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「彼女はこの大学に数多いるバイオリニストの中でも天才と言われる部類にいた。
人目を惹き付ける、美しい女性だった。
俺には釣り合っていないと、よく周りが噂しているのを耳にするぐらいだ」


 東都音楽大学。日本が誇る名門音大の一つに名を連ねるこの大学の敷地内を練り歩くことになろうとはよもや思いもしなかった。よりにもよって、この幼い姿で。
 音大であればそれなりに院生が歩いていたりするものだし、年齢よりも若く見られやすい安室さんは目立ちはしないだろうが──彼自身の華やかさを省けばの話だ──コソコソと一々隠れながら通らなければならない此方の気持ちも考えてほしい。
 とは思いつつもこれを好機とばかりに、ポアロを出てからも強く携帯を握り締めたままの男に、誰かに恨まれるような心当たりはないのかと尋ねた所、冒頭の言葉が返ってきた。
「恨まれているとすれば、彼女と恋人になったことだ」というのが、男の見解だった。
 良くも悪くも平凡な男なので、他に恨まれる要素が見当たらないとのことだそうだ。
 しかし、自称と他称には往々にして違いがあるものじゃないか。


「お兄さんがいなくなったとしても、そのお姉さんが自分の物になるわけじゃないのにね」

「……そうだな」


 自然と反れていった目線を追いながら男の顔を見遣る。ただ単に自分に自信がないだけか、はたまた何か恋人を奪われてしまう要因となり得る事があるのか。
 とにかく今は、安室さんからの連絡無しには無闇に動けない。『その時』までは、どちらにしろこの男から目を離すわけにはいかないのだ。

 と、それまでぼんやりと空虚を眺めていた瞳と此方のそれが合致した。


「あの男、」

「安室さんのこと?」

「ああ。その安室という男だが、一人にして大丈夫なのか?
その男が彼女を助けてくれるんだろう?」


 正確に言えば巻き込まれた人々を、だと思うが。何しろ彼は正真正銘の警察官だ。
 無関係の人々が巻き込まれることを良しとするタイプの人間には思えない。例え今は、組織の人間として切り捨てるべきを切り捨てるという思考を中心に動いているとしても。
 そう、彼が組織に所属しているということが今何よりもネックとなっていた。 恐らく彼は今、一人で動いてなどいない。
 先程大学の前で別れた時、一瞬見えた人影は、彼の昔の依頼人を名乗る女性──篠宮千歳という女だ。音大に通っている知り合いなど、目下当たりを付けるとすれば彼女しかいない。
 潜入捜査中に関われる人間などそう多くはない筈だから、間違いないだろう。
 彼と関わりを持っているということが、彼女をただの一般人と見るか否かを酷く曖昧にさせていた。先入観は捨てなければいけない。
 あの組織と戦う為には──白か黒か、はっきりさせなければ。

 グッと唇を噛み締めて反芻していた思考は、何かの異変に気付いた男の焦りを含んだ声によって掻き消された。


「おい、何か臭わないか?」

「え? ……煙の臭い、」


 微かに香る煙たさに周囲を窺うと、それがとある一室から漏れ出ている煙に拠るものだと理解出来た。
 安室さんからの合図はまだだ。
 躊躇した此方の動きに焦れた男が、先走るように部屋の扉に駆け寄って行く。
 こうなれば一人立ち止まっている理由など有る筈もなく、男を引き留めるために伸ばした腕は、そのまま男の行方を追うためにドアノブへと掛けられた。





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