、違う男が横に居るな。」
「違うわよ、勝手に付いて来るのよ、相手が。」
「嗚呼、判る。すれ違ったら、付いて行きたくなる。」
此の匂いかも、と女の香水の匂いを嗅ぐように和臣は手で仰ぎ、笑った女は秀一を見た。
「付いて来る前に消えるわ。」
小さく指を動かし、女は男と一緒に窓際のソファ席に座った。水槽越しに、二人の後頭部が見える。
二人がきちんと座った事を確認した和臣はテーブルに肩肘付き、煙を吐いた。
「あの極上の美女はなんだ。」
聞こえる筈無いのに小声で聞いた。
鼻から煙草を離した秀一は煙草のフィルターを規則正しくカウンターに落とす。
「…元嫁。娘の母親だ。」
驚きで和臣はソファ席を見、眉を顰め向き直った。
あの女が秀一と元夫婦、信じられなかった。云っては悪いがあの女、横に付ける男みたく年下の男を金で可愛がるか、父親並みのうんと年の離れた金持った男に愛人として愛でられるかの、雰囲気を持っている。歳変わらない秀一が相手にされるとは思えない。
「あんな良い女とセックスしてたのか?」
「羨ましいか?」
「如何やったら俺も、あの美女と出来る?」
「声、掛けて来れば?彼奴が気に入れば出来るぞ。」
「…お高い、とかでは無いよな?」
朝になったら高額を要求されないよなと念を押す和臣に、翌日…では無いが、高額は支払った、と恐ろしい事を秀一は云う。
男は何時だって女を金で勘定し、女は何時だって男の状況を勘定する。
「止めないか?此の話。彼奴の事、あんま思い出したくない。」
無表情でこめかみを掻く秀一に、和臣は、其れもそうだよなと頷きながらグラスを傾けた。
女は何時だって昔の男を笑い者にし、男は何時だって昔の女を美しい儘にする。
然し秀一の場合、女に云々では無く、女を思い出すと自動的に横に居た男を思い出す為、思い出したくない。
此れが女一人で今会ったとしたら、秀一も笑い話にしてやる所だが、男の存在が余りにも大きく、其方の記憶の方が引き出された。
「若しかしてさ…、違ったら御免。」
和臣の言葉に秀一は息を吸った。
あの男に惚れてたの――?
其の通りだった。
秀一はあの男に惚れていたのだが、いかんせん向こうはヘテロであった、秀一を悉く嫌い、泣き付いた其の先…あの女があっさり抱え込んだ。
此の夫婦の離婚原因は此処にある。
俺が惚れているのを知ってて、良く抱え込めるな――悔しかったらあんたもあの子と朝を迎えて見なさいよ。
出来ない癖に、と鼻で笑われた。
触れる事も出来ない癖に噛み付くなんて馬鹿としか云えないわ、と。
煙草の匂いに記憶が途切れた。
あの女も、赤マルを吸っている。
此の匂いは果たして和臣か記憶か、秀一はぼんやり和臣の顔を眺めた。
「だらしのない女だよ、男も女も、気に入れば見境無い。」
「其れでヤられちゃった訳ね、秀一は。」
「ちっとは頭の良い女だと思ってたが。」
買い被り過ぎて居たか。
グラスを空にした秀一はバーテンダーにグラスを揺らし見せ、同じ物を注文した。
「身体の相性だけは良かったよ、性格は合わなかった。」
「秀一が抑に、結婚に向かないタイプだと思う。」
同じに和臣もグラスを空にし、注文した。
「だろうな。」
「俺は良い旦那になると思うんだけどなぁ、何で独身なんだろう。」
置かれたブランデーを一口飲んだ。其の言葉に秀一はグラスを持つ手で額を押さえ、肩で笑った。
「あのな、和臣、結婚に向くタイプって云うのは、御宅の課長みたいな方で、内の先生が反対なの。」
「菅原先生なぁ。でも俺、菅原先生となら結婚して良いけどな。」
「はあ?止めとけよ。俺、半年一緒に暮らしてたけど、あの人は共同生活が出来ないタイプだよ。」
「え?付き合ってたの?」
「違う違う。監視されてたの。」
「でもやっぱ、課長が良いなぁ。毎日ワイン飲んで、一緒に寝たい。」
目の前に居ないのに、思い出すだけで和臣の頬は緩む。其れを容易くさせる課長の存在感、秀一は黙って炭酸水を飲んだ。
「御前、やっぱりバイなんだろう?な?好い加減認めろよ。」
「違う、男が好きなんじゃない、課長が、好きなの。好きとかそんな次元じゃないの、超越してるの。判んないかなぁ。」
「認めてよ。」
頬杖付き、少し顎を上げる秀一は、グラスを回す和臣を凝視した。
又、繰り返すのか?
