最強の家庭教師


今更高校の教科書等何に使うのか、寧ろ良く持ってたな、と教科書を広げる木島和臣の後ろから課長は覗いた。開いているのは現代国語である。
「何でいきなり?」
「雪子が、大学行きたいって云ったの。」
「嗚呼、成る程。」
和臣の開く教科書とは違う…英語の教科書を課長は開く。
雪子、とは和臣の恋人で、最終学歴が高校中退…詰まり、大学に行くには、大学入学資格検定を受けさせないといけないのだが、雪子の学習レベルが中学校で止まっている。此れには和臣も言葉を無くし、二十五迄には試験受けようね、と優しい言葉を掛けた。今雪子は二十三歳である。
「何処の大学行きたいって?」
教科書を捲りながら課長は聞く。
「んー…、良く判ってないみたい。取り敢えず大学に行きたいみたい。」
「ううん…」
そんな適当な心持ちで大学に受かるのだろうか。
「雪子、学校行ってなかったでしょう?だから、学校生活がどんなものか知らないで、一回味わってみたいんだって。」
「短大は?二年位なら雪子も卒業出来るだろう。」
「嗚呼、良いね。女子短大に行かせよう。」
「女子大生と付き合ってる、って言い捲れ、そして猥褻刑事ともっと軽蔑されろ。」
教科書を閉じた課長は席に着き、和臣の横に席を構える加納馨が小さく笑った。
然し課長は思う。
恋人に学歴付けさすのは一向に構わないが、其れより何より、先ずに妹の心配でもしたら如何か。
和臣には八歳年下の妹が居る。現在二十五歳なのだが、此れ又凄く、ある事件が切っ掛けで中学時代から引き篭もりになった。
事件…、中学二年生の頃強姦され、妊娠、体育の授業さえまともに受けれない程身体が弱かった妹は、掻爬の影響で子供が産めない身体になった。当然、中学校の卒業式も出ず、高校も行って居ない。カウンセリングを受けさせようにも、家から全く出られない。重度の男性恐怖症持ちで、和臣以外の男と目も合わせられない。父親とは会話出来るが、此の父親が身体の大きな男で、小柄で痩躯の和臣と比べると、男としての存在感が圧倒的に違う。妹が一五〇センチ無い身長なのも影響するが、一八〇センチ超えの父親に恐怖心を抱いていた。
幸い、此の時和臣は大学生で、妹一人面倒見るには充分な資格があった。父親は娘を刺激しない為、妻と一緒に北海道の別荘に移住した。
和臣の父親の職業は作家である、詰まり、担当が家に出入りするのである。女の担当に変えても良かったのだが、出版社全部を女にするのも面倒な話で、だったらもう、自分が此の家から出て行く事を決めた。
妹は日中何をしているか、洗濯や掃除をしながらアニメを見ている。
そう此の妹、生身の男が駄目になった事で、二次元の、絶対に自分に危害を加えないキャラクターに熱を上げるようになったのだ。其れも、かなり中性的なキャラクターを好み、男のキャラクターでありながら声優は女…そんなキャラクターが好きなのだ。
和臣の声が比較的高いのは、そんな理由である。元はもう少し低い。唯、十年以上妹に合わせ高い声を出しているので、此のトーンに慣れてしまい、和臣ですら元の声がどんなだったか覚えていない。妙に語尾が柔らかく、言葉全体が女っぽいのも、其の影響である。
和臣が未だ独身なのも、実は此の妹の所為だったりする。
和臣と結婚するイコール此の妹が漏れなく付く。とんだ付録である。雑誌の要らない付録でしかない。付録が最早メインの雑誌、では無いのだ、此れは本当に要らない付録、こんな付録要らないから安くしなさいよ、という具合。
恋人と妹とを天秤に掛けた時、和臣は必ず妹を選んだ。一応は天秤に掛けてみるのだが、掛けるのも最近では馬鹿らしくなって来た、答えは決まっているのだから。酷い女になると、近親相姦、と和臣の態度を罵る。此れを云われた和臣は、普段女に怒らない性格なのだが、限界が来てひっぱ叩いた。此の恋人は最初から妹の存在を良く思っておらず、普段から不満を漏らしていた。余りの怒りに、帰り道強姦に遭えば良いんだ、とさえ思った。
