ああ、俺、大学の講義サボって平日の昼間っからなにやってんだろう。
背に滲んだ汗が薄手のパーカーに染み込んで気持ち悪い。閉め切った窓の外から子供を叱る母親の声がする。手繋いでなきゃ危ないでしょ、とかなんとか。パタパタとコンクリの上を駆ける可愛らしい足音がした。外は小春日和で心地の良い風が吹いているんだろう。熱気が篭って息苦しいから今すぐ窓を開けて換気したかったけど、ガラス越しに届く無垢な子供の声に後ろめたさを感じてそれは憚られた。
「千冬くんってさぁ、セックス雑だよね」
着崩れて中途半端に肌けた衣服はそのままに。隣に寝転がる女はカチカチと携帯を弄りながら平然とそんなことを吐かす。
「は?」
「雑っていうか自己中?」
「……もう絶対ナマエさんとはしません」
「それが駄目とは言ってないじゃん」
「文句じゃないすか」
「違うってば。私は嫌いじゃないもん。物みたいに雑に扱われんの、正直めちゃくちゃ興奮する」
ピシリと人差し指を立てて熱弁したナマエさんは「だから問題ナシ!」と眩く白い歯を見せて笑う。爽やかな笑顔をしているけれども、言っていることはえげつない。前触れもなく捻じ曲がった性癖を暴露され「ええ…」と隠しもせずドン引いた目を向けた。
「そんな目で見ないでよ」
「それマジで言ってます?」
「うん、男の人が私の身体使って勝手に一人で気持ち良くなってんの、見るの好き」
「……………」
「千冬くんのイき顔もいつもガッツリ見て…ぶへっ」
頭の下から引き抜いた枕を高速で顔面に投げつける。先輩の顔を狙うのは不躾だと分かってはいたが、こればかりは仕方ないだろう。やめろマジで。知りたくなかったわ。
「アンタさぁ…」
そんなんだから男に安く見られるんじゃねぇの。と付き合ってもないのに手を出した俺が言うのは到底可笑しな話だろうか。言い淀み口を噤むとナマエさんは不思議そうに小首を傾げる。
丸く澄んだ瞳、上向きに伸びる長いまつ毛、スッと通った鼻筋、ぷっくり美味そうに熟れた唇。男なんて選り取り見取りの顔をしてるくせに。なんでいつも誠実で優しそうな男じゃなくて、口先だけの軽そうな男とばっかり付き合うんだよ。毎回ヤり捨てされてんの気付いてねぇし。もっと大事にしてくれるいい男選べよ。
ぐるぐると説教じみた言葉が腹の中で渦を巻いて、そして行き場なく消失する。ああもう、と叫び出したい気分だった。代わりに大きく息を溢して取り返した枕にぽすりと顔を埋める。ただのセフレである俺には何も言う権利などない。
♢
同じ大学に通う一つ歳上の先輩、ナマエさんと仲良くなったきっかけは入学初日にあったサークルの新歓だった。ダチに誘われて何となく行ったフットサルサークルの花見。上級生に絡まれ「飲みなよ」と酒を強引に突きつけられて「や、大丈夫っす」と押し問答を始めて三十分。何度も断ってんのにしつこいから身体の脇で拳を握りしめたその瞬間、俺の隣からスルリと伸びた細長い腕。サッと酒を取り上げて「嫌がってる子に無理矢理飲ますのはやめなよ」そう呆れ果てていたのが当時二年だったナマエさんである。嫌がってなきゃ飲んでも問題ないのか。酒は二十歳になってからじゃなかったっけ。その日俺は大学が無法地帯であることを知った。
結局そのサークルに入ることはなかったけど、ナマエさんとは同じ学部だからか講義で顔を合わせる機会が多かった。ナマエさんは目が合うといつも「千冬くん!」と明るく声を掛けてくれる。一方俺はぺこりと軽い会釈。正直、歳上の女性との接し方が分からなくて戸惑っていた。
だって仕方ねぇだろ。中学高校って学年が違う人と絡む機会なんてほとんどねぇし。東卍は先輩ばかりだったけど完全に男の世界だし。
それでもそこそこ仲良くなれたのはナマエさんが先輩っぽくないのと、誰にでも分け隔てなく接する気さくな性格をしていたからだ。顔を合わせる機会が増えると自然と仲良くなっていた。一年の時に使っていたらしいお古の参考書を貰ったり、互いに仲の良いダチがいないボッチの講義の時は隣同士に座ったり、空きコマに暇を持て余したら連絡取って学食で時間潰したり。ただその時は本当に何でもない、大学で仲の良いただの先輩。
そんなナマエさんと所謂セフレ関係になってしまったのは俺が二年になって迎えた夏。つい二ヶ月ほど前だ。なってしまった、というと後悔しているような言い草だが、後悔しているようなしていないような。正直自分でも何が正しいのかよく分からない。
顔が整ってる上に奔放で明るくてさっぱりした性格のナマエさんは男からも女からもよくモテた。俺が出会った頃から彼氏は常にいる。隣を歩く男が見るたびに違ったのは少し気になっていたけど。飽き性なのか男を見る目がないのか、何にせよ自分には関係のない話だと思っていた。
「ごめん、別れて欲しい。他に好きな子できたから」
「え…付き合ってまだ二週間だよね?」
「前から気になってた子に告白されたんだよね」
「え、え?その子のことが好きだったのに私に告白したの…?」
「その子とまさか付き合えると思ってなかったから、ごめんね」
二限の講義でレポート課題を出されて、めんどくせぇ、と独りごちながら渡り廊下を歩いていた時だった。レポートに丸写しできる参考書を求めて図書館へ向かう途中、そんな男女の会話が耳に飛び込んできた。声がした方へ自然と目を向けると、ショックを受けて固まるナマエさんと申し訳なさげに眉を垂れる男がいる。どうやら絶賛失恋の真っ最中らしい。
二週間…気の毒に思えたが、それでもナマエさんはモテるから、どうせまた近い日すぐに次の彼氏が出来るんだろう。異性にモテるのは羨ましい限り。ドンマイ、と心の内で軽薄なエールを送って図書館の方へスニーカーの先を向けた。
「ナマエちゃんと別れれた?」
「おー、余裕」
「オレ次告ってみようかな。一回はヤってみてぇよなぁ、可愛いって有名だし胸でけぇし」
「押しに弱そうだし、頼んだら一発ヤらせてくれると思うけど」
「ヤり捨てとか俺のイメージ悪くなんじゃん。簡単に付き合えんなら何回かヤってフる方がよくね?そう思ってお前も付き合ったくせに」
「バレた?」
「バレバレ…っつか皆んなそうしてるし」
「だってあの子、絶対誰からの告白も断んねぇじゃん」
ああ、そっか。ナマエさんが好き好んで男を取っ替え引っ替えしていた訳じゃなくて、男共が身勝手な欲のためにナマエさんを良いように利用してたのか。そんな真実を知ったのはその翌日。眠い目を擦りながら一限の講義にやってきて、適当に空いた席に着いたら背後から聞こえてきた下衆な会話。振り返り顔を確認すると昨日ナマエさんに別れを告げていた男本人だった。