もうあんな思いは御免だ。
そう思うのに、何故何時も何時も、惚れる男はヘテロなのだろう。周りには同じ性趣向持つ人間が沢山居るのに、何故何時も何時も、態とのようにヘテロに惚れるのか。
和臣の売りは、鈍さだ。他人の恋愛事情にはいち早く気付く癖に、自分に向けられると気付かない。
案の定気付かない和臣は、やだよぅ、と笑顔でグラスを傾ける。
「認めたら俺、橘さんにモーション掛けるから。本気で口説くから。だから認めない。」
ブランデーの入っていたグラスを下げさせ、デキャンタでフランス産のミディアムかフル、と和臣は云った。
「ワインは、白派だったのにな。」
注がれた一杯目を和臣はあっさり喉に流し、離れようとして居たバーテンダーがデキャンタに手を伸ばしたが、和臣は振って自分で入れた。
「無駄に舌が肥えた、彼の方の所為だ。匂いで美味しいかそうで無いかが判るようになってしまった…、此れは非常に危ない…」
「…如何ですか。」
バーテンダーは、二杯目に口付ける和臣に聞いた。
「…合格です。唯…、二三年物…ですね、此れは。」
「…お見事で御座います、十三年産の物です。」
「ほら見て御覧、課長の所為で舌が肥えちゃったじゃないか。」
「素敵な方を上にお持ちで。」
「そう、世界一格好良いんです。」
バーテンダーは会釈しながら微笑み、グラスを磨き始めた。
「課長って、そんなにワイン好きなのか?」
「俺の血が赤いのはワインだから、っていう位好き。ソムリエの資格持ってるし。刑事首になったら一流ホテルでソムリエになろう、とか云ってた。」
「嗚呼、だから彼の方が飲むワインは美味しいのか。」
「でも、菅原先生って、ワイン飲まないよね。」
あれだけのワイン狂と生活し、一寸でもワインに興味持たない宗一は、ある種の頑固者なのか。
「先生は焼酎一筋だから。でも、ワインの知識は凄いよ。先生は白派だったかな。」
「あ、白派ね。」
菅原先生に今から寝返り打とうかなと呟いた和臣に秀一は笑った。
「殺されるぞ、彼の方に。」
先生が。
秀一の切れ長の目が楽しそうに歪み、グラスを傾けた。そしてちらりと、水槽の向こう側を見た。
男の肩に女の頭が乗っている。後頭部しか見えないが、其の手にはしっかり、赤ワインの入るグラスと、男の手を持つのが想像出来た。
余りにも短絡過ぎて想像もしたく無い。
「其れ飲んだら、出よう、和臣。」
「え?良いけど、話って、結局何だったの…?」
「…ドライブ、しよっか、和臣。」
「良いね、ドライブしよう。」
「雪子の店でも良いけどな。」
「今日は雪子の気分じゃないな。」
最後の一杯を傾ける和臣は口角を釣り上げ、其れに秀一は、結婚出来ないわ、と笑った。
カウンターから立ち上がった二つの影、女は其れをはっきりと感じた。グラスの中のワインを揺らしながら、睨み付けるように夜景を眺めた。
貴方はそう、何時だってそう、私から逃げる。
「博士…?」
ガチガチとグラスに歯を立てる女の手を、男は両手で包んだ。
「目障りなのよ、秀一さん…」
「博士、飲み過ぎですよ。」
「貴方は何時だって…」
「博士、もう、黙りましょう。」
男の猫目を視界に入れた女は、ふっと口元を緩めた。
「梨も大変ね。」
「博士、何度も申しますが、梨では無く、ナッシーです。」
「あの男、貴方そっくりじゃない。」
「止めて下さい、博士。」
俺が長谷川を嫌いな事御存知でしょう、と男の顔から笑顔が消えた。
女は顔を離し、前屈みで笑う。
「違う違う、そうじゃ無いわよ。」
「でしたら。」
男は女が置いたグラスを取り、中を空にした。
「趣味がぶれないのね、彼奴は。」
「鬱陶しい男。」
「彼に、貴方が似てるのよ。彼が貴方に似てるんじゃなくて。言い換えれば、彼に似てる貴方だから、興味持たれちゃったのね。」
「最悪。あの男が初恋引き摺って、結果俺がホモセクハラ受けてたと仰りたいんですか、博士。」
「ま、そうなるわね。」
「本気で訴えようかな…」
夜景が一気に汚物に見えます、と男はワインを注ぎ足した。


*****


一時間は会話して居たのだが、何時の間にか和臣は助手席で寝ていた。秀一が其れに気付いたのは、信号で停止している時だった。
繁華街は眠る事を知らない。
軈て日付けが変わるというのに、一体何処に向かっているんだと聞きたい車の多さに秀一は舌打ちし、タクシーの並ぶ場所に車を付けた。
「和臣、おい和臣、起きろ。」
肩を揺すっても和臣が起きる気配は無く、電気を流したら起きるだろうか、と考えても見たが、危険だと止めた。
「如何しよう…、和臣の家、知らないや…」
幾ら揺すっても和臣は暢気に寝息を立てるだけ、自分の顔を摩る秀一は、和臣の寝顔を見ながらカチカチと点滅するハザードの音を虚しく聞いた。
「あ、課長に聞こう。」
五分程考え、其の結論に至った。
「何だ、如何した。」
「済みません、和臣の住所教えて頂けませんか?」
状況を話したが課長は掠れた声を長く伸ばすだけで、署に行かないと判らないぞ、と返答した。
和臣の自宅其の物は判るが、ナビ入力迄の情報が無い。
溜息が漏れた。何で寝るんだ、此の男は。
「彼奴、一回寝ると起きんからな…」
まさか寝るとは思って居なかった。
困り果てた顔で和臣の寝顔を眺め、暢気で良いな、と柔らかい頬を摘んだ。マシュマロみたいで、少し驚いた。
「シュウ。」
「はい。」
「明日、木島非番なんだ。」
「はい。」
「其れで寝てるって事は、絶対に起きんから、俺の自宅に来い。」
「宜しいんですか?」
「構わん。其れしか方法が無い。」
其れとも、ホテルに連れ込むか?
