Case3 リップ封印事件
彼女は滅多に怒りの感情を表に出さない。というか、本気で怒ることがない。それはオレの前に限った話ではなく誰に対してもそうで、例えばどんな理不尽にあっても相手の立場に立って想像を無理に膨らませて、その理不尽さを擁護した上、自分にも非があったと己を顧みる。そこまでくると、人にとことん優しいところは彼女の一等良いところでありながら、悪いところでもあるんじゃないかとオレは思っている。
まぁつまり何が言いたいかと言うと、そんな聖母のような彼女を怒らせてしまうには、誰が見ても明白に悪意を感じられるような、彼女の心を深く抉って傷付けてしまうような確固たる何かがなければあり得ない。
「触らないで」
そしてオレは今、オレ自身がそれに直面している。
仕事を終えて帰宅した時から、彼女は少し様子がおかしかった。いつもなら玄関まで駆けてきて「おかえり」って花開いた笑顔で帰りを迎えてくれるし、夜ご飯を食べる時は今日一日に起こった出来事を楽しそうに語ってくれる。それが今日は全くない。美味しくて勿体無いからと、そんな可愛い理由でゆっくりご飯を堪能する彼女が、駆け足で食事を済ませて風呂へ直行した。そしてその後、風呂から寝室へ直行した。帰宅してから交わした会話なんて数えられるほど。
初めは体調が悪いのかと心配したけど、ご飯を全て平らげているのを見ればそうでもないらしい。あからさまな異変に動揺して何も出来ずにいたけれど、ダブルベットの隅で丸まった肩を恐る恐るつついた時、底冷えた感情のない声が薄暗い寝室に響いて、初めてそこで彼女が怒りのサインを出していることに気が付いた。
「そんな言い方しなくていいだろ」
「…………」
「なんかあった?」
「千冬くんやだ、あっちいって」
普段が余りにも甘ったるくて優しいだけに、酷い暴言でも何でもないのに、その一言で深く胸を貫かれてオレは放心する。彼女が怒っているところなんて今まで一度たりとも見た事がないから、どう対処して良いのか分からない。それにどうやら、怒りの矛先はオレに向いているらしい。恐ろしいことに、なんの、なんの心当たりもない。けれど彼女が怒るなら、よっぽどの事だろうし、多分そっとしておく方がいい。明日になったら「昨日はごめんね、実は…」そうやって打ち明けてくれるかもしれない。
気を遣ってその日はリビングのソファで寝た。彼女と同棲を始めて1年半、別々に寝たのは初めてで、狭いし固いし、彼女がいなくて寒いし、寒くて、結局中々寝付けなかった。深夜、壁にかけた白い時計の針の音だけがカチカチと静かに鳴って、オレの不安を煽っていた。
♢
「はよ」
「おはよう」
「……なぁ」
「どうしたの」
なんで目合わせてくんねぇの、とか聞いたところで、まだ怒ってるから意外に理由がないだろ。結局一晩経っても彼女の態度は変わらず。怒りの根源が過干渉する事で火に油を注ぐことは避けたいし。なんでもねぇ、と自分でも驚くほどか細い声を出して家を後にした。情けねぇ。
あの日、朝まではいつも通りだったのに。全く心当たりがないなら普通は「オレが一体何をしたんだ」と抗議の声を上げるのだろうか。彼女の気を逆撫でする気しかしなくて、そんな恐ろしいことできやしない。出勤してすぐ、寝不足で疲弊した顔を一虎くんに見られて「朝まで盛り上がりすぎだろ」って茶化されたけど、違う、逆だ、死ぬほど盛り下がってる、と脳内サイレントで言葉を返した。必要以上に声を発することも惜しいぐらい、気分は降下している。
そしてその日の夜、オレは更に心を砕かれることになる。二日連続でテレビの音だけがこだまする静かな夕食の時間。また駆け足でご飯を平らげた彼女はそっと箸を箸置きに置いて、ゆっくりとオレを見た。
「千冬くん」
「ん、なに」
「私、しばらく実家に帰るね」
カラン、と何かが音を立てて落ちる。オレの手からすり抜けた箸が床に転がっていた。彼女がお揃いにしようって選んでくれた、持ち手に猫のキャラクターが描かれた子供みたいな箸。なんで、とか聞くのはやっぱり恐ろしくて、意味もなく空になった彼女の茶碗を見つめて、それで。
「しばらくって…いつまで?」
「分かんない」
「戻って、くんの」
「分かんない」