仲の良い先輩をそんな風に扱われてムカつかねぇわけねぇよな。でも大学生にもなって人をいきなりブン殴るなんて出来ねぇし。だからペン回しに失敗するフリをして、思いっきり背後にボールペンを飛ばしてやった。痛ッ、と聞こえた微かな悲鳴だけじゃ俺の腹の虫は収まらなかったけど。男がクズなのは間違い無いとして、その時何故か、それに気付かないナマエさんにも無性に腹が立った。
♢
「ねぇ、千冬くんって好きな人いないの?」
「ずっと思ってましたけど… ナマエさんっていつも話が急に飛びますよね。さっきまで猫カフェの話してませんでしたっけ」
「好きな人と猫カフェ行ってみたいな〜、って思って、そういえば千冬くんはそういう人いるのかなって」
一応ナマエさんの中で話は繋がっていたらしい。二限を終えて次は四限。間に昼休みと三限を挟むせいで膨大な時間を持て余した俺達は学食で早めの昼食を取っている。昼休みになると学食は人が溢れて騒がしくなるから、二限が終わったタイミングで別の場所に移動して時間を潰す。毎週水曜日のルーティーン。
「で、どうなの」
ピシッと箸の先をこちらに向けたナマエさんはやや前のめりになって好奇に満ちた瞳を見開いた。
「いません」
「え〜、おもんな」
「聞いといてなんすか、その言い草」
「千冬くんってさ、絶対元ヤンだよね。顔から滲み出てるもん。どうせ喧嘩ばっかして女に縁がない学生生活を送ってきたんでしょ?」
「喧嘩売ってんなら買いますよ」
「図星かぁ〜」
片手で額を抑えてわざとらしく"あちゃ〜"と寒いリアクションを取るナマエさんに冷たい視線を送る。男とばっか連んでたのは確かだけど、こんな俺だって彼女ぐらいいたことある。高校時代に二人付き合った。告白されてテンション上がって、ノリと勢いで付き合ったからどっちもそう長く続かなかったけど。
「付き合ったことぐらいあります」
「ギャルでしょ」
「普通の子。バレー部と吹奏楽部」
「なにそれ、全然タイプ違うじゃん」
「どっちも告られたんで」
「うわ!さらりとモテる自慢!やらしい!」
「聞いてきたのはナマエさんでしょ」
「ねぇ、アイス食べて良い?二限終わるまであと十分あるし」
もうナマエさんの話がぶっ飛ぶのは慣れっこだ。アイス二つ分の金を渡して「オレのもお願いしていいっすか?」と尋ねると、目を輝かせたナマエさんは「え、奢ってくれんの?千冬くんだいすき!」そう言い残して小走りで食堂の隅にある売店に向かっていく。るんるんと音符が周囲に飛んでいた。現金なひと。
「そういえば、昨日また告白されちゃった」
チョコの棒アイスとレモンのシャーベットを両手に、ご機嫌で席に戻って来たナマエさんはそんな近状報告をする。モテる自慢してんのそっちじゃん。いつもなら軽く流していたけど、その時ばかりは胸がもやもやとした。『オレ次告ってみようかな、一回はヤってみてぇ』吐き気を催す台詞が記憶の片隅から呼び起こされる。まさかあのクズ男じゃねぇだろうな。
「告白オッケーしました?」
「えっ!?え、ああ…したよ」
「なにそんなビビってんすか」
「だって千冬くん、いつも私の恋バナとかどうでも良さそうじゃん。話に乗ってきたからビビった」
「たまには聞いてあげないと可哀想なんで」
「なにそれ、なんかムカつくなぁ」
「で、どんな人?」
平然を装い棒アイスに齧り付く。ナマエさんはいつもと違う様子の俺に気付いて怪訝そうに顔を顰めていた。うぅん、と斜め上を見て男の事を思い浮かべ特徴を説明し出す。
「この間別れたばっかの元カレの友達なんだけどね、短髪で野球部でワイルド?な感じの人」
ダメだこりゃ、と呆れ果てる。元カレは優しくて良い人だったから、その友達もきっと良い人だよ、そう目尻を赤らめて幸せそうに破顔するからクズ男共に沸沸と殺意が湧く。これ、ハッキリ教えてやった方がいいよな。アイツらははじめっからナマエさんのことが好きなわけじゃなくて、ただ身体目当なだけだって。
「怖い顔してどうしたの」
いや、やっぱ言えねぇわ。俺男だし女の気持ちなんて分かんねぇけど、そんな事言われたら男不審になりそう。
「あー…、その、そいつとは早めに別れた方がいいんじゃないっすかね」
「どうして?」
「女遊び激しいって良い噂聞かねぇから、マジでやめといた方が…」
「へぇ〜、私のこと心配してくれてんだ」
ナマエさんはプラスチックスプーンでシャーベットを解しながらニマニマと嫌な笑みを浮かべた。せっかく身を案じて忠告してやってんのに、なんだよその顔。真実を伝えて傷付けないようにオブラートに包んでやったのに。ムッと眉間に皺を寄せていると「分かった」と明るい一言が返ってきた。
「千冬くんがそう言うなら別れる」
「は…え?そんなあっさり?」
「え?だって悪い人なんでしょ」
「はい、それは間違いないです」
「じゃあ今日か明日にでも別れるよ」
大事な友達がやめとけって言う人はさ、大体本当にやめといた方がいい人だったりするんだよね、そう自嘲気味に笑うナマエさんに胸を撫で下ろす。どうやら忠告してくれる友人はこれまでにもいたらしい。現時点でこれじゃ全然懲りてねぇけど。
「あ、じゃあ代わりに千冬くんが付き合ってよ」
「ん゛っ…!?」
舌の上で溶かしていたアイスを吹き出しかけて慌てて口元を手で覆う。危ねぇ、テーブル汚すとこだった。甘い汁をごくんと飲み込んでナマエさんを凝視する。え、なに、今俺告られた?つか軽くね?じゃあ代わりにってなんだよ。予期せぬ事態にばくばくと心臓が肋骨を押し上げる。ガタリと椅子を鳴らして動揺した俺を見てナマエさんはキョトンと目を丸めていた。
「え、え」
「ねぇいいでしょ、付き合ってよ」
「そ、そんなこといきなり言われても…考える時間が欲しいっつーか…」
「なんでよ、前に猫好きだって言ってたじゃん」
「は………ねこ?」
「駅前にできた猫カフェ!実は彼氏と行くつもりで予約しててさ、別れたら一緒に行く相手いないんだけど」
「……………」
「だから代わりに千冬くんが付き合ってって…え、どこ行くの」
「俺、四限まで図書館で寝て時間潰すんで」
「え〜!私一人で暇になるんだけど!」
ぎゃーぎゃーと騒ぐナマエさんを一人残して食堂を去る。追いかけてきても見つからないように広いキャンパス内の入り組んだ道を右へ左へ曲がって突き進んだ。もう殆ど駆け足。生温い風が頬を撫でるたびに顔が熱いことを自覚して嫌になる。期待させんなってキレそうになって、すんでのところで腹の底に沈めた。だって俺は何を期待したんだって話じゃん。
♢
「ねぇ……私臭かったりする?」
「そんなことねぇと思いますけど…、ふはッ」
「ひど、笑い過ぎだし」
じわりと目尻に涙を溜めて項垂れるナマエさんが可笑しくてプルプルと肩を震わせた。触り方が下手くそだから警戒されてるだけだろ。でも一々リアクションが面白れェから教えてやんねぇ。