課長の言葉に秀一は苦笑い、ナビに課長の住所を入力した。
三十分程で課長の自宅に着き、タイミング良く課長が門から出て来た。
「…又暢気に寝てるな、此奴は…」
助手席で気持ち良さそうに笑う和臣に課長は呆れ、上体を車に入れた。
「カズ、カズ。おい、俺だ。」
シートに両手付き、横向きで寝る和臣の耳に口を寄せた。
秀一が如何やっても起こせなかった和臣、然し課長の声を聞いた和臣は一発で起き、開くか開かないかの視界で課長を捉えた。
「あ…」
「判るか?説教は明日だ、御出で。」
「……さ…ん…」
囁かれた課長の名前、課長の首に腕を巻き付けた和臣は其の儘課長に抱えられ、御前も泊まっていけ、と秀一も促された。
玄関には犬が三頭…勿論内一頭は課長のパートナー、宗廣である。
課長に抱えられる和臣を見た宗廣は、此奴は本当に、と心底心配する声で和臣の髪と頬を撫でた。
「全く此奴は…」
「シュウも泊まる。」
「只今用意を。」
「嗚呼。」
課長の後ろに秀一は付き、一先ず抱えた儘ソファに座り、なんと恐ろしい、説教タイムである。
「潰れたのか?」
「いえ、酔っては居ませんでした。ドライブの最中で寝られました…」
「嗚呼…、振動が気持ち良かったのか。」
課長は和臣を見た儘髪を撫で、其の姿は赤ん坊を抱っこする母親にも見えた。此れ以上人生捧げて良い愛情があるかと、課長の頬は、見る秀一の方が固まりそうな程緩んでいる。
「カーズ、カズ、起きてるか?」
「寝てるよぉ…」
「起きてるじゃないか。」
んふふ、と和臣は笑い、課長の身体にしっかり抱き着いた。
「課長、だぁい好き…」
「んふ、はいはい。全く御前は、寝惚け眼だと、見境無いな。」
高い鼻梁、課長の鼻先が和臣の鼻先に触れ、三つ編みが和臣の身体に流れる、ちくりと秀一の胸は痛んだ。
違う、此の方は我が子みたいな扱いをしてるだけなんだ。
そう、己に言い聞かせた。
勝てる訳が無い、此の方に…。
酒も入って居ないのに視界が霞みそうだった。
「ワインの匂いがするのぉ…」
「飲むか?」
「飲む。」
がばりと和臣は起き上がり、頭を振ると、完全に目覚めた状態になり、抑に和臣は酔っては居ないのだ、はっきりとした口調で言い放った。
「何で俺、課長の家に居るの?」
終始細かく課長から聞いた和臣は、ワイングラスを傾けながら、御免秀一、と謝罪した。
笑って、逃げよう。
秀一は置かれたペリエを傾けつつ、ホテルに連れ込んでも良かったがな?最近ヤってないから、と冗談で返した。
「強姦予告?…頂けない。」
和臣は笑い、課長が今迄飲んでいたワイングラスを傾けた。課長は黙って立ち上がり、新しいグラスにワインを注いだ。
「課長、俺、帰るよ?」
「其の途中で又寝る可能性が高い、そしたら誰が御前を家迄運ぶ。良いか、御前はな?泥酔した状態だとはっきり意識持ち、タクシーの運転手に自宅を伝えられる状態だが、睡魔に負けたら動けないだろうが。」
「はぁい、御免なさい。」
全くの素面で和臣はワインを飲む。ゲストルームの支度整え終わった宗廣は、そんな和臣を見、ニヒルな笑顔で和臣の両頬を包んだ。
「全く御前は。困った息子だよ。此の方を困らせるな。ま、其れが可愛いんだがな。ですよね…?」
「…嗚呼。」
「宗廣さんも早く。」
「もう、充分飲まされてるよ、此の方に。」
宗廣の言葉に、抜かせ、課長はグラスを向けた。
「課長、駄目よ、旦那さん困らせちゃ!」
「実家を困らせる御前に云われたくない。」
「本当に御免なさい…」
宗廣は笑い、空のグラスにワインを足した。
「博士は…」
秀一が下戸と知らぬ宗廣はボトル傾け促す、本来なら断る酒だが、一杯だけお付き合いさせて頂きます、とグラスを傾けた。
真紅の液体が心地良く漂うグラスを、電灯に向ける秀一は聞く。
「此のグラス、高くないですか?」
ワインの値段か聞かれこそ、グラスの値段を聞かれたのは初めてだった。
「大智、幾らだった?」
「貴方がお持ちになってらっしゃるのが一万越えで、私達のは、五千円しません。おっと和臣、御前のは、此の方のグラスだからな?」
「あー、怖い。来客用で良いよ?課長…」
「洗い物増やすな、馬鹿。」
課長は笑い、生ハムを口にする。咀嚼しながら、秀一を気に掛ける課長だが、だから太るんだよな、と苦笑う、蛋白質なので大丈夫です、貴方は何時迄もお美しい、と宗廣は答える。
此の方、午前二時過ぎなければ…一人でワイン一本空けなければ酔わないのだ。今は一本弱を四人で回す。
「シュウ、何か食べるか?」
「んー…、梅干し、食べたいかな…」
「大智。」
「はい、只今。」
徹底した宗廣の忠犬っぷりに、和臣は秀一に囁く。教えると、席の配置は、課長に宗廣が寄り添い、覚醒した和臣が秀一と並ぶ。
俺案外、宗廣さんの地位狙ってる、と耳元で囁かれた秀一は、知れず身体を熱くした。
ヘテロだっての…。
秀一は自分に言い聞かせてはみるもの、酒の味に頭がぼうっとした。
「ワインと梅干しって、如何なの。」
「うん、合わない。」
此の組み合わせは妙過ぎると種を吐き出し、ペリエを飲んだ。
「木島、御前、明日如何する。」
三本目の蓋を開ける課長は聞く。
「課長と一緒に出る。」
「七時前に出るぞ、俺。」
「え、何で。十時に出ようよ。」
「御前は非番だけど、俺は仕事なの。働きたくないなぁ…」
毎晩課長は、必ず此の台詞を云う。起きても云う。
寝る前に、働きたくないなぁ、起きて、行きたくないなぁ。此れを毎日欠かさず云う。どれだけ働きたくないんだと聞きたい程、課長は云う。仕事の最中でも、嗚呼働きたくない、と云う。
然し、働くのである。
「シュウ、働くの好きか?」
「んー…、今の仕事は嫌いです。研究所に戻りたいです、どうせ働くなら。」
「秀一って、昔何してたんだっけ。」
「生命体を、分子と原子で解明する仕事。」
「…変な仕事。」
