「羽宮くん、近くで見れば見るほどヤバくない?モデルみたい」
 まぁでも私は場地くんがタイプかな、落ち着いてるし硬派で一途そう、と顔面に粉を叩いてリップを塗る友人を尻目に、無心でカコカコカコと洗面台に取り付けられたハンドソープを押し出す。そりゃもう、無心に。
 お手洗いに行くと席を立った友人にへばりついてきたのは、化粧直しをするためなんかじゃない。ただ一秒でも長くあの場から離れたかっただけだ。
「あんたが誰狙いか当ててあげようか?」
「誰も狙ってないけど」
「ズバリ、松野くん」
「強いて言うなら羽宮くんかな」
「え、うそ、絶対松野くんだと思った。モロタイプじゃん、ああいうマッシュヘアの童顔」
 最近別れた彼氏もあんな感じじゃなかったっけ?と首を捻って斜め上を見る友人に薄ら笑いを向ける。そうそう、最近彼氏と別れたばっかりだから、しばらくは彼氏はいらないって思ってた。合コンなんて乗り気じゃなかったんだ、決して。人数足りないって嘆くから渋々来てあげただけだし。
「こないだの人、なんで別れたの?」
「なんか思ってたのと違った。優しいんだけど頼りないっていうか」
「いつもそれじゃん。自分が甘えたいなら可愛い系じゃなくてさ、もっと男らしい人にすればいいのに」
 はい、ごもっとも。ショルダーバッグから取り出したハンカチで必要以上に手を拭う。別に、可愛い顔をした男が好きな訳じゃない。

「あ、おかえり。席替えしたよー」
 席に残っていたもう一人の友人にパチンとウインクを飛ばされて、思わずヒクリと頬が引き攣った。アンタのタイプは分かってる、任せろ、とでも言いたげな顔だった。そんな気遣いは今、全くもって不要である。
 ウインクをした友人は場地くんの隣、目の前に羽宮くん。『落としたい男とご飯に行くならカウンター席かテーブル席か』そんなくだらない論争を以前にした時、迷う事なくテーブル席だと答えてたっけ。正面から見つめて落とす、らしい。つまりは羽宮くん狙い。それは私の獲物に手を出すなという牽制でもある。
 それでその時、今一緒に席を立っていた友人はと言えば「いやいや、カウンター席でしょ。横並びの方が距離近いし、たまに目を合わせる方がドキドキするんだって」とかなんとか。だからきっと空いている場地くんの反対側、を狙うはず。すると私はどうなる。咄嗟に場地くんの隣に座ろうとするも、一足早くそのポジションを陣取られて絶望した。
「……………」
 こうなればもう、場地くんの正面。残りの男二人の間しか残されていない。どうしてこんなことに、と己の行動を省みたって仕方ない。本当にただの偶然なのだから。
 ジィッと私の様子を伺うように見上げてくる淡青色の猫目は、記憶の片隅に残る色形そのままだ。合コンに来たら学生時代の元カレがいた。
(………最悪)
 こんなの予測できないから回避不能じゃん。

『ねぇ聞いて、この間駅前にめちゃくちゃ格好良い人いたから逆ナンしちゃってさ。なんと、連絡先聞けちゃいました!』
 友人がそんな浮ついたメッセージを投下してきたのが数日前。二人で遊べば良いのものを「緊張するから何人かで」と言い出した時は本当に訳が分からなかった。
 ゆったり緩慢な動きで席に着いて、チラリと右隣に座る羽宮くんの横顔を盗み見る。なるほど、確かにいきなり二人で並んで歩くにはハードル高めかも。友人は勢いで声を掛けたものの、まさか本当に連絡先を貰えると思っていなかったらしい。尻込みしてしまったのか、微かにでも可能性があるならと慎重コースに方向転換したのか。

「羽宮くんのピアス可愛いですね」
 研ぎ澄ました意識は左隣に向けながらも、他所行きの笑みを羽宮くんの方へと向ける。あんたはこっちじゃないでしょ、とでも言いたげな訝しげな目が正面から私を刺した。通常なら友人の肩を持つだろうが、今ばかりはそうも言ってられない。