そんな和臣を恋人に持つ雪子、自ら底無に男運が悪いと威張るだけある。そして、和臣が初めて、妹と天秤に掛けた時、全くの平行になった女でもある。
そうというのも、雪子が妹の存在をかなり受け入れており、妹が其れに懐いて居るのだ。
学校に行って居ない二人は友達が居ない、和臣を他所に友達になってしまったのだ。最近妹の影響でか雪子も、二次元良いじゃないですか、と言い始めた。此処でも和臣、アウェイである。
聞いた課長は、一寸此れは本当に、木島が結婚するかも知れん、と思った。
和臣が結婚出来ないのは、妹という巨大な壁で、雪子は容易く乗り越えてしまったのだ。そら和臣が、大学に行かせようともする。
実は此の兄妹、血が繋がっていない、だから悪く云われる、貴方は妹を妹では無く、女として愛している、と。
両親は再婚同士で、妹は父親の連れ子、和臣は母親の連れ子だった。和臣が十歳の頃で、妹は二歳だった。
可愛かった、本当に。お兄様を呼ばれた其の日から、絶対に何があっても此の子を守ると決めた。其の小さな手を絶対に離さないと誓った。
此れが女として見ていると云われるなら、其れで良い、言い訳も面倒だった。唯云うが、妹に恋愛感情は本当に無い。あったら其れは、妹が何よりも嫌う男になってしまうから。兄以上父親未満、と云う感じであろう。
「御前、理系不得意だろう、如何するんだ。」
問題は、此れである。
雪子に大検を受けさすのは良いが、実は和臣、理系が破壊的に不得意なのだ。典型的な文系頭で、正直、数学が出来ない。
「課長…」
「…来ると思った。」
そう和臣、余りに理系が出来なさ過ぎて、高校時代課長に教えて貰っていた。
和臣と課長の出会いは、和臣が高校生の頃である。父親と課長が繋がっており、父親が、破滅寸前の馬鹿なんだ、と課長に泣き付いた。
和臣が何故に役にも立ちそうにない政治経済学部を選んだか…、其れは受験科目内容。数学が選択科目だったから。当然和臣は、地理公民及び数学、の選択では政治経済を選んだ。態々落ちる物は選ばない。が、然し、経済を勉強する人間が破壊的に数字が理解出来ないのもかなり問題で、抑に此の時、高校二年生だったのだが、数学含む理系科目を追試に落ちやっていた。三年になったら数学は選択になるので、勿論選んでいないが、生物、化学、物理かは選ばなければならなかった。此の時は悩みに悩んで、生物教諭が、木島は生物にしよう、と両肩を掴んだ。生物が此の三つの中で比較的点数良かったのだ、まあ赤点ではあるが。
要は和臣、頭が悪いのだ。
文系はどの教科もほぼ満点なのに、何故理系になると毎回赤点なのか、寧ろ此れはある種の天才では無いのか、と教諭達は思った。
其処で父親が縋ったのが、京都大学の教育学部を出た課長だった。課長の脳みその作りが基本理系であり、数学は得意だった。尤も課長は、教師になる為教育学部に行った訳では無いが。
課長が本当になりたかったのは、刑事でも無く、小中学校、高等学校の教諭でも無く、園児教諭…幼稚園の先生になりたかったのだ。なれないと知った時の絶望感と云ったらなく、俺は何の為に態々京都迄来たんだ、こんな事なら関東の私立大学で良かったじゃないか…、と四年間荒れた。其の絶望感から警察官になろうと決めた。出来るだけ子供と関わらない職業を選んだ。誰が好き好んで、高校生に勉強等教えるか。課長の此の四年間は、本当に無駄であった。最初に調べない課長が悪いのだが、京都大学に行く、教育学部、と息込んでいた高校時代の己を諭しに行きたい。
何故京都大学を選んだか……課長は隠しに隠しているが皆知っている。が、敢えて云わない、其れが大人なのだ。優しい世界である。