其の研究が世の中の何に立つの?と和臣が聞くと、研究者は、趣味を仕事にしてるだけで、何かを如何したいから研究してる訳じゃない、とワインを飲んだ。
「少なくとも、俺は。」
「生命体に電気を流して、金貰えるんだったら、そら前の仕事の方が良いか。」
「あれは、全く関係無い。完全なる俺の趣味だよ。」
グラスを空にした秀一は背伸びし、寝て良いですか?と聞いた。
「何時に起こせば良い?」
「今何時…」
四人全員が一斉に時計を見た。
「十二時半…三時位に勝手に起きます。」
「昼の…?」
「いえ、三時間後の、三時過ぎです。」
「は?」
聞くと秀一、寝る事は寝るのだが、二三時間すると目が覚める体質らしいのだ。変な体質、と和臣に云われたが、其れ以上寝ると頭が正常に機能しないので、此ればかりは仕方が無い、身体が勝手に起きるのだ。
「御前は、宗か…」
「あー、いえ、先生は不眠症じゃないですか、でも俺にはきちんと眠気が来るので。」
「菅原先生、不眠症なの?」
「先生は、一日三十分位しか寝ないぞ。」
其れで人間って生きるの?と和臣は驚いたが、現に五十年近く生きている。課長は黙ってワインを飲んだ。
「和臣、御前も寝るの。」
「やだ、課長と未だ飲むの。」
「どれだけ飲むんだ、ほら、行くぞ。」
やだ、と云い云い、秀一に引っ張られる和臣はゲストルームに収納された。
「俺達も、寝るか。」
「宜しんですか?」
ワインに栓をする課長に宗廣は云い、グラスを洗った。濡れた宗廣の手を課長は掴み、水滴を舐めた。
「嗚呼、そういう事ですか。」
「後一時間は寝かさんからな。」
「はい。」
宗廣の首にキスをした儘電気を消した。


*****


不貞腐れる和臣を横目に、秀一はさっさと布団を剥いだ。其れに和臣は益々不貞腐れ、枕で身体を叩いた。
「どうせ寝るなら、課長と一緒が良かった!」
「一緒寝てやるぞ、ほら。」
「良いよ!一人で寝るから。」
秀一を叩いていた枕を自分側のベッドに投げ捨て、ベルトと靴下を床に置いた。ベッドの間にあるサイドボードの電気を付け、主照明を消した。
掛け布団の上からうつ伏せで寝た和臣は枕をしっかり抱き、課長の匂いがする、と秀一でさえ引かす事を云った。少し、眠気が飛んだ。
上体起こした秀一は、枕に痴漢働く和臣を見、首を傾げ、又寝た。
「和臣、電話。」
「クソぉ、誰だよ。今物凄く気持ち良かったのに。」
枕を抱いた儘和臣は起き上がり、吊るしたジャケットの所迄歩いた。もうそんなに好きなら首を狩ってくれば良いのに、そして其れを抱いて寝れば良いのに、と目で追った。
「うお、しまった…、はい。」
「お兄様?」
受話器から聞こえた不機嫌な妹の声、連絡を完全に忘れていた。午前一時前…大体此の妹が寝る迄に和臣から連絡が無いと、泊まりかの連絡が来る。
「お帰りになられない時は連絡下さいまし。うっかり故意にチェーン閉めますわよ。」
「御免…、今日は課長の家に居ます…」
「まあ、お兄様。不倫はいけませんわ。」
「違う。」
「あわよくば…を望んでらっしゃる癖に。」
「お休みぃ、かわい子ちゃん、チェーン閉めて寝るんだよぉ?」
ブッ…と電話は切れ、お休み位云ったら如何なんだ、とジャケットに電話を仕舞った。
「あ、コンタクト取らなきゃ。」
「御前、忙しいな。」
寝る迄に御前は一体何時間費やすんだ、と秀一は呆れた。秀一を一瞥した和臣は枕を置き、其の儘洗面台に向かう。二分程で戻り、枕を持った和臣は、見えん、見えん、と枕を振りながら歩いた。ガツンと秀一の寝るベッドに膝をぶつけ、でかいよ課長ん家のベッド、と自宅のベッドより一回り小さいセミダブルのベッドに文句を云った。和臣のベッドはダブルベッドである、誰が一緒に寝るかは知らないが、ダブルベッドである。
秀一の足に倒れ込んだ和臣は、もう面倒臭いや、と秀一の布団を剥いだ。
「お、おい…」
「御前、向こう行って。」
「はあ?御前が行けよ。御前が、向こうなんだろうが。」
「煩い煩い。」
枕をしっかり抱いた和臣は、秀一の身体を足で押したが、秀一も押し返した。
「何で御前と一緒に寝なきゃいけないんだよ…」
「御前が後から来たんだろうが…」
「落ちれ、秀一…」
「御前が落ちろ。」
脇腹を突かれた和臣は身体を跳ねさし、其の儘落とされた。
「大勝利!」
「もう嫌い、秀一…」
「結構だ。」
完全に目が覚めた秀一はベッドに向かう和臣の背中を叩き、ヘッドボードに背中を預けると電話を弄りだした。
「和臣の所為で完全に目が覚めた、腹が立つから世谷署のメッセージボックスに、一市民の声として某刑事の悪口を送る。」
「止めて、其れ、署長がきちんと確認してるんだから。呼び出し食らうんだから、本当止めて。」
「赤い車の刑事が…」
「止めて。其れ、俺しか居ないから。特徴的過ぎるから。世谷署で赤い車乗ってるの、俺しか居ないから。」
「…邪悪なボブカットの…」
「其れも、俺しか居ないです。」
「…家鴨口、でチビ…の、刑事、が…、上司の三つ編みさんに…セクハラ、を…」
「もう、完全なる俺だよね?世谷署って云うか、全世界探しても、三つ編みの上司にセクハラする部下って、俺しか居ないよね?」
「早く寝ろよ。」
画面を見せる秀一は笑い、本当に打っていた。此のメッセージを送信しますか?と画面にはある。然し見えない和臣は、適当に頷いた。笑った秀一は其の儘画面を消した。此れで見えていたら本気で送信してやる所だったが、和臣のストーカー行為を今更署長に教えた所で、案外一途だな、で終わる。何年ストーキングしてるんだ、と。
「御前さ。」
「うん。」
「やっぱり、バイだよ。」
「未だ云うか。」
うつ伏せで上体上げた和臣は寝返り打ち、同じにヘッドボードに背中を預けた。
「一回位、ヤッたろ?御前等。」
「御免ね、俺、処女なんだ。」
「彼の方、ネコだろう。」
