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 予想に反し、クラウスはそれから三日経てども目を覚ますことは無かった。
 集中治療室から、特別な個室へ移されたクラウスは、未だ夢を見ている。
「……君、食べてる?」
 エステヴィスの非難する言葉に、スティーブンはこけた頬を撫で、多少は、と答えた。事実、必要最低限のカロリーは摂取していた。健康食品や、ゼリーの類だけだが。なにせ、目の前の男の方がずっともっと痩せてしまっている気がする。
「ミスタ……あなたまで倒れてしまっては、皆が心配するわよ」
「分かってるんですけどね……」
 ハハ、と乾いた笑いで誤魔化されもしない女医は、大げさなため息をついて点滴をひとつ投入する旨だけを伝えてきた。クラウスの分ではない。スティーブンのものだ。
 必要とは思えなかったが、実際クラウスが起きた時に自分が倒れていては元も子も無い。それに、そんなことになればクラウスが起きてまたぶっ倒れたら困るのも事実だったので甘んじて受け入れた。
 検診はいつものように体温、酸素量、心電図の調子を見て終了した。カルテに書かれるドイツ語には「変わりなし」とだけである。
「また、昼来るわ。点滴はすぐに持ってこさせるわね」
 こまめに覗きに来てくれる女医の存在は、有難い。面会は今のところ、ギルベルトとスティーブンだけが行っていた。本来は、ギルベルトにクラウスを任せライブラの事務所を守らねばならないのだろうが、クラウスがもしかしたらこのまま永遠に眠ってしまい、心電図が直線を描いてしまえば、と考えたらとてもでは無いがここから離れたくなかった。
 スティーブンは電子端末をなぞりながら、ラインヘルツの検索情報を眺める。
 ラインヘルツ家は、現存五〇〇年近い歴史に相当する由緒正しき貴族家系である。牙狩りが発足する以前より、悪魔祓いとして力を見せつけ、現ヴァチカンの司教とも繋がりは深い。ドイツの片田舎、南部のシューヴァンべ地方に城を持ち、その評判は悪くは無い。
 貴族と言っても、今や肩書きだけという方が多い中、ラインヘルツの威厳は今も世界中に残っている。それは、未だ牙狩りの主たる働きであったり、政府への助言、多大なる世界貢献、広がる人脈は色々にあった。
 ネットに出てくるラインヘルツ家の情報というのは、その程度である。公爵家の偉い様。嫌疑される存在ではなく、ヒーローのように扱われていることが多い。
 その実、ラインヘルツが代々受け継ぐブレングリード流派がひどいものだと知る者は少ない。
 悪魔祓いの中でも高貴な存在が突出して出始めたのは、二代目当主の頃だったと聞く。詳しい歴史をスティーブンも知るわけではない。以前、牙狩りに属していた際クラウスと寝入り場に少し話をした程度の知識だが、それでも胸の悪い話であったことは確かだった。
 二代目当主は、悪霊だけでは捉えきれなくなったその事態を重く見、その時の司教と共に、血の契約を果たすことになる。
 滅獄の為に、血の契約を果たしたラインヘルツ家は一種呪われたと言っても過言では無かった。
 初めてブレングリード流派を確立させたのは、二代目当主である。当主は、元々ダークブラウンの落ち着いた髪色の紳士的な男であった。顔立ちも優しかったと聞く。今も、ラインヘルツの城に飾られた肖像画には、柔和な初老の男の絵が掛けてあることをスティーブンも知っていた。
 しかし、その男が血の契約を果たした際、髪は赤く燃え、口の端からは牙が生え、その姿はまさに敵対する異端と変わらぬような姿だったと聞く。そして、代償としてなのか、はたまた使命を全うせんとするものなのか、痛覚が消えるのだ。痛覚のことに関しては、ライブラを立ち上げた際に聞いたものだ。顔色ひとつ変えず話すクラウスを、スティーブンはその時初めて畏怖を覚えたものだ。
 だって、そうだろう。クラウスはこの先どれだけ攻撃を受けようと、それが致命傷であれど、血を扱える者は文字通り、死ぬまで闘うのだ。