そんな経由で課長は高校生の和臣に数学を教えていた。
「あの教科書とノート、未だあるよ。」
教科書で顔下半分を隠す和臣は、猫目を緩ませ笑った。
「物持ちが良いんだな。」
「俺の宝物だもん。」
どんな教科書か、課長の文字が沢山書き込まれている。ノートは和臣が解り易いように一層細かく書いてある。
課長の愛が沢山…と気持ち悪く笑った。
「え、其れ見たい。」
和臣の前に席を構える井上拓也が云った。
「井上も確か、政治経済だったな。」
「そうですよ。」
「数学得意か?」
「な訳無いですよ、機械は強いですけどね。」
「…本郷は、学部なんだ?明治なのは知ってるが。」
拓也の横の席の本郷龍太郎に課長は話題を振った。
「理工学部ですよ。」
「は…?」
課長と和臣の視線が一気に向いた。
「理工学部…?」
「文学部じゃないのか!?明治の癖に!」
「なんですか、明治の癖にって…」
「え?だって、ねぇ、課長…」
「明治で理工学部か…、斜めに来るな…」
明治大学と云えば文学部、そして演芸。此の先入観がかなり強い為、龍太郎も文学部なのだろうと思っていた。
したらなんだ、敢えての理系。
「本郷、前さ、文系男子筆頭、みたいな事云って無かった…?」
「嗚呼、云ってました。けれど俺は、理工学部です。」
「ねえ、詐欺。課長、此奴詐欺。」
「ううん…、此れは裏切られた…、言葉がきちんとしてるから文学部だとばかり思ってた。」
「嗚呼、其れは失礼致しました。俺は、文系が駄目なんですよ。」
「明治なのに…、学歴が泣くぞ…、本郷…」
「本が読めないんだ、俺。」
何よりも本を愛する和臣の視界が滲んだ。
信じられないかもしれないが、世の中には本気で本を読めない人間が居る。文字を追うだけで、文章の成り立ち、意味が判らないのだ。依って、数学の文章問題等も、問題の意味其のものを理解出来ない。文章に組み込まれる真の意味が判らない。だから、本が面白くない。
此れが、本物の理系脳、である。
課長は息を吸い、如何したものか、と珈琲を飲んだ。
「俺も中々に理系脳だが、本位読めるぞ…?」
「課長は感情が豊かでらっしゃいますから。」
龍太郎の其の言葉に、あ…?、と和臣は気付いた。
そう、龍太郎、感情の表現がかなり乏しいのである。何時も淡々と話し、表情も無表情に近く、なので冷たい人と良く云われる。或いは怒っている。
此れと全く同じなのが、馨である。此方も完全なる理系脳の持ち主で、確立分野がずば抜けている。
二人に共通するのは、他人の感情を全くと言って良い程理解しない。例えば、相手が怒って居たとすると、何故相手が怒っているのか判らないのだ。
龍太郎に至っては、所謂女心を理解出来ず、摩訶不思議な生き物として女を捉える。
はっきり云ってしまえば、無神経なのだ。此れを云ったら傷付くよな?と云う思考が働かず、思った事を口にする、依って、龍太郎の所為で何人もの刑事が退職に追いやられた。
他人に興味が無いのも同じだ。
龍太郎に相談も持ち掛けようとする愚か者は居ない。詰まらん事で悩むんだな、と云われ、終わる。
そら御前には詰まらん、しょうも無い事かも知れないが、相談者は明日死ぬか如何かの状態なのである。
良く言えば現実主義的、悪く言えば無神経、此の線引きは難しい。
こんな性格な為、恋人も生まれて此の方一度も出来ないのだ、尤も龍太郎は、そんな物欲しちゃ居ないが。人生の一度として、恋人欲しい、と言った事が無い男である。
拓也の計らいで、大学時代女とデートしてみたが、疲れるだけでちっとも楽しくない、此れの何が面白いんだ、相手に合わせるばかりで下らん、と吐き捨てた。振り回されるのが良いんだろう?と拓也は云ったが、御前が何を云っているのか理解出来ん、と案の定返された。