 だってだって、気まずい以外の何ものでもないのだ。

 付き合っていた当時、私たちは高校生。別れの理由は今でもハッキリ覚えている。帰宅部だった松野くんと、男子バレー部のマネージャーをしていた私。部員に告白されたと伝えてしまったのがキッカケ。
『ちゃんと千冬と付き合ってるからって断ったよ』
『オマエも思わせぶりしてたんじゃねぇの』
『はぁ?するわけないじゃん』
『じゃねぇと彼氏いるの分かってて告らねぇだろ』
『知らないよそんなの』
『部活やめて欲しいんだけど』
『なんでそうなるの』
『やめてくんねぇなら別れるから』
 マネージャーとか男にチヤホヤされたくてやってるだけだろ、その言葉がトドメだった。そんな浮ついた気持ちで続けられるほどマネージャーの仕事は楽じゃない。あと、そう、中学時代に膝を痛めたせいでプレイヤーとして部活に参加することを泣く泣く諦めた私に対して、それは一番言ってはいけない言葉だった。松野くんは地雷を踏んだのだ。
『あっそ、いいよ』
『え?』
『クラスの男子と喋ってるだけで不機嫌になるのとか、正直面倒くさいなって思ってたし』
 制御しきれない怒りは思ってもない言葉を口から吐き出させた。松野くんが傷付いた顔をしたことなんて、その時の私はどうでもよかった。だって先に侮辱されたのは私の方。
『別れよ』
『マジで言ってる?』
『やめないなら別れるって言ったのはそっちじゃん』
『…ごめん。勢いで言っちまったっただけで本気で別れたいとか思ってない』
『勢いでも言っていい事と悪い事があるでしょ。いいよもう、部活やめろとかさすがに重すぎだし。千冬とは別れる、別れて』
 拒絶も同意も受け取らないまま私はその場から立ち去った。松野くんの嫉妬を煩わしく思ったことなんて本当は一度足りとも無い。けれど一生懸命やっていた部活を"男にチヤホヤされたくてやってる"と言われたのが心底腹立たしくて、当時の私はどうしても許せなかっただけ。
 それから電話もメールも全部着信拒否にしたし、学校で喋りかけてきても徹底的にスルーした。そんな状態が数ヶ月続けば、さすがの松野くんも諦めたらしい。以後、卒業まで目が合うこともなかった。本当にそれっきり。だからあれから7、8年経過して今更話すことなんて何もないし、顔を合わせるのすら気まずい。

「羽宮くんのピアス可愛いですね」
「いいだろ、これ。千冬にはうるせぇってキレられるんだけど」
「へぇ〜…」
「ちょっと一虎くん、余計なこと言わないでくださいよ」
 近くで聞こえた声は記憶の中よりもワントーン低い。眩しいぐらいに輝いていた金髪も今や漆黒に染められている。落ち着いた敬語も相まってまるで別人のよう。別人だと思えばいいのでは、と自らを洗脳して何とかなるものだろうか。
 店に着いて目が合った瞬間、松野くんは目を丸めて何かを言いかけたけれど、私がそれをすかさず制した。「初めまして」そう言ってしまえばもう相手になす術はない。
「ビール3つください」
 呼び付けた店員に三本指を立てた友人がチラリと私の手元にある空のグラスを見やる。
「私は烏龍茶で」
「あと、烏龍茶も一つください」
 かしこまりました、と頭を軽く下げた学生アルバイトはハンディーを打ちながら店の奥へと消えていった。
「酒あんまり飲めねぇの?」
 左隣からした声に息を飲む。
「はい、得意じゃなくて」
 嘘だ。本当は生が飲みたい。でも今この場で酒なんか飲んでみろ。酔っ払って余計な事を口走ってボロが出るかもしれない。そこで会話を終わらせたかったけど今は初対面の体。人見知りでもない私が必要以上に愛想のない態度を取るのは返って不自然だろうと、必死に続きの言葉を探した。
「松野くんだってさっきからソフドリしか飲んでないじゃないですか」
 ちゃんと目を見て言葉を返すと、松野くんは「あー…」と手に持つグラスに視線を落とした。