 馬鹿げている。そう言いたい。君はそれで良いのか、そう詰ってもやりたかった。
けれど、血を扱う者たちは、恐らく須く皆何かを負っているはずだ。現に、スティーブンの術式も制約はある。
 端末を切り、クラウスの顔を眺めた。少し伸びた無精ひげに苦笑する。元来綺麗好きの坊ちゃんだ。そもそもドイツ人というだけで、他の国の人間よりずっと厳格であるほどだ。起きた時、身なりが酷ければ、今度は胃でも痛めてしまいそうだな、とスティーブンは室内に供えられた洗面場に髭剃りの準備を始めた。
 剃刀、ジェル、化粧水、必要なものは大体ギルベルトが揃えてくれてある。優秀な執事だ、こういう事態も見越していたのだろうか。洗面器にたっぷりとした泡を作りながら、スティーブンは少しだけ楽しいと思った。
 一人になっても、なんでもできるクラウスにこうして奉仕するというのは、こういう状況でもなければ出来ないことだ。いささか不謹慎だと思われるだろうが、スティーブンは今やこうしてクラウスの傍にいることでしか、生を実感できない。
 彼の生命力がいかにほかの人間より優れていようと、こうなってしまえば終わりは誰にでも来るのだという事実を突き付けられ、恐ろしいことに他ならない。
 鏡に映る己は、ひどい顔をしていた。目許は隈で覆われ、食欲なんて無いせいか頬はいささかこけている。確かにクラウス以上に病人のような顔をしていた。髪なんて適当で、シャツもぞんざいだ。目が覚めたクラウスには叱咤されるか、きっと苦笑されてしまうことだろう。それとも、心配をさせるだろうか。
 洗面場にお湯を張り、スティーブンはタオルを付け、クラウスの元へ戻る。サイドボードに剃刀のセットを置き、ベッドを少し起こして、クラウスの上体を立てた。
「少し、寝苦しいかな。悪いな、きれいにしてやるから、ちょっとだけ我慢してくれよ」
 応えてくれない相手の額にゆるりと唇を落とす。湯の中にあったタオルはホットタオルになり、よく絞ってスティーブンはクラウスの顎のあたりをじっとりと濡らした。
「熱く、ないかな。君、そういや熱さも分からないんだっけ。この間、ケトルに触って火傷してたもんね」
 赤くなった指先に慌てたのは、クラウス自身ではなく近くにいたレオナルドだった。「何してるんですか!」叫んだレオナルドの声は少々怒声も含まれており、クラウスは慌ててケトルを落とした。中の湯が勢いよく湯気を出して零れるのも構わず、レオナルドはクラウスの手を冷水につけていたのを思い出す。
 すまない、と困った顔をしていたクラウスに、スティーブンはやはり虚しく思うだけだった。指先で氷をいくつか用意してやり、クラウスの手に渡してやると、叱られた幼子のような顔で、もう一度すまない、と縮こまる姿はやるせなさを覚えた。
 眠るクラウスの前髪を払ってやりながら、スティーブンはベッドに乗り上げ、クラウスとベッドの間に自身の身体を差し込む。腹の上に頭が来るように調整して、スティーブンはサイドボードの泡を手にして、ゆるりとクラウスの口周りを覆っていった。
「君、こうするとサンタクロースみたいだね。子供に夢を運んでくれるかな。大人の僕にも夢を見せてくれるんだから、きっと子供になんて容易いことだろうね。クラウス、君の言動はいつだって夢と希望にあふれていて、賛同するものたちでいっぱいなんだよ。なァ、クラウス。君が夢から覚めなければ、同じ夢を見る同志は倒れてしまうかもしれない。なァ、クラウス……」
 傲慢だった。詭弁かもしれない。
 スティーブンは胸の裡を曝け出すように、クラウスに呟く。倒れてしまうのは、きっと自分が最初だ。クラウスと言う夢がないのなら、こんな場所など必要もない。
 剃刀を手にし、慎重に顔のラインに沿って剃り上げる。傷を作るわりには、いつも肌理の細かい肌をしていると思う。白人らしく、肌は彼の口端に覗く牙と同じ色をしている。白磁のようになめらかで、ぞっとするほどスティーブンは興奮を覚えた。
 ひと肌が恋しかったのか。それともクラウスだったからか。
 恐らく後者に違いないが、スティーブンは泡だらけの口元に近付き、思わず口を吸った。はじめて、のキスだった。