見れば見る程、拓也と龍太郎は正反対である。だからバランスが取れているのかも知れない、二人で熱血だと暑苦しくて仕方無いし、二人で冷淡だと怖い。
龍太郎の本気の笑顔等、一年に一度見れたら良い所で、普段微笑む笑顔、課長曰く、笑顔さえ凛々しい。
尚、龍太郎と馨にお笑い番組を見せても無意味である。しらーとした顔で眺めるだけで、笑ってる自分達がおかしいんじゃないかと錯覚する。こんなモノで笑える等とは、貴様の人生も安い物だな、と云われている気分になる。
笑いの鉄板下ネタにも全く反応しないのだから、御前の人生何が楽しいんだよ、と皆思うが、龍太郎は龍太郎なりに楽しいので問題は無い。というか抑に、下ネタを理解して居ない。
一課は暇があれば下ネタオンパレードで、女性刑事からしてみれば立派なセクハラに値する。課長が顔に似合わずかなりの下ネタ好きなのだ、其処は親父である。女性刑事達から、課長やらし過ぎます、と抗議されても、いやらしく無い男なんか男じゃない、いやらしいから男なんだ、と名言を残している。拓也が其れに賛同している。
和臣が課長のストーカーであれば、拓也は課長の信者である。和臣には其れが面白くない。
「本郷に、数学教えて貰ったら如何だ?」
「嫌だ!だったら俺が教える!」
「お断りします。」
「じゃあ、加納…?」
「いえいえ、ワタクシでは役不足かと。」
馨が又桁外れの頭脳の持ち主で、和臣達とはレベルが違うのだ。会話のレベルさえ違う。
天才が努力して入学する大学…そんな風に呼ばれ、納得する大学、其れが馨が出たハーバード大学という学校である。然も専攻は犯罪心理学、神様不公平過ぎるだろう、と皆嘆く。課長が人生で初めて完敗宣言したのが、実は此の馨であったりする。御前程完璧な人間を見た事がない、と。
然し此の馨、一つだけ異常な傾向が見られる。頭が良過ぎて馬鹿なのだ。
既婚者…と自分で云って居るが、其の妻が、犬、なのだ。彼女以外に興味御座いませんと一括し、人間の恋人を作らない。人間の雌等、馨の目には汚物に映る。
馨は本来、無類の猫好きなのだが、妻は犬、其処に底知れぬ異常な愛情を感じる。
其の妻に高額なジュエリーを与え、食事を作るのが、馨唯一の楽しみであり、彼女が人間でしたら先ず興味は無いでしょうね、と言い放つ。
そんな馨が、和臣の恋人に態々勉強等教えはしない。高校中退の時点で、話す価値も無し、と決め付けられている。
「やっぱり課長しか居ないよ。」
「中学生レベル、なぁ…。なんだ、何処から教えたら良いんだ、因数分解?二次関数?まさか体積の求め方から、とか云わないよな?其れは中学生レベルじゃないぞ、小学生レベルだ…」
「判らない…、古典は全滅だった…。三段活用を知らなかった…、ラ行変格活用も、何其れ、って云われた…」
「おう…、此れは手強いぞ…」
「英語は、本場に任せた。」
「嗚呼、彼奴か。だったら大丈夫か。」
「いや、其れ、駄目じゃね?」
拓也が口を挟んだ。
「本場って、詰まりヘンリー、イギリス…だろう?」
「そう。」
「大検の英語って、アメリカ英語、だよな?此れ、俺が苦労したから云うけど、アメリカ英語でやるんなら、変にクィーンズ英語教え無い方が良いぜ?」
「どういう意味?」
「単語が違う…のはまあ良く云われてる話だけど、文法が妙に違うんだよ。完全に違うのが発音な。クィーンズ英語の発音に耳が慣れると、アメリカ英語で違う意味に捉えるぜ?クィーンズ英語は、アメリカと違って、なんつーか、喉を閉めて発音するから。」
拓也の言葉に、嗚呼、と龍太郎が納得した。
「だな、アールの発音がダブリュー…、詰まりわ行に聞こえる。」
「だろ!?」
「ライト…アールで始まる方のライトです、其れが、ワイト、に聞こえる。でも、アメリカ英語ではきちんとライトと聞こえ、然もワイトなんて単語は無い。エルで始まる方のライトが、アメリカ英語でのアールで始まるライトの発音に酷似する。アメリカ英語ではきちんと発音する単語も、喉を締めて発音します。此れは…」
