残業は1時間もないが、それが毎日と続けば積もり積もっていくわけで。
 今日も仕事を途中で終わらせ、帰路に着く。コンビニに寄ってご褒美を与える余裕すらない。心も、財布も。
 心も体もヘトヘトで、しかし家に帰ればゴールではない。お風呂を沸かし、夕飯の支度をし、食べ、お風呂に入り、髪を乾かし、歯を磨く。そこまでして、ようやくゴールの布団に辿り着けるのだ。遠い。あまりに遠い。この先のことを思うだけで憂鬱だ。
 まあ、実際はお風呂はシャワーで済ませているし、ご飯も常備冷凍食品や卵かけご飯だったりするのだが。

 そんな中継地点、アパートへの階段を上ると、どこかのドアの前に人が座り込んでいた。痴話喧嘩だろうか、締め出しでも食らったのだろうか。
 騒がなければ私に害はないと、気にせず前を通り過ぎようとしたが、どうやらその人は私の家のドアの前に座り込んでいたようだった。何故。

 とりあえず関わらない方がいいか、いや家に入るのを見られるほうが問題だろうか、そんなことを悶々と考えながら、私は関わらないことを選び、青年を無視して家の鍵を開けようとした。
 その時。

「あ、おかえりなさい」

 待っていたと言わんばかりの、年単位で久しぶりに聴く出迎えの言葉。そんな言葉を掛けられるような関係性は県境を跨いだ所に住む家族くらいなのだが、どこか聞き覚えのある声で、座っていた青年は発した。
 怪しい、と思いながらも、すっくと立ち上がったその人に目を向ける。
 花の盛りを過ぎてしまった、そんなくたびれたOLの前に、私の青春の象徴とも言える彼は現れた。

「ここの家主さんですか? やっぱり、女性だったんですね」

 なぜ彼が。私は夢でも見ているのだろうか。
 夢だ。夢でないとおかしい。これは、私に都合のいい夢だ。

「木ノ瀬……梓くん……?」
「! 驚いた。僕のことを知っているんですか? もしかして貴方、僕のストーカーだったりします?」

 私の初恋の人が、当時と変わらぬ姿のまま私の前にいる。画面越しでなく、その場に存在している。一体どういうことだ。

「えっ、ちょ……っと待って、本当に梓くん? なんで? なんで梓くんがいるの? なにこれ、ドッキリ? コスプレ? ていうか、誰?」
「落ち着いてください。僕は木ノ瀬梓です。貴方は?」

 いや、いや、いや。そんなわけがないだろう。確かに目の前の少年は木ノ瀬梓くんだが。5cmヒールの私とそう背が変わらない。成長途中の男の子だ。これが梓くんの大きさだったのか。
 違う。そんなことは今はどうでもいい。目の前に、梓くんがいる。梓くん――木ノ瀬梓くんは、私が中学から高校にかけて、本気で好きになったキャラクターだ。いわゆる乙女向けの、こちら側に甘く囁きかけてくるCDやイケメン達と恋愛をするゲームのキャラクター。つまり、私は当時梓くんを本気で好きになったが、彼がこの世にいるわけがないのだ。彼がいない、と受け入れるのに高校生活を費やしたのだから間違いない。
 なぜ、今になって私の前に現れたのか。学生時代に出会っていたら良かったのに。

「あの、大丈夫ですか? 汗、すごいですけど」
「あ、ごめんなさい。ちょっと待って。えー、立ち話もなんだし、家に上がって……いや、カフェかファミレスでも行こうか」

 見ず知らず……というわけではないが、梓くんはこちらを知らないようだし、一方的に見知った学生を、男子高校生を、家に上げるのはまずいだろう。梓くんも家に上げられたら何をされるか、さすがに気が気じゃないと思う。外で制服を着た男の子と社会人のOLが一緒にいるのも問題あるかもしれないが、梓くんの安心と身の安全が第一だ。

「分かりました。あ、部屋の鍵開けっぱなしなので、閉めた方がいいと思います」
「え!?」

 ドアノブを捻ると、すんなりと開いてしまった。女の一人暮らし、親には厳重に注意されているので戸締りだけは徹底しているはず。なのに、何故開いている?
 梓くんは観察するようにこちらを見ている。梓くんが開けたのではない、のか?
 私は鍵を掛け、再度ドアノブを捻る。ドアノブはそのまま下りることなく、ガチリ、と抵抗を示した。

20200426
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