「そう、そう!そうなんだよ、吃驚した…、菅原先生から聞いて、心臓停まるかと思った…」
「俺も吃驚した。本気で。」
二人は一瞬黙り、なあ…、と首を傾げた。
「先生がネコだとは絶対に思わないけど、だからと云って、彼の方がネコとも思えなかった。何でタチ同士で付き合ってるんだろう、とは思ってた。けど、違った…」
「俺は、菅原先生を見る迄、宗廣さんを相手で見てたでしょう?だから、物凄く違和感があったんだ。」
何というか、確かに宗廣は格好良いのだが、男として格好良過ぎるのだ。どれ位格好良いかというと、此の人に愛される女の人は凄く幸せだろうな、と相手の女に嫉妬では無く羨望を抱く。だから、不倫してやろう、等と考えつかない。妻しか眼中に無い、と断られたら、其の答えを聞きたいが為誘ったような感じで納得出来、誘いに応じたら応じたで、こんな人じゃない…、と幻滅する。其れ程愛妻家の雰囲気を持ち、そうであって欲しいと女が望む…要するに、女が考える理想の旦那像なのだ。
そんな雰囲気を持つ宗廣なので、考えたくはないが、何方かで考えた場合、圧倒的に立ち役の顔と性格だった。謎だったのだ、此の夫婦が。
だから宗一に聞いた時、心臓が停まる程驚き、同時に納得した。宗廣は矢張り、愛妻家であったのだ。
そして想像し、気分が悪くなった。
宗廣が課長に抱かれているのも気持ち悪いし、逆も同じだった。何と表して良いか判らないが、あの二人の空気は、独特である。
「ネコなら、望みあるんじゃないか?」
「あのさぁ、其れは望んでないよ。彼の方に何をしろって云うんだ。」
「なんか一回位あるだろう、未遂、とか。」
何処迄も意地悪をするのが秀一である、其の言葉に和臣は口を押さえ、視線を逸らした。
「は…?本当にあったのか…?」
勿論冗談で聞いたつもりだったが、和臣の態度に背中を浮かせ、和臣の顔を覗くように背中を丸めた。
「ううんとぉ…、未遂って、ええとぉ…何処迄を指す…?」
親指の爪で唇をなぞる和臣は、視線を落とした儘聞いた。思いの外困惑した。
「ううんと…ベルトが外れる迄…?」
「あー、んー…」
「冗談、だろう…?」
「あー…」
和臣は頭を掻き、大昔の話、彼の方をゲイだと知る前、と早口で弁解した。
「…ゲイか如何かも判らない人間に、何かしたのか?」
「違う、俺はしてない!」
「和臣、なあ和臣。少し混乱してる自分に、混乱してる。」
「課長も慌てて我に返ったよ。」
「其処から、ストーカーになったのか?」
「違う、ストーカー行為はもっと前からしてた。」
「御前が何を云ってるのか判らない。」
「だから、課長の事は、高校時代からストーキングしてたよ。」
「御前、今幾つだよ…」
「三十三。同級生ですよ、俺達。」
「…十五年もストーカーしてるのか…?」
「凄いでしょう、宗廣さんより長いよ。いや、同じ位かな。」
「思うんだが、宗廣さん、あの人、ゲイじゃないよな?」
和臣には理解出来ない違和感、秀一は其の違和感の理由をはっきりと理解する。
「男と夫婦してるんだから、ゲイでしょう?宗廣さん。」
「状況は明らかにゲイなんだけど、雰囲気…と云うかもう、俺の鼻が反応しない。だから、あの人はゲイじゃない。」
御前が何を云ってるのか判らない、をそっくり其の儘返したかった。
「ゲイには、ゲイレーダーってもんが、生まれた時から付いてる。同じ匂いがする、って言葉あるだろう?ゲイレーダーが反応すると、同じ状態になる、何も云わなくても、判るんだよ。だから俺は、先生と課長がゲイである事を一発で察知したし、先生達を纏めて見たら、付き合ってたんだって事が判る。視線の使い方が違うんだよ。で、宗廣さん。確かにあの二人は愛し合ってるけど、ゲイなのは彼の方だけ、彼の方が相手だから此の状況が生まれてる。ゲイだから彼の方を好きになったんじゃなくて、彼の方に惚れてしまったから、ゲイになったんだよ。彼の方じゃなければ、宗廣さんは普通に女にしか興味ないよ。」
「勝てる気がしない。」
「宗廣さんに、彼の方の事で勝てると思うなよ、和臣。先生ですら、負けたんだぞ。」
「そうだった、あの菅原先生が捨てられたんだ。」
「だろう?あの完璧とも云える先生が捨てられたんだぞ、三回も。振られたのは五回だって。」
「え?そんなに、捨てられてるの?」
寧ろなんだ、そんなに何回も付き合って別れて引っ付いてを繰り返すなら、宗一こそ課長の真の相手じゃないのか…和臣は思う。
「何でそんなに知ってるの?」
「先生、自分の事ベラベラ話すんだ、自分に興味が無いから。自分の情報がつまらないものだと思ってるから話すんだよ、話して、他人が興味持つとは思えない、って心情で。彼の方は逆、自分を好きだから、自分の情報を出さない。他人に興味持たれたくないから。気を許した相手にしか、情報渡さないだろう?斎藤は此れとは全く違って、彼奴は他人を信用して居ないから、情報を出さない。」
「斎藤さんって、謎だよね…」
「嗚呼、関わりたくないかな。」
「橘さんは?」
「抑にあの人は何も考えてない。何の為に頭が付いてるのか聞きたい。」
「時一先生は?」
其処で秀一は大きく息を吐いた。
「…関わりたくない、と云う問題じゃ無い、関わってはいけない人種だ。俺以上に、危ない人種。」
「強烈。秀一以上とか、隔離した方が良いよ。」
「嗚呼、思う。何であんな男が世に放たれてるのか、理解に苦しむ。」
秀一はベッドに寝そべり、横を向いた。
「橘さんって、バイなんだよね?」
「嗚呼、らしいな。」
「課長と御前…と、橘さん、の違いって何?」
「は?違い?」
「橘さんは、バイセクシュアル、なんだよね?」
「嗚呼。」
「宗廣さんは、ヘテロ、なんだよね?」
「区切れば、な。」
「でも、課長と御前は、ゲイ、なんだよね?菅原先生は、完全なるゲイ、其れは判る。」
どう区別するの?