「オレは明日仕事が朝早ぇから」
「意外とちゃんとしてるんですね」
 金髪ピアスで不良染みていた松野くんがちゃんとした社会人になっている。失礼ながらそんな事を思ってしまった。
「なんだよ、意外とって」
「え…あ、はは…失礼でした。すみません」
 何か言いたげな顔をする松野くんから逃れて、結局私は羽宮くんと友人の会話に混ざる。場地くんは強面な割に優しく人当たりがいいのか、もう一人の友人とすっかり打ち解けていた。二人で会話が盛り上がっているから、私の逃げ場はもう始終つれない態度の羽宮くんしかないのだ。

「なにそいつ、ヤベェやつじゃん」
「でしょ?それでさ———」
 二人の会話に特に口を挟む事もなく笑顔を貼り付けてうんうんと頷いていると、テーブルの下で膝をちょんとつつかれる。犯人は左隣の松野くん。どきりと跳ねた心臓を押さえつけて、「どうかしましたか」と振り返ると、サッとスマホの画面を見せられる。
『あからさますぎ、不自然』
 メモ帳に打ち込まれた文章を黙読して、うっと言葉に詰まった。手を引っ込めた松野くんはまたスマホに何か文字を打ち込んでいく。
『このあと時間ある?』
「え?」
 驚きのあまり思わず声が出てしまった。口を半開きにしたまま固まっているとスマホを手に持たされる。返事を打て、ということらしい。私達のことなんて誰も気にかけてなどいないのに、キョロキョロと周囲を警戒しつつ震える指先でキーボードを叩く。
『なんで』
 返事はつれないたった一言。
『二人きりで話したいから』
 松野くんの返事は直球の一言。戸惑いを隠せずに挙動不審になっていると、追加の一文が目の前に晒される。
『もしかして今彼氏いる?』
 たしかに、合コンに来る人がみんなフリーってわけじゃない。恋人がいても人数合わせだと友達付き合いで渋々行く人もいるし、その存在を隠して意気揚々と赴く下衆な人もいる。
 ここで彼氏がいるって嘘ついたら、松野くんはどう思うだろう。彼氏がいるのに合コンに行く節操のない女だと思われるかもしれない。「オマエも思わせぶりしてたんじゃねぇの」別れ際に言われた台詞を思い返して、微かな苛立ちが芽を出した。
『彼氏いないよ』
 別に、いないってことを伝えなかった訳じゃない。やっぱりそういう人間なんだって思われたくないかっただけ。ただの薄っぺらなプライド。
 文字を打ち込んでスマホを返したら、松野くんは安堵したようにホッと息を吐く。彼氏持ちって知らずに誘ったら後が怖いもんね。
『じゃあ友達と解散した後、この店の前集合で』
 あれ、私いいよって返事したっけ。にかっ、と有無を言わせぬ眩しい笑顔を向けられて脱力する。そうだった。松野くんは優しいけれど強引で、あと意外と人の話を聞かない人だった。 


「この後羽宮くん誘わなくて良かったの?」
「がっつき過ぎたら引かれそうだし」
「あははっ、ガチじゃん。で、アンタは?」
 居酒屋が連なり賑わう通りの先をぼぅっと見つめて上の空。突然肩に手を乗せられて心臓が飛び跳ねる。ごめん聞いてなかった、と正直に告げたら友人はニヤァと口角を吊り上げた。
「松野くんとこの後飲み直さないの?」
「え、なんで松野くん?」
「ずっと二人で携帯見てイチャイチャしてたじゃん」
「し、してないし。あれは…えっと、そうペット。ペットの写真見せてもらってた」
「へぇ〜」
「本当に違うんだって。連絡先も交換してないし、」
 そうだ。私、松野くんの連絡先知らない。だったらこのまま店に戻らずにバックれたって問題ないじゃん。合コンで奇跡的にエンカウントしてしまっただけで、普通に暮らしてればもう二度と会うことなんてないだろうし。
「なーんだ。じゃあ今から三人で二軒目行こうよ。反省会!」
 いいねいいね、と盛り上がる友人二人の隣で一人頭を悩ませる。友達と解散したら、って言ってた。二軒目行くからまだ解散してないし。ていうかそもそも、私は誘いにOKしてないし。松野くんが勝手にそう決めただけ。