木曜日は午前中の講義しか取ってないから、いつもなら午後は即バイト。気が向けばサークルに顔を出す日もあるけど。今日はどちらでもなくナマエさんの予定に付き合う羽目になっている。妙な勘違いをさせられて気が乗らなかったけど、来てみると悪くない。というか普通にめちゃくちゃ楽しい。駅前に出来たワンドリンク制の猫カフェはオープンしたばかりだからか、平日でもそれなりに賑わっていた。思った通り、カップルと女性客しかいねぇけど。
それで何が面白いかって、ウキウキ気分で来店したのに猫達に警戒されて指一本触れさせて貰えずに絶望しているナマエさんが間抜けで面白い。
「なんで千冬くんのとこばっか集まってくるの」
「猫は心が綺麗な人間にしか寄り付かないらしいっすよ。アメリカの研究結果にそういうデータがあります」
「真顔でスケールがでかい嘘つくのやめてもらっていいですか」
「まぁせいぜい指咥えて見ててください」
擦り寄って来た三毛猫の首下を撫でながらフンと鼻で笑ってやった。ナマエさんはむぅっと不服そうに頬を膨らませて、でもどうする事も出来ずにのらりくらりと闊歩する猫達を視線で追っている。眉をハの字にして膝を抱え込みドリンクに口を付けていた。ぼうっとその横顔を眺めていると、しょげた瞳と視線がかち合う。
「なに、オレンジジュース飲みたいの?」
「?いや、俺コーラあるんで…」
「そ、物欲しげに見てたから飲みたいのと思った」
コトンとオレンジの液体が入ったグラスを近くのテーブルに置いたナマエさんはハァと物憂げに溜息を零す。さすがに薄っすら涙目になってて可哀想だったから、そっと子猫を膝の上にのせてやった。手を誘導して抱き方を教えると「千冬くん…意地悪で最低なヤツだ、二度とこんなヤツ誘わないとか一瞬でも思ってごめんね」と余計な事を言う。眉を垂れてしょんぼり落ち込んでる姿が可愛いとか思ってしまったのが、なんだか少し悔しい。
猫カフェの時間制限は一時間。可愛い毛玉と戯れていると時間はあっという間に過ぎていく。指定の時間を迎えて、店員に渡されたコロコロで服に付着した毛を取り払い店を後にした。
時刻は中途半端な十四時半。今日はバイトも遊びの予定も特に入れていない。かと言って猫カフェに行くという目的はもう果たしたし、ナマエさんとこのままどこかへ行くのも違うというか。そんなのまるでデートみたいだし。
「一時間って短すぎだと思わない?もう一周してやろうか」
「気持ちはわかりますけど…ヤですよ俺、店員にまたこいつら来たって思われんの、気まずくないすか」
「えー、別に良くない?店員にどう思われたってさ。お金払えば客なんだし」
図太い性格してんなって、野郎相手なら平気でそう言ってしまっているところだ。ナマエさんは女だし仮にも先輩なので精神的に大人になりつつある俺は「ハハ」と乾いた笑みで流しておく。
「猫ちゃん触り足りない〜」
「最初の二十分は全く触らしてもらえなかったから、ナマエさんは実質猫カフェ四十分っすね」
「次こそは一時間みっちり触るもんね」
次こそ。そのリベンジに付き添うのは俺ではなく次に出来る彼氏なんだろう。「千冬くん、猫みたいな顔してるから仲間だと思われてるんじゃない」毛玉を抱えてふにゃりと顔を綻ばせるナマエさんを思い返して、胸にチクリと不自然な痛みが走ったような気がした。
「この後どうする?まだ十四時半だけど、今日バイトないんでしょ」
「ウチ猫飼ってるけど…来ます?」
咄嗟に舌から滑り落ちた言葉。あれ、俺何言ってんだろう。ポーカーフェイスを装いつつ、内心は女の子を家に誘ってしまったとパニックである。「え、いいの!?」ナマエさんがそう花開いたように笑うから前言撤回なんてとてもじゃないけど出来なかった。
ナマエさんは地方から出て来たから一人暮らしをしてるらしい。対して俺は実家から通える距離の大学を選んだから変わらず団地のまま。平日の昼過ぎだから母親は仕事で不在だし、ちょっとぐらい騒いでもいいだろうとコンビニで酒とつまみを買って俺の家に向かった。
「あはは!これ本当に千冬くん?ドヤンキーじゃん!目つきわっる!」
「堂々と悪口言うの、やめてもらっていいっスか」
パーティー開けしたポテチを摘み上げて笑い転げるナマエさんに何とも言えない視線を送る。デスク代わりにしている押し入れの上に飾ってあった写真立て。勝手に覗き込んでおいて酷い話だ。東卍が解散した日、チームの皆で撮った集合写真。見られた瞬間はしまったと肝を冷やした。ナマエさんは不良なんて無縁そうだし怖がらせるかもしれないと不安が胸を過ったけれど、どうやらそれは杞憂だったらしい。
「千冬くん元ヤンだろうな〜って思ってたけど、まさか暴走族入ってたとは思わなかったわ。ふは、モノホンじゃん」
小馬鹿にして怯える様子は欠片もない。当然忌み嫌うような態度もない。やっぱり図太い性格してんなって思った。まぁ、肝が座ってて俺は嫌いじゃない。
「さっきのカフェの猫ちゃん達さぁ〜、この中学ん時の千冬くんみたいな目で私のこと見てたよ。テメェこっち見てんじゃねぇよ!みたいな感じ」
「はは、確かにすげぇガンつけられてた。まぁ、俺んとこには甘えに来てましたけどね」
「おいで〜、ペケJ」
たっぷりと嫌味を含んで吐き出した言葉は華麗にスルーされる。ナマエさんは聞こえませんと素知らぬ顔をしてベッドの上で丸まるペケJに手を伸ばしていた。チラリと片目を開けて様子を伺ったペケJは跳ねて俺の膝の上にやってくる。スンと表情が抜け落ちたナマエさんを指差して笑った。酒が入って気分が高揚しているせいで自然と笑い声がデカい。
「また千冬くんばっかり、ずるい」
四つん這いになってずりずりと近付いてきたナマエさんはまた懲りずに俺の膝で丸まる毛玉に手を伸ばした。案の定逃げられてまたカラカラと笑い飛ばす。逃げ出したペケJは窓から差し込む日溜まりの中で液体のように溶けていた。
「真正面から触ろうとしたら怖がらせるからダメだって、さっき教えたじゃないすか」
「…………」
「あと頭とか背中より、下から顎触る方が気持ち良くて喜びますよ。ペケJは耳の付け根とかも好き…、っ」
その時俺が猫だったなら、ピャッと尻尾が直立に逆立っていただろう。摘んでいたポテチを指先でバリッと砕いてしまって床にカスが散らばった。
「こんな感じ?」
下から伸びてきた白くて小さな手。手のひらを返して天井へ向けて、そっと触れた細い指先が俺の顎下をこしょこしょと撫で上げる。向かい合って座り込み俺を見上げるナマエさんは「ちゃんとレクチャーしてよ」と真剣な眼差しだ。
「……あの…俺、猫じゃない…っス」
「ペケJが触らしてくれないんだから、千冬くんで練習するしかないじゃん」
「いやそれ、全然分かんねぇんですけど」
「あとどこだっけ、耳の付け根?」
「ちょ、……っ」
フェイスラインを伝って登ってきた温かい手が首筋に添えられる。親指でスリスリと耳たぶの下を摩られた途端にカァッと顔が熱くなった。
え、なにこれ…なにこれ…っ、なにこれ!
