「…たのしかった」


 ぽつりと栞は空気の中へと言葉を投げ込んだ。それは先ほどの一馬と同じく何気なく呟いた言葉だった。鬱陶しいくらいに晴れ渡った空には雲ひとつ浮かんでいない。一馬は、栞のわずかな変化に気づいた。それは小学生ならば当たり前に抱く感情―仲間と一緒で楽しい。彼女には、それを抱くべき相手が、いなかった。しかし、彼女はそれを見つけた。恐らく、彼女自身は気づいていないが、話をしている間――楽しそうに笑っている節が見受けられた。


「…そっか」


 一馬は何も言わなかった。不器用な彼は何を言えばいいのか分からなかったし、それ以前に、彼女は何も欲していなかったことを理解したからだった。
 と、その時だった。遠くから、ピーッ!というけたたましいホイッスルの音が響き渡った。一馬は顔をあげ、眉を寄せる。―練習の再開の合図だった。


「栞、」
「…うん。練習、頑張って」
「ここで見てくか?」
「…うー…ん、と」


 家に帰るべきか、一馬の練習を見て行くべきか。先ほどからやけに静かなイヴモンに答えを仰ごうと顔を上に向けた時――その異変に気付いた。正確には、空、の異変に。


「な、に」
「…どうした?」


 足は既に練習場の方に向けられた一馬は、栞の小さな呟きに振り返る。彼女は、ただ目を開いたまま空を見上げていた。疑問に思い、ふ、と一馬も視線をあげた。真っ青な空。一筋の飛行機雲だけが、形を保ったまま残されていた。
 もう一度栞の方へと視線を向ける。――真っ青な、顔。震える身体。


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