秀一は暫く、和臣の言葉の意味を考えた。秀一には当たり前の区別知識が、和臣には無い。同性を好きになったらゲイ、両方を好きになったらバイ、異性を好きになったらヘテロ。基本はそうなのだが、此れに肉体が絡むとややこしい話になる。
漸く、和臣の疑問を探り当てた。
「此れ、斎藤にも聞かれたんだけど、俺と課長、女と出来る。其れが疑問なんだろう?」
「そう、其れ。女とセックス出来るならバイじゃないの?」
「違う、此れは違う。バイは、橘さんだ。あの人は、はっきり、男も、女も、同じように愛せる。加えて、女の格好する事に抵抗が無い。男を愛するように女も愛せるし、女を愛するように男を愛せる。俺達は、其処が完全に違う。はっきり云えば、俺達は、女に愛情なんか求めないし、求められても困るだけだ、俺達のような立場が求めるのは、快楽だけだよ。其れ以上は何も求めない。菅原先生は違う、女が大嫌いだ。女が側に居る事さえ嫌う、女其の物を嫌ってるんだ。」
「雪子は…?雪子の店にしょっ中居るじゃん。」
「雪子は、先生の中で性別の無い生き物になってる。先生の嫌う女ってのは、女として生きてる女だよ、女として全面に生きてる女…っていったら判るか?女の武器を最大限に利用して、女としての権力を振り翳す女。あたしぃ、女の子なのぉ、きゃっきゃ、…とかやってる女が世界で一番嫌いだよ。オネエ系とか嫌いだな。俺も嫌いだけど。」
考えても見ろ、彼の方がオネエキャラだったら絶望する所の騒ぎじゃないだろう、と。
云われた和臣は、其れを想像したのだが、飲んだ酒が胃から競り上がる程の嫌悪を覚えた。
課長は髪も長く異常な美意識の持ち主だが、やる事なす事、性格も思考も完全な男である。所謂オネエ系の、女の心を持つ、というものが無い。当然女装もしない。
レズビアンの化粧しないタチっぽい感じ。
例えるならそんな感じだろう、と秀一は云う。
「橘さんが、そう考えると、新人類っぽい。セクシャリティを完全に楽しんでる。」
聞けば、侑徒のセクシャリティは、バイセクシュアルと一応の位置付けはするが、無いのと同じであるという。
「あの人は四つのセクシャルを持つんだ。」
肉体と性別が一致した男の状態で、女と相愛になるヘテロセクシュアル。
肉体と性別が一致した男の状態で、男と相愛になるホモセクシュアル。
女の格好をし、女として、男と相愛になるヘテロセクシュアル。
女の格好をし、女として、女と相愛になるレズビアン。
侑徒の中では此の四つの恋愛状況が生まれている。相手がホモセクシュアルだろうがレズビアンだろうがヘテロだろうが、侑徒には関係無い。其の時其の時の相手で自分のセクシュアルを変える、カメレオンみたいな男である。
「レズビアン…ねぇ…」
「女状態の橘さんと女がいちゃいちゃしてるの見た事あるけど、唯のレズビアンだったぞ。珍しい美女ゲイカップルだと普通に思って眺めてたら、なんだよ、片方橘さんだったよ。でも、男の状態で男といちゃいちゃしてたら、其れは普通にホモセクシュアルに見えるんだよ。」
「レズビアン状態でセックスって、如何するんだろう…」
一応あるでしょ?と聞くと、秀一は笑った。
「タチの女しか寄って来ないんじゃないの?橘さん、自分から女を好きになる時は、男として好きになるから、タチ女で寄っては行かないって云ってたから。ゲイの女と付き合う時は向こうから声掛けて来るって。」
「如何なるの、ねえ、如何なるの!どんなセックスになるの!?」
「さあ…、女の方が、ディルドか、指だろう、な。」
「女同士って、やっぱり指なの?」
「ゲイ女は指見りゃ直ぐ判る。」
「一寸教えて。」
なんの役に立つかは判らないが、此れから先、ゲイにうっかり惚れないとも限らない。然も悪い事に、ゲイの女程女の世界で生き抜く為に、異様に美しかったりする。
女が一番気にするのは、女の目であるからだ。
和臣、女に相手にされなかった時期、余りに辛かった為、世の中にレズビアンが増えたんだ、絶対そうに違いない、と本気で考えていた。其の時期何故か、惚れる女惚れる女、ゲイだった。何かの呪いに掛かったと本気で信じた。
だから、此れから先、其の特徴を持つ女に惚れなければ良いのだ。
「化粧とか服装ばっちりなのに、爪が短かったら高確率でゲイだな。但し、楽器を弄ってる人間以外な。特に、中指と薬指…此れが極端に短かったらアウトだな。ゲイだよ。」
「中指と、薬指…」
和臣は自分の手の平を見、嗚呼、と納得みせた。
「確かに此の指は大事だ。」
「だろ?」
「へえ、女同士って、そうやってセックスするんだ。」
「完全なゲイだと、男性生殖器を模造した物も大嫌いだから。知り合いのゲイは、セックスの時だけペニス生えたら良いのに、って云ってたぞ。」
「何で?嫌いなんでしょう?」
「腕が疲れるんだとよ。肩も翌日痛いし。…だって。」
「おう…、激しいんだな…」
「其の代わり俺達男は。」
腰が痛いんだよ。
同時に云い、笑った。
午前一時四十八分。ディスプレイに浮かぶ時刻に秀一は一瞬驚いた。何時の間にこんな時間が経ったのか。和臣が枕振り回し見えんだなんだ云ってからもう一時間経ったのかと、電話から視線を和臣に向けた。
「おい、二時だぞ。」
「もうそんな時間?早いね。」
和臣も又、電話で時刻を確認した。ゲストルームに置かれる小さな冷蔵庫から水を二本取った和臣は、一本秀一に渡し、半分飲んだ。
「…トイレ行こう。」
一時もじっとしてないんだな此の男、と背中を見送った秀一は天井に向いた。
ふと思い出す会話。
未遂って、なんだ?