どういう状況?ポテチを摘んでいた俺の手はどうしたらいいのか分からず間抜けにも宙に浮いたままである。別にそういうのじゃないのに、ちょっと女の子に顎と耳触られたぐらいでガチガチに固まって、うわ、俺童貞みてぇ。真っ赤に染まった顔を真正面からナマエさんに見られて情けなさに涙が滲む。絶対馬鹿にされる、そう思ったのにナマエさんは何故か真顔のまま。
「……耳の付け根、気持ちいいの?」
何だよその台詞。意地の悪い顔をして揶揄う素振りを見せてくれたら、そんなわけないって突っぱねられるのに。いや一つだけ言っておくと、別に気持ちいいわけじゃない。友達だと思ってた先輩との妙な距離感に狼狽しているだけで。
「ナマエさん…俺のこと揶揄ってんでしょ」
「千冬くんは逃げないの?」
やっとナマエさんの口角が吊り上がる。逃げるわけない。だって俺は猫じゃなくて人間だから。ナマエさんの触り方が下手くそだって別に怖いことなど何もない。でももしこのまま、逃げなかったらどうなるんだろう。不安よりも期待が勝ってコクリと生唾を飲み込んだ。まただ、また俺は何に期待して、
「千冬くん、今好きな子いないんだっけ」
「え…まぁ」
「ちょっと気になる子とかもいないの?」
スリ、とまた指の腹で俺の耳の下を撫ぜたナマエさんは潤んだ瞳で上目遣いをする。「いないです」と上擦った声を出すと、ナマエさんは「じゃあさ」と声をひそめて悪戯を企む悪ガキのように笑った。
「しよ」
は、と訳が分からずに硬直してしまう。千冬くんとえっちしてみたい、ナマエさんは恥ずかしげもなくそんな事を言う。追い討ちをかけるようにまた顎下を指先で撫でられて、ドッドッドッと心臓が口から飛び出す勢いで騒ぎ出した。してみたいってなんだよとか、そういうのは付き合ってる人とするもんだろとか、頭の中で巡って吐き出すべき言葉は色々あった筈なのに。気付いたら俺はナマエさんの華奢な肩を掴んでしまっていた。
♢
それから木曜日は午前の講義を終えた後、外で昼飯を食ってから自然とどちらかの家に行く流れが出来ている。はっきりと言葉で誘われたのは最初の一回だけで、それからはもう何となく雰囲気。
そして、これはついこの間の話。セックスが雑だって言われた事には腹が立ったけど、正直なところ反論はできなかった。毎回俺の身体にはあまり触らせないし、キスも前戯も気持ちを高める程度で最小限。本当に欲を吐き出すためにやってるだけの行為だって自覚はある。間違ってない。
『千冬いま何してる?』
『大学の先輩と家で遊んでるけど、どうした?』
『今アッくんらと飲んでてさ、千冬も来れねぇかなって』
『夕方には解散するからその後行くわ』
『了解』
ベッドの上でペケJと戯れるナマエさんを尻目にカコカコと携帯を弄る。夕方には解散、武道に送ったメッセージを見返してチクチクと胸の奥が針先でつつかれるような痛みを訴える。なんだろうな。ぴゅうっとからっ風に吹かれた一枚の枯れ葉が宙を舞って、静かに地面に落ちていくような、そんな虚しさ。
「千冬くん、こっちきて」
こっちきて、はナマエさんが誘ってる合図。ただ下着を剥いで突っ込んで腰振って、出すもん出したら終わり。素肌で抱き締め合うことなんかないし、ナマエさんの要望で毎回後ろから。最中どんな顔してるのかなんて知りやしない。こんなのもう動物の交尾じゃん。いやなんなら、子孫繁栄に精を出してる動物の方が俺らよりよっぽど生産性があると思わねぇ?
「千冬くん?どうし」
「なんで最近彼氏作らないんすか」
俺と出会った時からずっと、途切れることなくいたくせに。一瞬空気がピリついたような気がしたけれど、数拍おいて聞こえたのは明るく気の抜けた声だった。
「だって彼氏いるのに他の人とエッチしたら浮気じゃん。私両立できるほど器用じゃないもん」
「だったら彼氏作って他のヤツとヤんのやめたらいいでしょ」
「千冬くんはやめたいの?」
やめたい、とは言い切れずに黙り込む。じゃあもうやめよ、そう何でもない事のようにへらりと笑ってまた明日から普通に接してくるナマエさんが容易に想像ついたから。俺はよく知っている筈だ。ナマエさんは男に困ってない。あっさりしてるから来るもの拒まず去るもの追わず。俺も、ナマエさんから見れば沢山いる男のうちの一人。彼氏を作らなくなった理由、俺はどんな答えが欲しかったんだろう。勝手に裏切られた気になって馬鹿馬鹿しい。
「好きな人、できました」
「え?」
「その人とちゃんと付き合いたい」
ベッドに背を預けるように座り込んでいるからナマエさんの表情は伺えない。でも見なくても分かる。大きな目をぱちくりとさせて、そんでその後は愉快に目を細めて茶化してくるに決まってる。
「そっか!じゃあもうやめよ!」
千冬くんが好きな人ってどんな子?可愛い系?綺麗系?同期の子?ベッドから飛び降りてぐいぐいと詰め寄ってくるナマエさんの顔を手のひらで押し返す。ほらみろ。予想通り。
何でそんなこと聞くんですか、俺の好きな人が気になるんですか、知ってどうするんですか。関係を終わらせたいと告げてあっさりと身を引かれたのに、詰め寄られて懲りもせずに都合の良い解釈をしたがる自分がいる。意味などない。女は恋バナが好きだから、それだけ。
「ていうかどれぐらい好きなの?」
「どれぐらいって…俺の彼女にして他の男には指一本触らせたくねぇって思うぐらいには…好きですけど」
「………や、あのごめん、いつから?って意味だったんだけど」
結構前から好きだったなら私悪いことしたなって思ったから、とナマエさんは目玉を泳がせて人差し指で頬を掻く。言葉を履き違えてめちゃくちゃ恥ずかしい事を言ってしまった俺の方が気まずいわ。千冬くん独占欲強いタイプなんだね、とフォローになっていないフォローをされて両手で顔を覆った。恥ずすぎ。
「…自覚してなかっただけで結構前から」
ナマエさんは「そっか、なんかごめんね」と眉尻を垂れて優しく微笑んだ。じくじくと胸の深部が焼かれる。
「千冬くんが好きな人と上手くいくように、私応援してるよ」
