058 目指す場所は遠く、深い




 黒い髪が、午後の緩やかな風に乗って踊った。今日は気がかりなことばかりが彼の胸を占めており、サッカーの練習に身が入らなかった。コーチに頭上から一喝入れられて、少しばかり気が滅入っていた。タオルを首から巻いて、顔をぶら下げる。友人たちの視線が彼を突き刺したが、彼は雰囲気でそれを牽制した。不調の理由など、触れてほしくなかった。
 あいつは大丈夫だろうか。1人で泣いてないだろうか。苛められてないだろうか。怪我してないだろうか。夜は眠れるのだろうか。寂しい思いをしていないだろうか。
 一つ上げれば、二つ、三つと心配の原因は溢れだしてくる。彼は、深くため息をついた。


(…あちぃ、)


 ずっとぶら下げていた頭が日の光によって暖まってしまったのか、首を汗が滴り落ちるのを感じて、ぼんやりと顔を上げる。最近は世界中で異常気象が続いており、それはこの日本も例外ではなかった。夏真っ盛りだというのに、時々天気が崩れ、冷やかな空気が肌を突き刺した日もあった。


「顔、洗おう」


 午後の練習が始まる前に、頭を冷やさなければ、またコーチに叱られてしまう。あのコーチはどなり声は半端なく大きく、少しでも近付こうものなら鼓膜が破れるくらいだ。それに、己の身勝手な問題で仲間に迷惑をかけてはいけない。ゆっくりと立ち上がり、彼は水道まで歩いて行った。


★ ★ ★




 栞は、ジリジリとした太陽の日差しに耐え切れなくなり、ゆっくりと目を開けた。ここは砂漠なのだから、太陽が照るのは仕方のないことだ。ぼんやりとする意識が覚醒したのは、栞の目の先に、見知った景色があったからだ。


「ここ、…っ!」


 バッと起き上がり、急いで立ち上がった。立ちくらみからか、くらりと足もとが揺れたが、壁に捕まることで倒れることはなかった。

―――…夢でも見ているのだろうか。むしろ、自分は夢を見ていたのだろうか。

 彼女が立っていた場所は、彼女にとってとても馴染み深い場所だった。ガヤガヤと群衆の声が辺りに響き、機械類が地面を駆け抜けて行く音も聞こえる。大きな建築物が犇めき、木々は先ほどまで見ていたものとは少し違った。


「…帰って、きたの?」


 そこは、彼女たちが終着点としていた『日本』であった。突然のことに、当然脳内はついていかず、戸惑う瞳をごまかすように一回目を瞑った。先ほどまで、確かに砂漠の中にいて、デジモンなるものと相対していて――目を開ける。それでも目の前の景色が薄れることはなくて、栞はじんわりと浮かんだ涙をこらえるために、唇を噛んだ。


「…そうだ、みんなは…」


 くるりとうしろを向いた。先ほどまでは、確実に後ろにいたことを記憶している。そこには無機質な建物やフェンスが連なっているだけで、そこから人の気配はするものの、彼女が『仲間』と呼べるものがいるかどうかは果たして分からなかった。空達はいない。太一もいない。イヴモンは。砂嵐のような突風が巻き起こった時は、腕の中に、否、自分を包み込むかのように存在していた真白い存在がいない。栞は最大限まで目を見開いた。ペンダントを握りしめ、小さく項垂れた。
 やはり、全てが夢だったのだろうか。キャンプに行ったことすら錯覚で、皆と仲間になれたことなど夢のまた夢―――どうしようもなく消沈する気持ちを何とか抑え、やがてペンダントを握りしめる手を緩めた。と、その時だった。ザ、ッと草を踏み分ける音が聞こえ、栞の気持ちは一気に高揚する。顔に満面の笑みを称え、急いで後ろを振り返った。


「イヴモ、」


 思えば、イヴモンは歩くことはしないから、草を分ける音が聞こえるはずはない。それを勘違いしたのは、やはり気持ちが消沈していたからだろう。栞は目を見開く。そして、目の前にいた人物も同じように目を見開いた。数秒の沈黙だけが、2人の間を行き交った。


「――栞?」


 彼はやがて口を開いた。その声は至極驚いているが、それよりも栞は溢れでた想いを止めることができなかった。ここに見覚えがあったのは恐らく来た事がある場所だったからだ。そしてその原因は、恐らく、彼についてきたからだ――「一馬!」と栞は居ても立ってもいられず彼に飛び付いた。見紛うわけもなくその人物の胸に飛び込む。彼の身体は硬直し、それでもやがては己の背へと手を回す。嗚呼、暖かい。ずっと求めていた家族の温もりに触れ、栞の目頭がカッと熱くなった。くぐもった声が布越しに聞こえ、彼はやっぱり戸惑った。

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