「……告白が先だなんて怒らないでくれよ。君が目覚めないのが悪いんだからな……」
 泡のついた口元を強引に拭い、わずか、緩んだ涙腺に目を細めた。ぱたぱた、とクラウスの頬に水滴が落ち、まるでクラウスが泣いているかのようにも見えた。
「悪いな……髭剃りが途中だ。この後は、体も拭いてやるから……。君の世話なら何だってしてやるよ……、なんだって」
 その時、不意に、スティーブンに擡げた凶悪な欲望が脳裏をかすめた。
 剃刀を持つ手を緩慢に動かしながら、恐ろしい妄執に取り憑かれた事実に唇を引き結ぶ。
 ――なんてことだろう。なんてことだ。
 思わず手が震えた。フラッシュバックするように、瞼の裏で抑え込めていた悪癖は顔を出す。
 スティーブン・A・スターフェイズにはひどい性癖があることを、己で自覚していた。そう、ひどい、猟奇的な性癖だ。変質者だと糾弾されかねないものである。
 スティーブンは、手足の無い人間に性的興奮を覚える性質だった。昔見た映画のせいだっただろうか。思春期の子供にはずいぶんと強烈な印象を植え付けて、そしてひどく魅力的に映ったのだ。
 献身的に世話をするという行為が、手足の無い人間を追い詰めると言う背徳感がたまらないほどの幸福感に満たされるのだと知った瞬間でもあった。
 スティーブンは昏い眼で、落ち窪んだクラウスの右足を見た。義足はすぐにでも用意されるだろう。もしかしたら、この病院でならば同じように足も作ることさえ可能かも知れない。部分的なクローンなら容易だろうか。けれど、今はまだ切り落とされた足に包帯が巻かれているだけだ。
 だからクラウスは、現状を知らないでいる。
 ――両手ともう片足も切り落としたら、どうなる?
 剃刀を置き、クラウスの残りの泡を拭いながら、スティーブンは思案する。
 最高だと、思った。
 ベッドの上に寝転ぶ肢体はきっと、今までどんな思い描いた体よりうつくしいに違いない。それに、クラウスが、もう無茶をすることもなくなるのだ。BBに傷つくのはクラウスだけでなくともいいはずだ。それこそ、世界とクラウスならばスティーブンの比重はクラウスだ。
 思いついたそばからどんどんと妄想はひどくなるばかりだ。クラウスを監禁して、誰にも見つからないようにするにはどうすればいいだろうか。いや、永遠でなくてもいいのだ。
 そうだ、二週間。二週間ほどで構わない。
 スティーブンの腕の中で冷たくなるクラウスよりも、世話をされ息をするクラウスのほうがずっとずっと魅力的であった。計画をどうすればいいだろうか。
 まずはギルベルトをどこかに追いやる必要がある。そのあとはKKだ。彼女は、実に目敏い。念入りに、そう念入りに練らなくてはならない。
 クラウスをまずはこの病院から出すことから始めなければならない。そのためには、どう女医を説得に導こうか。時間は、クラウスが起きる前にやらなければ意味が無い。ならばいつ起きるか分からないクラウスにそう深く考えている時間が無いこともスティーブンは分かっていた。
「……クラウス、すまない。身体を拭いてやるのは、僕の部屋に来たときにしよう」
 さっさと髭剃りの道具を片付け、スティーブンは電子端末を手に取り、まずは己の私設部隊へとひとつ連絡を入れる。その口許には、実に深い笑みが刻まれていた。




「自宅療養?」
 エステヴェスが、ぼんやりとした顔で反芻した。
「駄目ですか? だいぶ容態も安定してますし、何かあればブラッドベリにはすぐに連れてきます。そろそろ僕もクラウスを傍目に端末だけじゃ、仕事が滞ってきたので。ギルベルトさんは、いまラインヘルツ家との会合で忙しいようで」
 少しだけ逡巡して、女医は「いいよ」と返答した。そして「ただし」と付け加える。
「目が覚めたら、必ずミスタ・クラウスをここに連れてきて。何せ右足がああなっている以上、今後の話し合いが必要だから」
「クラウスならば、義足か再生を望みますよ」