手を伸ばせばすぐ届く距離。ヤろうと思えば今すぐ抱ける。でも気持ちがバレるかもしれないと怯えながら雑なセックスをするのはもう限界。来るもの拒まず去るもの追わず、そんなモテ女の余裕は気に食わない。勝手に惚れておいて安っぽいプライド。ダセェって自覚はしてる。
♢
「なぁタケミっち、セフレから彼氏に昇格するにはどうしたらいいと思う?」
「ぶふ…っ!」
「うわ、汚ね」
武道はズズとストローで吸い上げていたコーラを盛大に吹き出した。ごほごほとむせ込んで涙目になっている。まぁ自分で言っておきながら女々しい質問をしたと思う。多分こういうのって女側の悩みだよな。割り切れなくなって好きになっちまって、みたいな。
「え、なに…?大学の人?」
「うん、先輩」
「聞く相手間違ってない?俺童貞だけど」
「そんな誇らしげに言うことか?」
「うっせ。んー…そういうのってさ、どっちかが好きになったら終わりだって言うもんなぁ。ていうか千冬は絶対セフレ作るのとか向いてない性格じゃん。単純っぽいし、好きになっちまうの何か分かる」
「馬鹿にすんなよ。好きだから誘われて断れなかっただけだし」
「は?だったら初めの時点で気持ち伝えとくべきだったんじゃねぇの」
「……………」
だよなぁ。蚊の鳴くような声はガヤガヤと賑わうファーストフード店の喧騒の中に溶けていく。硬いソファの背に全体重を預けて沈んだ。
「相手の人は?マジで千冬のこと何とも思ってねぇの?」
「そりゃ…セフレにされるぐらいだし」
「女の子って自分からあんまり好きとか言えねぇじゃん、せめて身体だけでもとか思ってるかもよ」
絶対にない。だってそれなら色んな男と付き合ったりしないだろ。相談を持ちかけた立場のくせに納得がいかずに顰めっ面を晒す。「あ、ごめん、ヒナから呼び出し」携帯片手に席を立った武道を妬ましげに睨め付けた。
「身体の関係きっぱり切って、ちゃんと一からアピールする!これしかねぇだろ!」
武道はキリッと凛々しく眉を吊り上げてガッツポーズをする。簡単に言うなよ。まぁそれしかないけど。
『せめて身体だけでもとか思ってるかもよ』
そうだったらいいのに、と今更そんな淡い期待を抱くのはみっともない。
♢
『今どこすか』
『二号館裏のテラス、喫煙所が近くにあるとこ』
『友達います?四限まで空いてて』
『今いない、来ていいよ』
来ていいよ、その一言で全てを受け入れて貰えた気になって嬉しさがひょっこりと顔を出す。携帯をデニムのポケットに突っ込んで、浮ついた気持ちで二号館へのルートを脳内で思い浮かべた。
あれからナマエさんは以前と変わらない態度で接してくれている。たまに"好きな人"の話題を振られるからはぐらかすのが大変だけど、変わらず仲良く出来るなら別にそれぐらい。
「ぎゃはは!マジで!?お前ダッセェ!」
「マジでダリィ、誰だよあんな噂流したヤツ」
二号館裏の野外テラス、喫煙所が近くにあるところ。俺がいた一号館からはそう遠くない。五分程度で目的地にたどり着いた筈なのにナマエさんの姿は見当たらなかった。代わりに上級生と思わしき男二人が指定された場所に腰掛けている。ポケットから携帯を取り出して連絡を取ろうとしたところで、テラス席の奥にある植木の向こう側でもぞりと黒い影が動くのを見つけた。
「ナマエさん?」
「あ…」
「こんなとこでなにやって…」
「告ったら百パーイケるって聞いたのに嘘じゃん。フラれんならはじめっから飲み誘ってワンナイトで済ませりゃ良かったわ」
「クズすぎ、まぁ俺は三年の時にヤらせてもらってっから。マジでナマエちゃんのおっぱい最高だったわ」
「ウゼェ、自慢かよ」
植木の向こう側を覗いたら青い顔で突っ立っているナマエさんがいた。テラス席でゲラゲラと下世話な話をする上級生の男二人をチラリと見やって状況を理解する。拳を固く握りしめて一歩踏み出したところで、ナマエさんの手が俺のパーカーのフードを掴んだ。
「いいよ、大丈夫」
「や、無理っす。あいつらバチボコにしねぇと気がすまねぇんで」
「いや死んじゃうって、千冬くんヤバそうだもん」
「殺さねぇ程度に」
「もー!いいってば!陰でそういう風に言われてたの、私ずっと知ってたから」
「は?」
だったらなんで今まで告白全部オッケーしてたんだよ。知った上で付き合って身体を許すなんて、そんなの。
『なんで最近彼氏作らないんすか』
別にヤれるなら誰でも良かったから。セフレがいるならわざわざ彼氏なんて作らなくてもいいじゃん。
そんな事を言われた記憶なんてどこにもないのに、聞き慣れた声で台詞が脳内再生されてガツンと頭を殴られたような衝撃を受ける。だとしたら、付き合わなくても簡単にヤれる俺って、ナマエさんにとったらクズ男達よりも都合が良くて格下な存在じゃん。
びゅうっと乾いた風が吹き抜けて俺の心を冷やす。ガサリと植木の葉が揺れた。ナマエさんは青い顔で俯いたまま右へ左へと視線を忙しなく彷徨わせている。
「知ってたから、気にしなくていい」
「……そうっすね、心配して損しました」
「…………」
「そういう事なら好きにしてください。俺には何も言う権利ないんで、ただの後輩ですし」
でもナマエさんがそういう人だとは思わなかった。
諦めにも失望にも似たそれは、理性という名のストッパーに引っ掛かることなくスルリと口からこぼれ落ちる。
「俺、自分のこと大事にできねぇヤツ嫌いです」
何も言う権利がないと冷静に俯瞰できる男を演じておきながら、その後すぐさま暗に止めろと諭してしまう惨めな自分がいる。正面から顔が見れずに、ゆらゆらと風に靡くナマエさんのロングスカートの裾を意味もなく見つめていた。
「千冬くん、色々とごめんね」
色々ってなんだよ、そんな雑な謝罪があってたまるか、と憤りを感じて面を持ち上げると、ナマエさんはくるりと背を向けて足をもたつかせながら遠くへ駆けて行ってしまった。