自ら話題を別に向けた自分を呪った。
だって気になったんだ、宗廣さんが。
「早く寝ろ、御前は。」
「一緒寝て、課長。」
「はん、断る。」
ドアーから覗く和臣の横顔、無防備に肌蹴たシャツから鎖骨と筋が見えた。
「振られてやんの。」
「煩い。」
さっきも当たっただろう、学習能力無いのか、と聞きたい。全く同じ場所を打った和臣は悶絶しながら自分のベッドに入った。
「で?」
「ん?」
「未遂って、何処迄やった?」
霞む視界でもはっきり判る秀一の眼光に、顎を引いて威嚇した。
「聞いて如何するの。」
「和臣はホモだって、拡散しようと思って。」
「そしたら菅原先生大歓喜じゃないか。」
「は?」
「俺、あの人に狙われてるもん。」
そんな事実無根の噂を流され、宗一に一層興味を持たれたら、此れから会う時尻の穴引き締め会わなければならない。
「其れ、本当?」
「判んないけど。何時彼の方を捨てるんですかね、早く見切り付けて俺んトコ来なさい、やっぱ斎藤と交換しようかな、て毎回云われる。」
「悪いけど和臣、先生、橘さんと付き合ってるよ。」
「……弄ばれた…!」
枕を握り締めた和臣は、其れより何より、侑徒の恋人が宗一な事にショックを受けた。始まっても無いが、和臣の恋は終わった。
「勝てない、勝てる要素が見付からない。菅原先生に秀でてる場所が見当たらない。」
身長も、学歴も、頭も、生き様も、ふところ具合にだって負けた。何一つとして勝てる要素が無い。
「じゃ…XJを買えば、良いのか…、純白の…」
「其処は青のバンディットだろう。」
「俺、バイクの免許持ってないもん!医師免も無いもん!身長も無いもん!」
「完敗だな、おめでとう。」
宗廣にも勝てない、宗一にも勝てない、だったら俺は誰に勝てるんだろうか。
放心状態で天井を見る姿に秀一は喉奥で笑い、俺にも勝てないしな、とトドメを刺した。
「生きるのが辛い。人生がこんなに辛いものだなんて知らなかった。」
寧ろなんだ、自分が低スペック過ぎるのか?と、誰かと張り合う事が烏滸がましい、お門違いな事ではないのかと思い始めた。
「どうせ俺は、低スペックだよ…、だけど其れなりに頑張って生きてるんだ。」
「身長が高かったら本郷さんや斎藤と張り合えただろうけど、身長で完敗だもんな。」
「斎藤さん既婚者だろう、其の時点で身長云々じゃない。最早敵は本郷だけだ。身長さえ本郷に勝てば問題無い。」
其の身長で一番勝てないのだが。
「あの人は?ほら、あの。ボソボソ喋る。」
「井上?」
「嗚呼、其の人。」
「生まれが完全に違う。土俵が違うんだよ。俺と張り合えるのはやっぱり本郷なんだよ。」
「へえ、あの人、凄いんだ。」
「貴族議員の系譜で、父親は外交官だよ。明治時代からの揺るがないお金持ちなの。元を辿れば華族だよ。」
「…へえ。」
そんな人間が本当に世の中に、小説以外で居る事に驚いた。三流の少女漫画のヒーローの設定みたいである。
「彼奴、変な奴でさ、自分の代で井上家の全財産無くすってばら撒いてるの。」
「なんか聞いた事ある。養護施設にばら撒いてるんだっけ?」
「だけど減らないんだって。毎月五百万以上必ず何処からか湧いて来るって云ってた。」
年五百万、では無いのだ、月五百万円、である。年にすると宗一の元年収とほぼほぼ同じで、宗一に聞かせない方が良いかもしれない。
「働くの辞めたら良いのに。」
「課長も云ってた。俺が御前ならまあまあ遊んで一生過ごすのにって。でもしない。」
「変な奴。俺にくれよ。」
「父親を心底憎んでるんだって。其の金使うのは父親に生かされてるのと同じだから、一切手を付けないでばら撒いて、自分の生活分は稼いでるんだって。」
「よし、俺が其の出処不明の財産、預かってやろう。」
先ずはカリブに家を建てる、と秀一は云う。
「じゃあ、俺は、ネオヒルズ族になろうかな。」
「和臣の家も、まあまあ金持ちじゃないのか?」
和臣の父親は作家である。
「金で苦労した事はないよね、でも、売れる迄大変だったらしいよ。借金ばっかだったって。俺は売れてる父さんしか知らないから。」
「そんなの知りません、は傑作だったわ。」
高校時代の事を思い出した秀一はケラケラ笑う。一瞬なんの事か判らない和臣だったが、大きく頷き思い出した。
あれは高校三年の時、現代国語の教科書、其処に何故か父親の小説があったのだ。作者の気持ち…其れを答える、という内容だった。御子息答えなさい、と教諭に指されたが、まともに読んじゃいない和臣は、そんなの知りません、帰ったら聞いておきます、なんなら今メールで聞きましょうか?、と答え、カンニングは止めなさい、と笑いを誘った。
教科書に載っていたのも覚えて居ないし、どの作品が載ったかも今では覚えていない。なのに秀一ははっきりと、和臣と教諭のやり取りを記憶する。
「そうだ、面白い話、聞かせてやろうか。面白いっていうか、俺と父さんが初めて会った時の事だけど。」
和臣は母親の連れ子で、父親と血の繋がりは無い。
「何?」
二人は同時に寝返り打ち、顔を向け合った。和臣は枕の下に両腕を入れ、秀一は肘を付いた。