理由も言わずに勝手なことを言うなよ、ちゃんと二人で話し合うことが先だろ、分からないとか無責任すぎだし、彼女を責め立てる言葉が喉から出かかっては腹の底に沈んで消えていく。もしかして、オレが何かやらかしたとかじゃなくて、普通に気持ちが冷めたから態度が変わっただけで、仲直りとかそんな次元の話じゃなかったりする?心当たりはなくとも浮かんだ一つの可能性は最も最悪のパターンだった。
「連絡は…?」
「それも、しばらくはちょっと」
「そっか」
分かった、と震えて上擦った声が舌から滑り落ちる。いや、分かっちゃダメだろ。火に油を注ぐ可能性があったとしても、このまま黙って彼女を送り出したら、本当にもう元に戻れなくなるかもしれないのに。それでも彼女に嫌われてしまう恐怖と、縋り付くのは情けないなんてチープなプライドが邪魔をして、それ以上何も言えずに黙り込む。
席を立ち空の食器をシンクまで運んだ彼女はスポンジに洗剤を垂らして黙々と皿洗いを始めた。背を向けられたまま「今日は私がソファで寝るね」と言われてしまえば、粉々に崩れ落ちた心を更に靴底でぐりぐりと踏み躙られたような最悪の気分になって吐き気がした。
「いい、オレがソファで寝るから、オマエはベッド使え」
「いやだ、私がソファで寝る」
「むり」
「私もむり」
「頑固者」
「頑固者は千冬くんだもん」
「…つか別に、いつもみたいにベッドで二人一緒に寝ればいいだろ」
勇気を振り絞って吐き出したセリフは彼女の耳に届いているだろうか。勢いよく流れ出る水音で聞こえないフリをされるかもしれない。トクトクと心音が早まって、ジワりと手に汗を掻く。数拍おいて、そうだね、と返ってきた肯定の言葉に脆く崩れた心がつぎはぎのように修復されて、暗闇の中に少しの光が見えた様な気がした。が、余計に地獄に突き落とされただけだった。ダブルベットの端でオレに背を向ける様に丸まって、指一本触れることすら許さないという無言の圧力。こんな避け方をされるぐらいなら、別々で寝た方がマシだった。
♢
翌日、目が覚めると洋服やら靴やら化粧品やらをキャリーバッグに淡々と詰め込む彼女の後ろ姿が見えて、胸が張り裂けそうな痛みを訴える。ふと、ベットサイドの背が低い棚の上に、オレが去年のクリスマスに彼女へプレゼントしたペアリングがポツンと取り残されているのを見つけた。仕事に行く時も、風呂に入る時も、料理をする時も、肌身離さず付けていてくれたのに。その瞬間、ああもう無理だって、思った。家出てって連絡も取りたくないって、つまりそれってもう距離置きたいってことだろ。そんな中途半端なことして、戻ってくるかもって散々期待した挙句、こっ酷くフラれるぐらいなら、今いっそのこと、ここで。
「なぁ、」
寝起きの掠れた声で精一杯に大好きな名前を呼ぶと、おはよう、どうしたの、と明るく賑やかな彼女にしてはやけに落ち着いた、平坦な声が返ってくる。
「愛してる」
春物のシャツの皺を伸ばして、丁寧に折り畳んでいた彼女の手がピタリと静止した。数秒して動き出した彼女の手は少し震えていて、バッグに詰め込む動作が先程よりも雑になる。一刻も早くここから抜け出したいという彼女の焦燥を感じ取って、崖から突き落とされたような気分になった。千冬くん私も、ってもう言ってくれないんだな。
「もう、別れたいならそう言えば」
違う、そんな事が言いたい訳じゃない。
「何の説明もナシにいきなり家出るとか、連絡も取らねぇとか、わけ分かんねぇ。気持ちが冷めたんならハッキリそう言やぁいいだろ」
腹の奥底に溜まっていた鬱憤が決壊したダムの様に勢いよく流れ出て止まらない。
「中途半端なことしかできねぇヤツ、すげぇ嫌いだわ」
チーン、と脳内で虚しく鐘が音が立てて、全ての終わりを告げた。マジで終わった。ペラペラと捲し立てた口はもう充分に満足したのか、それ以上音を吐き出さない。血の気が引いてくらりと眩暈がする。ベッドに腰掛けたまま、俯き片手で目元を覆っていると、ふと視界の端に彼女の足が映り込んだ。爪先はこちらを向いている。なんだよ、今更。
「…ふゆくんのくせに」
「え…?」
「浮気したのは、千冬くんのくせにっ」
「え、は?うわき?」
嫌いなんて言わないでよ、ひくひくと喉を引き攣らせながら最後までそう言い切った彼女は、ぼろぼろと溢れ出した涙を丸めた手で拭って子供みたいに泣いている。え?浮気?浮気ってなんだ。当然そんな事してないし、女友達と連絡取ったとか遊んだとか、彼女を誤解させる様なことすらもした覚えがない。