一瞬捉えたナマエさんの眦には涙が溜まっていて、明日からまたいつも通り、はもう無理なのかもしれないと静かに悟る。こんなことならナマエさんに捨てられるまでは黙ってセフレにされてりゃ良かった。どうせナマエさんの方が先に卒業するのだから、付き合えなくてもせめて後一年ぐらい仲の良い関係でいたかった。
ハァ、と重い息をこぼして片手で髪をくしゃりと掻き乱す。雑草を踏みつけその場から踵を返そうとしたその時、「つーかさぁ」とナマエさんにフラれたという割に愉快な男の声が植木の向こう側から飛んできた。まだ話してんのかよ、コイツら。チッと一つ舌打ちを鳴らす。やっぱりむかっ腹が立つから一発ボコしてやろうか。失恋の腹いせに。
「ナマエちゃんにスゲェこと聞いたんだけど、多分これ知ってんの俺だけ」
「え、なになに、気になる」
「今まで全員オッケーしてたのになんで俺は駄目かって聞いたんだよ、そしたらさぁ」
湧き上がる殺気が水を被ったように一瞬で鎮火する。息を潜めて聞こえた会話に耳を傾けた。そんなの知ったところで別に今更どうにもなりゃしねぇのに。
「ニ年の時からずっと好きな人がいて、そいつに妬いて欲しかっただけだって」
盗み聞きなんて犯罪紛いなことをしたからバチが当たったんだ。男取っ替え引っ替えより、実は一人の男のことがずっと好きでしたって、それのがキツい。ヤるとき毎回バックでしたがってたのって、まさかそう言うこと?ナマエさん、俺としてる時ずっと好きなヤツの顔思い浮かべてた?萎えた気持ちが更に萎えてもう枯れ果てそう。格ゲーなら体力ゲージはあと1ミリ。小突かれただけで死ぬ。
それなのに男共の楽しげなキャッチボールは止まらない。俺も馬鹿だからナマエさんの話となると気になって動けない。
「もう失恋したから男いらねぇらしいわ」
「マジで?まさかの俺らが利用されてた側?女って怖ェ〜」
「つかあんな可愛い子に好かれて振り向かねぇ男ってどんなイケメンだよ」
「すぐに名前教えてくれた。誰にも言わないでって言われたけど」
「めちゃくちゃ純粋だよな、あの子。言わねぇわけねぇのに」
「なんつってたっけ、たしかマツモト?」
誰だよそいつ。どこの学部の何年でどんなツラしてんだよ。ナマエさんのことフってんじゃねぇ。
「誰だそれ、何年?」
「ニ年っつってたけど、俺が入ってるサークルにはいねぇから分かんねー」
「あー、もしかしてあれじゃね?ナマエちゃんがよく絡んでる金髪の目付き悪ィヤツ」
「へぇ意外、そういう悪そうなのがタイプには見えねぇよな」
金髪で目付き悪いとか絶対ロクなヤツじゃない。あの人、マジで男見る目ねぇのかも。もしかして俺をセフレにしたのって同じ金髪だから?中坊ん時程じゃねぇけど目付き悪いとはよく言われるし…顔が似てるとか。あーあー、自分で自分の傷口に塩を塗りたくるのはもうやめよう。
やさぐれて唾を吐き捨てたい気分だ。ぺらっぺらのレジュメと筆箱と財布しか入っていない軽いリュックを背負い直して、四限のある大講堂へ爪先を向ける。もう懲り懲り。
「あ!ちげぇわ!思い出した!松本じゃなくて松野!松野千冬!」
ズコーッとバラエティ番組の芸人さながらひっくり返ってしまいそうになり、慌てて体勢を立て直す。
え?なんて?
「え、あの金髪が松野千冬?マジで?」
「お前知ってんの?」
「俺中学ん時まぁまぁ悪い奴らと絡んでてさ、界隈で有名だったんだよ、東卍ってヤベェ族。そこの特攻隊の副隊長だよソイツ」
「げ、マジで?悪そうな感じじゃなくて、マジでヤベェやつじゃん」
ナマエちゃんモテるのに男見る目ねぇのな、とか聞こえて正気なら殴り込みに行っているが俺は今正気じゃない。いや正気なら殴るってそれがもう正気じゃないけど。そうじゃなくて、ナマエさんがずっと好きだった人って、え、俺…?
『好きな人と猫カフェ行ってみたいな〜、って思って』
馬鹿じゃねぇの。だったら彼氏なんか作らずに最初から、
『初めの時点で気持ち伝えとくべきだったんじゃねぇの』
呆れ果てる武道の顔が浮かんだ。
『ねぇ、千冬くんって好きな人いないの?』
『千冬くんがそう言うなら別れる』
『千冬くんが好きな人と上手くいくように、私応援してるよ』
その時々、ナマエさんはどんな顔をしてたっけ。ぐるぐると今までの言動を思い返してぎゅうと胸が締め付けられる。数秒ぼうっとそこに突っ立っていたけれど、我に返ってナマエさんのケー番にコールを鳴らしながら行く当てもなく駆け出した。
♢
間違いなく避けられている。
あの日結局、通信機は虚しくコール音を響かせるだけで、待ち望んだ声が聞けることはなかった。送ったメッセージにも既読がつく事はない。でも被ってる講義はいくつかあるし大学で会えるはず、そう思って翌日、翌々日、三日、四日、五日。驚くほどにナマエさんの姿は見当たらない。透明マントでも入手して被っているのだろうか。勇気を出してナマエさんと仲が良い女の先輩に聞いてみても「分からない」と一蹴されてしまったし。分からないは嘘だ。間違いなくナマエさんに先手を打たれている。
早く会いたい、気持ちを伝えたい、と焦燥感に駆られて一週間。ついにその時はやってくる。
「ミョウジさんのこと、一年の時からずっと好きでした。初めて喋った時からずっと。お、俺と、付き合ってください…っ!」
最悪の形で。
理系の研究棟の裏、人気の少ないベンチの前。一週間ぶりにナマエさんの顔を見た。男に差し出された手をジィッと見つめて言葉を探している。大丈夫、ナマエさんは先週もう男はいらねぇって告白を断ったんだ。きっと今回も答えはNO。男が去ったところで俺がナマエさんを捕まえればいい。はやくフってしまえ、と見ず知らずの男に対して無慈悲にも願う。
「ずっと、好きでいてくれたの?」
「はい、ミョウジさんモテるから…俺みたいなの眼中にないって分かってるんです。でもどうしても諦めきれなくて…俺、何も取り柄なんかないけど、尽くします。ミョウジさんのためならなんだってできます、だから」