「アス。アメリカはきちんとアで音を出して、スが無声音に近い。でも、クィーンズは、アにアクセントが来て、然も舌が回ってる感じ。アールが入ってる言い方。因みに俺、アメリカ人と会話出来ない。向こうが俺の発音を理解しないから。」
「俺はアメリカ英語なので、ヘンリーから、発音が綺麗だね、と皮肉を受けます。けれど最近、クィーンズっぽくはなってます。」
「課長、如何しよう…」
英語はイギリス男に任せ、自分は現代文と古典に集中しようと目論んでいただけに、和臣は困った。
然し、だからと云って、課長も加勢出来ない。だったら数学を教える。
課長の英語が、此方は此方で、デンマーク訛りなのだ。課長の父親はデンマーク人で、母親はロシアと日本の混血…此の両親のやり取りが英語だったのだ。父親はロシア語と日本語が話せず、母親はデンマーク語を話せない為、共通の言語が英語だった。
「か…加納…」
「嫌です。ワタクシには関係御座いませんから。」
無情な馨の言葉に、初めから期待しちゃないがな、と和臣は煙草に火を点けた。
「誰か居ないか…、二年で高校迄の知識を植え込まなきゃいけないんだぞ…」
フィルターを噛む和臣に、課長も毛先を弄り考えた。拓也も考えた。そして龍太郎と馨が、木島さんは判るが何故此の無関係の二人迄悩んで居るのだろう、特に課長、と相変わらずの淡白を見せた。
「あ。」
課長はふっと思い出し、髪から手を離した。
「何!?居た?」
「科捜研…、そうだ、彼奴…」
「菅原先生!?」
「違う、彼奴はドイツ語専門だ。彼奴の英語はドイツ訛りだから、期待しない方が良い。」
「じゃあ…」
「橘だよ。」
警視庁科学捜査研究所…其の物理担当の橘侑徒、此の男が桁外れの英語知識を持つ。TOEICは980点以下を取った事がなく、国連英検は毎回特A級と、桁外れの成績を記録する化け物である。侑徒の口調がゆったりなのは、此処にある。
実は侑徒、聞いた日本語を一度英語で変換し、其の答えを英語で考え、適する日本語に変換し応答するのだ。詰まり侑徒のファーストランゲージは、日本の地に居ながら英語と云って良い。全く日本語が話せない、理解出来ないアメリカ人を子守にする程、橘家の英語教育は徹底していた。
「聞いて、聞いて課長!」
「彼奴は優しいから、俺で良ければ…、とか云ってくれそう。」
読み通り、課長が電話で詳細を話すと、俺でお役に立てるのなら、と引き受けてくれた。なんと優しい女神であろうか。男だが。
「課長、後二年で、雪子、大検受かるかな…」
「大丈夫、大丈夫だ…、俺達が付いてるんだ…、俺は数学に徹底する…」
六年間の知識を、二年で会得させられるであろうか、和臣は不安で堪らないが、雪子が大学に行きたいと望むのだ、頑張るしかない。
和臣の携帯電話が響いた。発信者は長谷川秀一…科捜研の化学担当の男。
「何?」
「面白そうな事、するそうじゃないか。」
侑徒から聞いたのだろう、何時になく秀一は明るい声色だった。
「そうだよ、俺の未来の奥様を女子大生にするの。」
「化学が要り用な時は、力を貸そう。」
ぬめりとした蛇の声。
「あはは、其の時は頼るよ。有難う。」
「確率分野なら任せろ、数学も齧ってる。」
「本当?雪子、中学生レベルだよ。」
「彼の方が数学担当なのは判る。が、人に教えるとなったら、俺も良いかもな?」
「あ、御前、一応助教授だったっけ。」
「嗚呼、教鞭は任せろ。無駄に大学で教えてなかった。」
「頼もしいねぇ。秀一先生。」
馬鹿抜かせ。
切れた電話、和臣は前髪を息で飛ばし、教科書に向いた。




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