 結局その後、二軒目で話が尽きずに三軒目。キャッチのお兄さんに紹介されたアンティーク調の居酒屋が思いの外居心地良くて、気付けば時刻は終電間近になっていた。さすがに松野くんももう待ってはいないだろう。仕方ない、解散するのが遅くなったんだし。すっぽかした訳じゃない。
「場地くん、絶対誰にでも優しいタイプだよ〜」
「まだ言ってんの?連絡先聞いて断られたんだからもう諦めなよ。ていうか待って、私終電やばい」
 飲み屋から撤退した人達は皆、駅に向かう足取りが忙しない。今来た通りを振り返ると店の明かりはまばらで、つい数時間前まで往来していた人間はほとんど姿を消している。
「……………」
「やばいやばい、あと五分!」
「走る?」
「うわぁ、酔い回りそう。でも走らないと間に合わ」
「ごめん、さっきの店にスマホ忘れた」
 ええ!?と叫んだ友人二人に「先帰ってて!おつかれ!」と元気に別れを告げて、来た道を舞い戻る。ええ!?と叫びたいのは私の方だ。意思に反して身体が勝手に動くから、どうしたらいいのか分からない。斜めがけのバックからスマホを取り出して地図アプリを開く。店の場所を確認して、ぱたぱたと不恰好な音を立てながらパンプスで駆けた。

「はぁ…っ、はっ、はぁ…」
 必死に酸素を取り込んで、吐き出して、肩をぜぇぜぇと揺らす。店の前で一人座り込んでいた男に言いたい事は山ほどあるのに、呼吸が乱れて言葉が上手く吐き出せない。額から汗を垂らして満身創痍。そんな女の姿を見上げて、松野くんはポカンと口を開けている。
「なんで、いるの」
「なんでって、約束しただろ」
「もう終電ないよ」
「タク使えば何とかなるし」
 そういう問題じゃない。一軒目の店を出たのは確か20時頃だった。今はもう0時過ぎなんですけど。待ってたの?ずっと?
「すっぽかされたって思わなかったの」
「正直思ったけど」
 ゆっくりと立ち上がった松野くんは凝り固まった身体をぐぅっと伸ばした後、「でも来たじゃん」と嬉しそうに目尻を垂れる。呆然と佇む私に構わずどこかへ歩みを進めた。
 広い表通りから細い裏道へ。そこを抜けた先、三階建ての古びた雑居ビルの前で松野くんは立ち止まった。「ここの地下」それだけ告げて狭い階段を降りていく。辿り着いたのはカウンター席が6個しかない隠れ家のような小さなバーだった。カウンターの中でワイングラスを磨く四十代ぐらいの男性が「いらっしゃいませ」と上品な笑みを見せる。私達以外の客は、奥の席に若い夫婦が一組。
「何飲む?」
 席につくなり松野くんにドリンクのメニュー表を手渡される。
「………モスコミュールで」
 じとっ、と疑念の篭った眼差しを向けられてそっぽを向いた。モスコミュールとシャンディガフ下さい、とマスターに告げた松野くんはメニュー表を傍に寄せてすぐさま核心に迫る。
「酒苦手なんじゃねぇの」
 それ嘘です、とは言えない。だってこんな小洒落たバーに来て烏龍茶はないでしょ、さすがにさ。
「まぁ、少しぐらいなら」
「誤魔化すならもっと甘い酒にすりゃいいのに」
 嘘はまんまと見抜かれているらしい。カシオレはたまたカルーアミルク。その辺りにすれば良かったと後悔したところで今更だった。普通に今自分が飲みたい酒を選んでしまったのは間抜けだ。
「松野くん、こういう店来るの意外」
「普段は全く来ねぇけど…ここは前に一回だけ来たことがあって」
「へぇ、元カノと…とか、」
 すぐに失言だと気付いて黒目をふよふよと彷徨わせる。いやでも絶対そうじゃん。男二人でこんな良い感じのバー来ないもん。いや来る人もいるかもしれないけど、松野くんもその友達も多分そういう感じじゃないし。
「まぁ…うん」