付き合って下さい!って人通りの多い遠くの渡り廊下まで届きそうなデケェ声。見たら分かる。今まで体目当てで告ってた男達とは違ってマジなんだって。きっと、ナマエさんも分かってる。だから、ナマエさんがにこりと柔らかい笑みを浮かべて差し出された手に手を伸ばしかけた時、俺は必死に走り出していた。
「うん、ありが、と……っ!?」
「……え?」
まん丸の目が四つ、突然現れた俺の方に向けられる。ナマエさんの手を掴んで間に割り込んで、多分必死の形相だった。全速力で走ったから息が上がって上手く言葉が吐き出せない。ナマエさんは丸めていた瞳をゆっくりとアスファルトに落として、それから男の顔を見る。
「ありがとう、でもごめんね」
「あ…わ、分かりました。聞いてくれてありがとうございました」
くしゃりと顔を歪めた男はとぼとぼと背中を丸めてその場を去っていく。あれ、もしかして最初から断るつもりだったのに割り込んでしまったのか。
「なんかすいません」
「もー、びっくりしたじゃん」
「あの…ナマエさん、俺」
「私もう午後の講義ないから帰るし、じゃあね」
目も合わせずに颯爽と立ち去ろうとするナマエさんに苛立って、逃すまいと手首を掴んでいる手に力を込める。
「連絡、なんで無視するんすか」
「ごめん、携帯壊れてて」
「俺も午後はもう講義ないんで一緒に」
「私、友達と約束してるから」
分かり切った嘘を連ねるのはそれだけ動揺しているからか、それとも察してくれと遠回しな拒絶か。恐らく両者。けれども、ここで「はいそうですか」と素直に身を引くほど俺は物分かりの良い男じゃない。
♢
「はっ!?え!?」
「そんな大声出したら隣の人に怒られますよ」
「ええっ!?!?そういうのはもうやめるってこの間話したじゃん!?」
「ナマエさん、ムードって知ってます?」
「千冬くんよりは経験豊富だから知ってる」
ムカつくけど何も言い返せない。腹いせにギュッとナマエさんの鼻をつまんだ。友達との約束が本当にあったのかどうかなんて知らない。けどこの機を逃したら一生後悔するような気がしたから、ナマエさんが一人暮らしをするアパートに強制連行。腕を引いてズンズン進んでいく俺の背中を見て、ナマエさんは道中ずっと狼狽えていたけど知るんもんか。
壁にかけた時計を見ると十二時半。まだまだ明るい真昼間。それでも俺は構う事なくナマエさんをベッドに押し倒して服に手を差し込んだ。
「わぁあーーー!!!」
「声デカ…静かにしてください」
「ん、むぅ…っ!?……っ」
騒がしい唇を捕食して、差し込んだ手で薄い腹を撫でる。浮き出た肋骨を指先でツウとなぞるとピクリと身体が跳ねた。そのまま脇腹から腰にかけて優しく手のひらを這わせると、ナマエさんは首を振ってキスから逃げ出し固く目を瞑る。
「…っ、それやだ」
「あー、雑にされる方が興奮するんでしたっけ」
別にナマエさんのためにそうしていた訳じゃない。もう我慢なんてする必要ないし、自分がやりたいようにすればいい。滑らかな肌の感触を楽しむように弄って、白い首筋に唇を寄せた。強く吸い付いて鬱血痕を残すと胸に渦巻いていた虚しさがドロリと融解していく。
「ち、千冬くん…なんかいつもと違…っ」
頬を擦り寄せシーツに投げ出された小さな手を絡め取る。ぎゅっと手を握り締めて、今度は逃げ出せないように深く唇同士を重ねた。クチュクチュとわざとらしく水音を立てて舌を絡めたら、組み敷いた身体が暴れ出す。仕方なく口を解放して、ツウと厭らしく伝う銀色がプツリと途切れるの見届けた。
「は、ぁ…っ、なに…やめたいって言ったの千冬くんのくせに…」
「そうっすね、セフレとかいらねーんで」
はぁ…?と気の抜けた声。言ってることとやってること違うじゃん、分かりやすくそう顔に書いてある。でも俺だって振り回された側なんだから、少しの意地悪ぐらい許して欲しい。無視して強引にキスしようと顔を傾けたらフイッとそっぽ向かれた。ムッとして目の前に晒された首筋に噛み付いて歯を立てる。
「いっ、ちょ、千冬くんっ」
「ヤです、やめません」
「ひ…あっ、な、舐めんのやめて…」
「聞こえねー」
「え、好きな人は…?もしかしてフラれてやけになってるとか…」
「蓋を開けてみたら両思いでした。相手も俺のことずっと好きだったらしいっすよ」
「……………」
はぁ?と二度目の気の抜けた声を期待したのにナマエさんはそこからだんまりしてしまう。さらさらと指通りの良い髪を撫でつけて耳たぶを甘噛みしたら、耳元で微かにふっと嗚咽が聞こえた。あ、ヤベ。いじめすぎたかも。
「よかったね」
ナマエさんの顔の横に両肘をついて顔を覗き込む。瞳に薄い涙の膜を張って、必死に唇噛み締めて。じゃあなんでこんなことするんだとか、彼女いるのに最低だとか、他にもっと言いたいことが沢山あるだろうに。健気な一言に同情と、あと少しの優越感。この人、こんなくしゃくしゃに顔歪めて泣きたくなるほど俺のこと好きだったんだ。
「好きなヤツの気引きたくて色んな男と付き合いまくるとか、どうやったらそんな考えに至るんすか」
「だって…………え、」
「ナマエさんってそういう経験が豊富なだけで実は恋愛初心者だったりします?少女漫画でも見たことねぇっすよ、そんな捨身の駆け引き。勝率低すぎだし」
「え、え?………え?」
情けない顔が一転。驚愕のあまりはくはくと口を開閉して素っ頓狂な顔で疑問符を飛ばしまくっている。重力に沿って垂れる前髪をかき分けて、剥き出しになった額にデコピンをかました。
「い゛っ…た!」
「俺がその勝率クソな作戦に引っかかるバカで良かったですね」
痛い痛いと薄く赤らんだ額をさすっていた手がぴたりと止まる。ぽかんと口を開けて3秒後、何かを察したらしいナマエさんはブワッと首筋まで赤く染め上がった。ええ…、とか、うう…、とか意味のない単語を発してぐるぐる目回してる。
「なんで知ってるの」
「ナマエさんにフラれた男がベラベラでけぇ声で喋ってたんで」
「……ねぇ」
「はい」
「本人の耳に入ったら良いなって」
「え?」
両頬を小さな手に包み込まれて、ぐんっと顔を引き寄せられる。
それも計算のうちだったら、千冬くんどうする?