 スティーブンの言葉に、エステヴィスはのっぺりとした笑みで「そうね」と答えた。退院はあっさりと終え、クラウスは眠ったまま病院からスティーブンの車に移される。
「酸素メーターとそれから、安定剤の薬もいくつか渡しておくわ。栄養は必ず、この注射器で一日三回入れてあげて。もし、点滴が可能ならそっちの方がいいかもしれないけど、貴方そういったことは?」
「多少知識にはあります」
「そう。まあ、牙狩りの人だもんね。なんとか出来るか」
「なんですか、その楽観視」
 苦笑するも、牙狩りだからと言われた意味をスティーブンは理解している。
 牙狩りは、その編成された部隊の中でいくつも役をこなさなければならない。医療知識も少なからず、スティーブンの頭にはあった。
「何かあれば必ず連絡をして」
「勿論です、ドクター」
 敢えて、そう強調した。彼女は笑みを零し見送ってくれる。それを尻目にスティーブンは上手く行ったとほくそ笑んだ。
 スティーブンが、この計画に至るまでの行動は実に早かった。
 まず、ギルベルトをどうにかする必要があったが、彼はクラウスの容態のために急遽ラインヘルツ家に呼び戻されることになった。実によく出来ていた。天が味方したのかと、思わず居もしない神に礼を述べたほどだ。期間は一週間ほどだと言っていたが果たしてどうなるかは分からない。
 『坊ちゃまをよろしくお願いします』そう頭を下げた彼に、スティーブンは上手く笑えていたのかどうか分からないでいた。
 KKに関しての筋書きはこうだ。遠地に飛んでもらった。急を要する救援が必要だと言う牙狩りの部隊にだ。なぜ今になって、と彼女はスティーブンを訝しんだが、メールにはKKもしくはスティーブンどちらかの救援をと記されていた。
 スティーブンは敢えて、最初「僕が行くよ」と笑った。「クラウスを頼むよ」とも言ったが、最終的に折れたのは優しい彼女の方だ。乱暴にブロンドの頭を掻きむしって、「私が行くわよ!」と叫んだのだ。
「今の顔、鏡で見た? アンタ、クラっちより死にそうな顔してるわよ。クラっちが起きた時にアンタが死んだなんて洒落にならないからね。いーい? 変な気起こさないで、しっかりクラっちのこと支えなさい」
 突き付けられた指先に、スティーブンは肩を竦める。そして今日の午後発のフライトでHLを発ったのだ。恐らく片付くのに二週間はかかるはずだ。なにせ、手回しはしてあるのだから。
 彼女の家族には申し訳ないことをしたが、スティーブンにとってもこの最たる機会を逃すわけにもいかなかった。
 車中の助手席で眠るクラウスの額をスティーブンはゆるりと撫でてやる。
「ごめんねクラウス。僕は今から君にひどいことをするんだ。きっと許されないと思っているし、許してくれなくたって別にいいんだ。僕はあの映画の最後のようになりたいんだから」
 誰にいうでもない。懺悔に似た声を、聴くものはいなかった。クラウスは未だ夢を見ているのか、呼吸はずっと穏やかで、この日のために着せた服はいつもとなんら変わらないライブラにいるリーダーだった。
 それでも空白の右がひらひらと座椅子の下に落ち、太もものふくらみだけがそこにはあった。
 スティーブンは、引出の奥に隠した宝物を思い出す。自分の好みは果たして、赤い髪の翠の目をした手足の無い身体だ。雑誌のグラビアだってぜんぶ手足を切り捨ててやったのを思い出す。
 クラウスの曲線美を思い描いて、含み笑う。肩から切り落とそうか、どこまで無いものにしようか。きっと小さくなったクラウスはずっとずっと掴みやすいはずだ。
 愛している、嘘じゃない。ただ少し、スティーブンの愛が屈折しているだけなのだ。許されない願いだとも、愚かだとも、よくよく分かっている。
 止める自制は今や無い。
 大丈夫、HLだ。もとに戻すことも容易い。なんのために病院があるのだと、そのための金だってあるのだ。スティーブンはけして何も出来ない弱者ではないのだから。
 だから、クラウス。ごめんね?
 ――少しだけ俺にも夢をみさせて。



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