 何だか煮え切らない返事。松野くんはコースターの上にのせられたグラスを掴んで、シャンディガフを一口喉に通した。その横顔は当然だけど、私が知るよりも何十倍と大人びている。落ち着いた黒髪からは妖艶さすら感じられた。店の薄暗い照明のせいかもしれない。
「明日仕事早いんじゃないの?」
 こんなに遅くまで大丈夫?と尋ねると松野くんは少し口をまごつかせた後、ぼそりと呟く。
「あー…あれウソ」
「え、なんでそんなウソつくの」
「酒飲んだらボロ出すと思って自制してただけ」
 まさか、同じことを考えてたとは。話を深掘りすることなく「そう」と雑な相槌を打ってグラスの縁に口を付ける。そのせいか会話が止まって不自然な間が出来た。
「あのさ、そんなに嫌だった?」
「え?」
「友達にオレが元カレだって思われんの」
 困ったような傷ついたような、その形容し難い表情は最後別れ際に見た幼い松野くんとリンクする。言葉が喉の奥につっかえて困惑していると、松野くんはすぐにその表情を引っ込めた。
「今思えば高校生ってすげぇガキだよな。ガキ同士の恋愛だし、あんなの付き合ったうちに入んねぇか」
 そうだね。松野くんはちゃんと年相応の"ガキ"だったよ。独占欲剥き出して余裕の欠片も無くてさ、感情のままに別れの言葉を吐き捨てて後戻り出来なくなって。
「松野くんが私と二人きりで話したかったことって、それ?」
 後戻り、出来なくなったのはどっちだろう。
「付き合ったうちに入らないとか、今更わざわざそんなことを言うために誘ったの」
 子供なりにも未熟なりにも、私は真剣に付き合ってるつもりだった。歳を重ねるごとに大人になるたびに、あの頃を思い返して「もっと上手くやれたんじゃないか」って後悔するぐらいには。
「いや、そういうわけじゃ」
「そんなこと聞かされるなら、来なきゃよかった」
 本当は三年生になって部活を引退する頃にはもう後悔してた。一方的に別れを告げたことも無視したことも素直に謝れば良かったのに、二の足を踏んで後戻り出来なくなっていたのは私の方だ。そうして出来上がった不完全燃焼の恋が未だに尾を引いていることなんて、恥ずかしくて誰にも言えやしない。
「帰る」
 財布から千円札を抜き取ってカウンターに置く。狭い店内で会話は全て筒抜けだったのか、気まずそうな顔をしたマスターに軽く会釈をして店の入口に向かった。扉を押し開けるとカランと虚しい音が鳴る。
(タクシー…大通りまで出ないと)
 暗闇の中、目を凝らして周囲を見渡すも私はただ松野くんに着いてきただけだから現在地が分からない。案の定、どっちの方向へ進むべきか悩んでる間に追って店から出てきた松野くんに捕まってしまった。
「待って…!」
「大通りってどっちだっけ?松野くんもタクシー拾うでしょ」
「わりぃ、さっきの」
「道教えてよ」
 つい数十分前まで高鳴っていた胸の鼓動はすっかりなりを潜めて、その代わりに驚くほど平坦な声が出る。青ざめて黙り込む松野くんに苛立ちが募って、「こっちでいい?」と適当な方向へ足を踏み出した。松野くんは慌てて私の後をついてくる。
「付き合ったうちに入んねーとか思ってない」
「どっちでもいいよ、もう」
「そんなこと言うなよ」
「だって昔の話じゃん」
 どの口が言う。その過去を引き摺り倒してるのは他でも無い自分のくせに。似たような男ばかり選んで、付き合っては別れてを繰り返して。私はそう、別に可愛い顔をした男が好きな訳じゃない。
「………っ、離し」
 掴まれた手を感情のままに振り解こうとして、はたと思う。また、同じような事してる。ここで素直にならならかったら、それこそ後生後悔する羽目になるかもしれない。言い知れぬ恐怖に襲われて背筋がピンと凍りつく。
「……松野く」
「オレが話したかったのはそんなことじゃなくて、」
 松野くんはもう情けない顔をしていなかった。何らか覚悟を決めているのか、淡青色の瞳は力強い光を灯している。あれから大人になったのは松野くんだけなのだろうか。