「浮気なんてしてねぇけど」
「うそつき、証拠はちゃんとあるんだからね」
「ええっ!?」
驚愕して肩を跳ねるとそれを見た彼女は「そんなにビビるなんて、やっぱりクロだ」と眉を深く顰める。いやいやいや、あるはずのない証拠をどうやって見つけてくるんだよ。いや、そんな、まさか。
「ベットの下に落ちてたこのリップ!誰のか言ってみなよ!」
「誰のって………オマエのじゃん」
「違うね!こんな色、持ってないもん」
「今ベッドの下に落ちてたって言った?」
唇をグッと噛み締め涙を必死に堪えながらコクコクと頷く彼女はとてもふざけている様には見えなくて、オレは思わずベッドに背を預けるような形で上半身を倒して項垂れる。コイツ、マジか。
「一年くらい前に…オレがその色あんまりだなってうっかり言っちまったら、二度とつけるもんかって不貞腐れてベットの下に封印したヤツがいたんだけど…知らねぇ?」
シン、と部屋が静寂に包まれて数秒後、「あ」と零れ落ちた声に彼女の顔を盗み見る。記憶喪失のヤツが10年分の記憶を取り戻したみたいな素っ頓狂な顔で目を丸めていた。その顔をしたいのはオレの方なんだけど、信じられねぇ。
「あ…、そ、そう」
「…………」
「はは…そう、そうでした」
「…………」
「あの、千冬くん、わたし」
怒りで真っ赤に染まっていた顔が頭からペンキを被ったみたいにサーッと青くなっていく。ふざけんなって怒鳴り散らかしたい気持ちでいっぱいだ。怒りが満ち溢れている。あーでも、
「マジでなんなんだよ…オマエさぁ…」
ドッと胸に押し寄せた安心感が憤りを遠く、遠くへと攫っていく。とてつもない脱力感に襲われてベッドから立ち上がれない。今日休みで良かった、こんな状態で仕事とか行っても何も手につかねぇし。
「ご、ごめんなさ…」
「勘弁しろって」
「あ…指輪…」
「その指輪、もうつけなくていい」
棚の上で小さく光を放つリングに手を伸ばした彼女を言葉で静止する。ピクリと肩を跳ねて、ほろりと涙を一筋流した彼女は固まったまま動かない。
そりゃ、そうだよな。自分が忘れてただけなのに、オレにとんだ濡れ衣を着せた上、勝手に家を出て行こうとしたんだから。普通だったらキレる。でも彼女だったら、同じ事をされた時、どう思うんだろう。千冬くん忘れっぽいもんね、って、忘れるからもう捨てちゃいなよって、一年前にちゃんと言っておけば良かったねって、困った顔をしながらそれでも笑って許してくれるのだろうか。うん、そう、彼女ならきっと。
彼女の手を引いてベッドに座らせて、震える肩を包み込むように抱き締める。気持ちを落ち着かせるために、ふう、と小さく息を吐いた。
「ヒクッ、うう、ごめ、ごめ、なさっ」
「今日ちゃんとしたやつ、一緒に見に行こうぜ」
「っ、ぐす、え?」
「嫌なら無理にとは言わねぇ」
「ちゃんとしたやつ、って、なに」
「ついでに役所も行く」
混乱してグチャグチャの脳味噌でも、オレの言葉が意味することはしっかりと伝わったのか、ふぇえ、と情け無い声を漏らしながら彼女はコクコクと頷いた。
どれだけ一緒にいても彼女の思考回路は読めない。いつも斜め上から言葉が降ってくるから、真意や意図を汲み取るのは至難の業だ。馬鹿やらかして巻き添え喰らうこともあるし、オレにとって思いもよらないサプライズが飛び込んでくる時もある。いつも感情が置いてけぼりにされるから、出来る限り先に気持ちを汲み取りたいって、彼女のことを理解したいって思ってた。でももういい。彼女の分からない部分が10のうち9あったとしても、
「あのね…あのね、千冬くん、私も愛してるよ」
それさえ分かっていれば他に何も。どれだけ振り回されても、毎日一緒に寝て飯食って、朝起きたら眠い目擦りながら一番に「おはよう」って言い合えるならもうそれで。惚れたもん負けって言うけどまさにその通りだ。犬にあちこち引き摺られる飼い主みたいな気分だけど、無邪気に駆け回る姿が可愛くて愛しくて堪らないから、きっとオレは死ぬまで一生、そのリードを手放すことなんて出来ないんだろうな。いやむしろ、彼女に首輪を付けられてるのはオレの方だったりして。
short
Storehouse