「俺、其れ迄も父さんの本読んだ事あったんだ。変な小説書く人だな、絶対変人に違いない、って思ってた。まあ、実際本当に変な人だったけど。凄かったよ、あの人は。やっぱり凄い物書き先生なんだって、唖然とした。俺と初めて会うのにさ、後ろに担当者が数人くっ付いてて、先生先生、先生此れで宜しいですか、先生確認して下さい、って凄かったよ。ホテルのラウンジだったんだけど、あれ木島宗一郎じゃない?とか騒ぎになって、…初の親子対面はサイン会に変更になった。父さん、ファンを無下に出来ない人だから。」
「其れって何年前の話?」
「十歳の時だから…二十三年前?」
「其の時代って、木島宗一郎の天下時代じゃないか?映画の原作、殆どだった気がする。」
「あー…、鬼畜の連鎖と、続編の畜生の系譜って映画なら覚えてる。試写会行ったから。変な映画だった。原作も漏れなく変だ。」
「俺好きだぞ、あの映画。」
「やっぱり御前、おかしいんだな。」
和臣は鼻で笑った。
あんな後味悪い小説が好きとは物好きにも程があるし、あの小説を原作に映像化しようと思う作成会社も異常である。今読み返したり見返したら違う感想を持つかもしれないが、小学生だった和臣には異常な世界としか捉えられなかった。
いかんせん和臣、父親は凄い作家かも知れないが、尊敬もするのだが、良くこんな胸糞悪くなる小説が書けるなと思っている。
「課長も好きなんだよね、父さんの本。」
「俺も好きだよ。」
「今度新刊が出るよ、買ってね。云ったらサイン入りの本くれるよ。課長は毎回其れを送って貰ってるから。」
「あれだろう?御前みたいな愚息を面倒見て貰ってるからだろう?慰謝料的な何か。」
「まさにそうだよ、同じ事云ったよ、父さん。こんなので見てくれるなら幾らでも送るって。俺、そんなに酷いかな。」
自覚が無いのが救えなかった。
因みに今此の父親はドラマの脚本と其れを元に小説を書いており、こんな詰まらんドラマ、誰が花金の十時に見るんだ、先ず俺は見んな、見る暇があったら飲みに行く、と文句垂れている。本人が提案したのでは無く、テレビ局側がこんな感じでお願いしますと頼んだ物なので嫌々書いている。大金が無ければ誰が書くか、こんな薄ら寒い恋愛ドラマの脚本等、と周りに云い捲っている。其れも暇があったら見てね、とちゃっかり宣伝した。宣伝部長である。
「そう手回しされてるから、彼の方が御前に手を出さないんだな?」
ニヤニヤ笑う秀一に、和臣は舌打ちした。
「如何やっても御前は、俺をバイにしたいんだな?」
「ゲイにさせないだけマシだと思え。」
「逸そゲイの方が清々しいわ。」
「しゃぶられたか。」
「流石に其処迄は無いよ。」
「ふぅん、じゃあ、何処迄よ。」
如何やっても此奴は聞きたいのか。
云った所で何が如何なる訳でもないか、と和臣は吐き捨てた。
「キスしただけだよ。」
「しゃぶられた方がマシだな。」
「…いやいや、キスの方がマシだって。」
「じゃあ、俺が今此処で、キスしても平気か。」
「はい?」
思わず起き上がった。
「俺、ホモじゃないから。」
「キスされた時、如何思った?」
「今此の瞬間で、此の気分の儘死にたいと思った。」
「…やっぱり御前、バイじゃん…」
「だから、秀一が云う、宗廣さんと同じなの、俺は。」
秀一は暫く黙り、なんか云えよ、と和臣が口を開きかけた時、云った。
「御前は、覚醒してないバイだ。」
「何でそう思うの?」
「御前の周りのゲイが、御前に反応してるんだ。彼の方だけなら話は終わるが、先生や橘さんのゲイレーダー迄反応してる、詰まり、バイセクシュアル。唯、覚醒してないだけだ。」
秀一は鼻を人差し指で撫でた。
和臣はうんざりした顔で頷いてみせた。
「御前のゲイレーダーは反応してるのか?」
「…嗚呼、反応してるよ。」
「最悪…」
「高校の時からな。」
お休み、と秀一は寝返り打ち、和臣に背中を向けた。
「言い逃げするな!」
「覚醒したら、教えてやるよ。お休み。」
「何をだよ…」
此れ以上突っ掛かるのも時間を無駄にするだけだろうと和臣も寝返り打った。
十分程すると和臣の寝息が聞こえ、鼓膜にしっかり感じ取った秀一は起き上がり、ゲストルームを出た。中庭でも見るかとフロアーに出たが、先客が居た。
「眠れんか。」
「貴方こそ。」
中庭を眺めながらワイン傾ける課長の横に座り、ゆっくり肩に頭を乗せると鼻から息を抜いた。
「何で同じ部屋にしますかね。」
「ゲストルーム、一つしか無いんだ。」
鼻に抜けるワインの匂いと、ボディソープの匂い。
「…成る程、ヤッた後、なんですか。」
「んっはっは。」
「俺が悶え苦しんでる時に、良くもまあ。」
「云えば良いだろう、云えば。」
「負ける勝負はしない主義なんですよ、貴方と違って。大昔、和臣にキスされたそうじゃないですか。」
ワインを喉に詰まらせた課長は、本気で木島抹殺計画を立てよう、とボトルを傾けた。
冬の匂いが、通り過ぎる。
俺の恋は何時だって、空っ風が吹いている。何時になったら桜が咲くのだろうと思っている。




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