「ずっと、後悔してる」
 上擦った声は微かに震えていた。一度本音を吐き出してしまったら、あとは決壊したダムのように勢いよく流れ落ちるだけ。
「子供だったから仕方ないって割り切れない。私があの時もっと大人になってたら、素直になれてたら、もっと違う結果になってたんじゃないかって、今でもずっと、後悔してて」
 目の奥から水分が迫り上がってくるのを自覚して、必死に奥歯を噛み締めた。松野くんの顔は見れない。
「あれから誰のことも本気で好きになれない」
 そんな事を松野くんに言ったところでいい迷惑。居た堪れなさから深く深く俯いて、そうすると滲んだ涙が真っ直ぐに落ちていく。アスファルトにぽつぽつと斑点を作っていた。
「顔あげて」
「むり」
「できねぇならオレが無理矢理あげさせるけど」
 横暴な台詞とは裏腹に、鼓膜に擦り付いた低音は充分すぎるほどの優しさを孕んでいる。数回しゃくりあげたところで、頬に触れてきた手が私の顔をゆっくりと持ち上げた。
「泣き虫、まだ治ってねぇの」
 泣き虫じゃない。家族以外なら松野くんの前でしか泣かない。
「普段は泣かないし」
「強がり」
 私の頬にこびり付いた涙を親指で拭った松野くんは「スマホ貸して」と右手を差し出してくる。ふぐ、と汚い嗚咽を漏らして訳も分からぬまま、バックから取り出したそれを松野くんの手に乗せた。
「……彼氏いないはウソじゃねぇよな?」
「ほんと」
「じゃあこれなに」
 白く発光する画面が眩しくて目を細める。待ち受け画面、数日前に別れたばかりの元カレとのツーショット。どうでもよすぎて変えるの忘れてた。あー、それは…と苦い顔を晒したら、松野くんは「まぁ別に彼氏いても関係ねぇけど」と再び私のスマホを弄り出す。関係ない、その一言で元カレだと弁明する気力は瞬時に削がれてしまった。
「また連絡する。今日はもう家まで送るから」
 また、ってなに。不思議に思いながら戻ってきた四角い板を覗き込むと、電話帳の中には松野くんの名前と携帯番号。たった今、発信履歴が一件。
「ちゃんと電話出ろよ」
「……はい」
「着拒否とか、」
「しないよ」
 すぐ連絡するから、と釘を刺した松野くんは私の手を引いて歩き出す。深夜二時、閑散とした通りは街灯の光すらも失くして漆黒に包まれている。雲間から漏れる妖しい月明かりだけが私達を照らしていた。
「ねぇ、松野くん」
「あとそれ」
 どうして今日私を誘ったの、と続くはずの言葉は遮られてしまう。
「変な感じするからやめて」
「それってなに」
「名前、松野くんなんて呼んだことなかったじゃん」
 確かに付き合う前は苗字呼びだったけど、君付けはしてなかったかも。
「じゃあ、松野」
「……………」
「なに」
 スンッと据わった半目が頭一つ分上から見下ろしてくる。人間を馬鹿にする猫みたいな目だ。松野くんはハァと息を吐き出して、それなら別に松野くんでもいい、と匙を投げたように呟いた。
「そういや、身長ちょっと伸びたね」
「ちょっとは余計」
 くすりと笑みを溢したら、握られた手にギュッと力が篭る。たっぷり三分、脳内で葛藤を繰り返したその結果。私はほんの少しの勇気を振り絞って、一方的に掴まれた手をくるりとひっくり返した。手のひら同士を重ね合わせると、隣を歩く肩がぴくりと分かりやすく反応する。でも振り払われたりしないから、駄目なわけじゃないらしい。
「……こんなに手小さかったっけ」
「千冬が大きくなっただけ」
 そこから松野くんは何も言わなかった。一瞬だけ、月明かりに照らされて明るみになった端正な横顔。その目尻がほんのりと赤みを帯びていたのは、恐らく私の都合の良い幻覚だ。




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