吐息混じりに囁かれた挑発的な一言。正面から妖しく濡れた瞳に捕えられ、ぽかんと口を開けて3秒後。次にぶわりと首筋まで赤く染め上がったのは俺の方。
♢
「うう………千冬くんのばか、変態、性欲おばけ」
「ナマエさんの嘘つき」
「なに嘘つきって」
「雑にされる方が興奮するとかどの口が…んぶっ」
高速で飛んできた枕が顔面にヒットする。なんだかデジャブだ。前回は俺が投げつけた方だけど。思いの外強い力で飛んできて鼻がひりひりと痛む。
結局、最初から最後まで全部この人の手のひらの上で転がされてたんだって思ったら悔しくて堪らなかったから。今までのセックスが何だったんだってぐらい優しく丁寧に抱いてやった。「雑な方がいい」はそういう性癖なんだと一々疑ってなかったけど、いや、嘘も大嘘。
「千冬くんデリカシーない」
「それ、ナマエさんが言います?」
先程までのナマエさんの痴態を思い返してまた飽きもせずに腰が鉛のように重くなる。
今までの何倍も時間をかけて全身愛撫して、早く挿れろって泣き出すところまでは割と想定内。けど舌絡めてキスしながらゆっくり挿入しただけで腰ガクガクさせて即イキした時はさすがにビビった。一瞬で持ってかれそうになって焦ったのは秘密。その後はもう、なんつーか、凄かった。枕を鷲掴む手を俺の背中に回させてねちっこく腰振ったらボロボロ泣きながら気持ちい気持ちいって善がりまくってたし。イくたびに抱き締めて可愛いって頭撫でたらもう目の奥にハートマーク飛んでたし。俺のことが好きで好きで堪んねーって蕩けてドッロドロの顔。
「………あたってる」
「あー…すいません、思い出したらつい」
羞恥に煽られたナマエさんは俺の腕の中でもぞもぞとうごめく。バックハグの体勢だからちゃんと顔は見えない。でも耳真っ赤。
「何でンな嘘ついたんですか」
「優しくされたら勘違いしそうで嫌じゃん」
「後ろからがいいって言ってたのは?」
「顔見られたらバレると思った」
「俺のこと大好きなのが?」
じっとりと恨めしげな瞳が振り返ってクスリと笑う。頰膨らませて拗ねてるし、やっぱりナマエさんは先輩らしくない。でも歳上とか歳下とか拘らずに誰に対しても等身大の自分でいられる。ナマエさんのそんなところが俺は好き。
「ねぇ、俺まだナマエさんの口からちゃんと聞いてない」
「千冬くん、実は割とモテてるよ」
出た。ナマエさんの突然話があらぬ方向へぶっ飛ぶ悪い癖。はぐらかされたような気がするけど時間はまだたっぷりあるし、まぁいいかととりあえずその話題に乗っかることにする。
「どこ情報っすか、それ」
「私情報」
「うわ、信憑性ゼロ」
「本当だし。同期の友達によく聞かれるんだよ、千冬くんの連絡先」
「女の先輩から連絡もらったことなんか一度もないですよ」
「教えてないもん。あと去年のバレンタイン、千冬くんに渡してってチョコ何個か預かってた」
「は…?ちょっと待って、聞き捨てならねぇんすけど。うそ、え、どこやったんすか俺のチョコ」
「千冬くん食べてたよ。友チョコ食べきれないから食べるの手伝ってってお願いしたじゃん」
「……………」
「一応ちゃんと渡したよ。でも本命なんて教えてやんない」
アンタ相変わらずモテないのねぇ、と昨年も例に漏れず母親に哀れみの目を向けられて意気消沈していたことを思い出す。ナマエさん、それはどうかと思います。俺ちゃんと本命だって分かった上で欲しかったです。女の子からのバレンタインチョコ。しかも何個かってなんすか。
「あと合コンセッティングして欲しいとか。そんなの嫌に決まってんじゃん。私の友達、可愛い子多いし。絶対千冬くん取られちゃうもん」
なんだそれ、自分は何人もの男と付き合いまくってたくせに。と思うけれど、常に受け身で誰にも執着心を見せなかったナマエさんが俺に対しては独占欲を剥き出しにしてんの正直ヤベェ。今までの付き合いを知ってるせいで余計にグッと来る。これも計算の内なのかもしれない。だってそんなこと黙ってりゃ分かんねぇし。
「千冬くん」
腕の中で器用にくるりと身体を反転させて俺の方に向き直ったナマエさんは、何か言いたげな表情で縋るように見つめてくる。求められていることをすぐに察してどうしようかと思案した。正直俺の完敗だけど、でも最後は譲りたくないと変な意地がある。だってここで俺から言ったら本当に負けっぱなしだし。
「なんか言いたいことあんなら、どうぞ」
「なんで今日は優しくしてくれたの」
「そういう気分だったんで」
「いっぱいちゅーしてくれたのは?」
「ナマエさんが喜ぶから」
「千冬くんがしたいって思ってくれたんじゃないの」
先に俺に言わそうと必死なナマエさんが可愛い。そんな千冬くん好き好きって顔して、あー、可愛い。マジで可愛い。誘導尋問を躱し続けているとナマエさんの手がそろりと俺の股の間に触れる。いやそれは反則だろ。レッドカード一発退場。ナマエさんの負け。
俺の身体を弄る手を掴んで肩を押す。組み敷いて頭上で両手を纏めあげたらナマエさんはごくりと息を飲んだ。
「ナマエさん、可愛い後輩のお願い聞いてくれますか」
「ええ……今は全然可愛い顔してないけど」
「別に可愛い顔は普段もしてませんけど」
「千冬くん鏡見たことないの?無自覚怖い」
「いや、俺が俺のこと可愛いとか思ってたらキモすぎません?」
「たしかに」
「このまま縛って抱き潰しますよ」
「千冬くんのえっち」
そうじゃなくて!危ない危ない。うっかり相手のペースに飲み込まれるところだった。ナマエさんのこめかみにチュッと啄むようなキスを一つして気持ちを切り替える。優しく触れると緊張して身体が少し強張るのが愛おしい。ドキドキ、ドキドキと聞こえる鼓動がどちらのものかはもう分からない。
「俺のこと好きって言って」
目が逸らせないように、鼻先が触れ合う距離わずか数センチ。ナマエさんの瞳に映る自分の顔が、あまりにも腑抜けているから笑ってしまいそう。こんな顔じゃナマエさんのこと言えない。じわ、とまろい頬がピンクに色付いて美味そうな艶を出す。桜餅みてぇ。
「ナマエ、おねがい」
もう一押し。美味そうな桃色の頬を柔く食んで充分に堪能したあと、こつんと額同士をくっつけたらナマエさんはポンッと漫画みたいに頭から湯気を出してショートした。
「………す、すきでしゅ」
「…………」
「ごめん噛んだ…今のナシ」
「…………」
「えと…初めて会った時から…ひ、一目惚れです…千冬くんのことがずっと好きです…千冬くんの彼女になりたい…です」
は、なんだこの可愛い生き物。両手の自由を奪われたナマエさんは俺の下で羞恥に身悶えている。本当にヤバい。がぶがぶ食い付きたいぐらい可愛い。堪らずに両手を背中に差し込んでぎゅうぎゅうと抱き着いた。
「はぁーー………俺も好き、好きです。可愛すぎ。マジでなんなんすか。すきでしゅってなんすか、俺を殺す気ですか」
「そ、それイジんのはマジでやめて…!うう…ドキドキして死にそう…告白する側ってこんな気持ちなんだ…」
「出た、モテ女発言」
「…好きな人にモテなきゃ意味ないよ」
「安心していいっすよ。今後ナマエさんに寄り付く男は全員、告る前に俺がぶちのめすんで。ナマエさんが俺にやってたみたいに」
「……バレンタインチョコ、絶対根に持ってるでしょ」
「たぶん一生根に持ちますね」
「ごめんて…あー、あとセックス雑とか自己中とか言ってごめん」
「それ、今言うことすか」
「千冬くんのイき顔見る余裕なんてないくらい良かっ、ぐぇ、苦しい苦しい!」
それは別に見なくていい。照れ隠しに絡めた腕で細い身体を締め付ける。いくら手のひらの上でコロコロされたって、最終的にはモテ女に告らせた俺の勝ち。
恋愛に勝ち負けなんかねぇよ、そんなんに拘ってるから千冬はいい奴なのになかなか彼女できねぇんじゃねぇの、と俺の脳内で武道が正論を述べる。あー、うん。なんで武道がヒナちゃんみたいな優しくて可愛い彼女にずっと愛されてるのか分かったような気がする。
『女の子って自分からあんまり好きとか言えねぇじゃん、せめて身体だけでもとか思ってるかもよ』
マジで、すげぇよ相棒。俺お前に一生着いていくわ。
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