◆◇ 一
困った。
「千歳さん、休日は何をされていますか?
もし良かったら次の日曜日に、」
非常に困った。
年齢のわりに随分しっかりとした口説き文句を述べる目の前の男に微笑みを返しつつ、内心この事態をどう処理すべきか頭を悩ましていた。
事の発端は三日前に遡る。
お風呂上がりに自室で過ごしていると、襖の奥から住み込みで働いている家政婦の一人が声を掛けてきた。長く居着いている上でわたしの私室の前を行き来するのはあまり好ましいことではないと彼女は知っている。
そうでなくても夜半である、一体何用だろうと首を傾げていると、遠慮がちな細い声が、奥さまがお呼びであるとの旨を告げた。
この家において『奥様』とは、自身の継母である篠宮千冬(ちふゆ)を指す他にない。
そうして、この時間に彼女がわたしを呼び立てることはとても珍しいことではあった。
少々の動揺は隠しつつすぐに向かう意を伝えると、寝巻きとして使用している浴衣を整え羽織を羽織って髪を結わえてから、言葉通りに継母の部屋へと向かう。
「失礼致します。千冬さん、千歳ですが、入ってもよろしいでしょうか」
丁寧に声を掛け返答を待つと、ややあって「どうぞ」との答えが返ってきた為、正座のまま三手で襖を開け、一礼する。
継母である千冬は、礼儀作法や身嗜みに人一倍厳しかった。後妻としてこの家に入ったのも、警察官の娘であり厳しく育てられた名家の御息女であった為と聞く。
どこの馬の骨とも知らぬと言われながら嫁に入った実母が若くして死んだ時、出世を期待された警察官である父と幼い娘とでは何かと不安があるとの親戚の声によって行われた最初の見合いで、父はこの人との結婚を決めた。
随分早計ではないかとの声は、彼女の家柄と彼女自身の気立てによってすぐに収まった。
以来、父が死んで後もこの家はこの人を中心に回っている。
「夜分に突然お呼びしてすみません。
お茶でも入れましょうか」
「いえ、もう少ししたら床に入りますので。
お気遣いいただきありがとうございます。
それで、御用件とは?」
千の冬を越えた先にある白く深い雪のように、静やかで、凛とした佇まいの女性であった。年を重ねてもなお輝きの衰えない、美しい人であった。
残念ながらこの人の血が一滴も入っていないわたしは当然この人に似ることもなく、わたしを産んだ後すぐに亡くなった実母──目の前の女性とは似ても似つかない正反対の女性であった、というのは親戚の声だ──に、どうやらとても似ているらしかった。
年を重ねるにつれまるで生き写しのようだ言われることが増えてきた程だ。
そんなことをぼんやり考えていると、涼やかな瞳が此方を捉えた為、つい癖で姿勢を正した。別に元から崩れていたわけでもない為、口元に笑みを湛えたその人を前に少しの気恥ずかしさを覚える。
「実は、三日後の花展に貴方も是非にと知己の方に頼まれまして。
急な話ですから無理にとは言いませんが、もし他に用事が無いのであれば、よろしければ貴方もいらっしゃらないかと思って」
もう少しお早くお話を頂いていれば貴方の生けたお花も見ていただけたのに、と残念そうに頬に手をあてる継母に薄らと冷や汗をかく。
華道の師範をも務めるこの人は、未だに華の道へ進ませるのを諦めていないのではないかと思わせる節があった。
今でも趣味の一環として花を生けることはあるが、音大に入り本格的に音楽の道を歩み始めて後は、どちらかといえばピアノに重きを置いた生活をしている。それに異を唱えられることはもうないが、それでも時々、
「たまにはお花のお稽古も」と溢すことがあるくらいだ。
もし仮に花展で花を生けて、それが少しでも評価されようものなら、その勢いに拍車が掛かるのは火を見るより明らかだ。
唐突にお話をいただいたことには少し驚いたが、その方には前もって話を通さずにいてくださったことにお礼を申し上げたいくらいであった。
「それで、如何です?
何やら会わせたい方がいる、とも仰っていましたが」
「会わせたい方?」
一体何処のご婦人だろうか、まあ精々挨拶を交わすくらいだろうし別に問題はないかな、なんて考えていたのが甘かった。
あの時是と答えてしまった自分を心底悔いている。ご婦人どころか貴公子然とした男が目の前に座っている現実に目を逸らしたい気持ちでいっぱいである。
どうやら継母の知己の女性が会わせたい方というのは爽やかな微笑みを浮かべる此方の青年のことであるようだった。
同じ流派の宗家の跡継ぎ息子であり、最近名が売れてきた華道家──御村鷹也(みむら たかなり)、高校三年生だ。
色素の薄い髪と瞳を持つ甘いマスクがご婦人方に人気の、所謂イケメンである。
その次期家元候補の年下イケメン華道家に何がどうしてこうなったのか、とても口説かれている。
「鷹也さんったら、ずっと千歳さんのお話ばかりで!
お会いするのをとても楽しみにされていたんですよ?」
「そ、その話はいいじゃないですか!」
茶を淹れがてら茶々を入れにきたご婦人の話を頬を染めて遮ったかと思えば、此方に目を合わせてはにかむ現役高校生の眼差しの熱に、思わず遠い目をしてしまったのは仕方のないことだと思う。
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