序 01


薄曇りの空に、ちらちらと雪の舞う日のことだったと思う。

「ちょっと出掛けてくるわ」

廊下掃除の最中に、そう声を掛けられて立ち止まって振り返ると、玄関の前に彼が立っていた。
いつもの寝ぐせがついたままの髪に、いつもの着崩した袴姿。
ただ、羽織をはおっているのだけがいつもと違っていたが、それは外が寒いからだろう。突然彼が出掛けるのもいつものことだ。
猫のような気まぐれさでふらふらと出掛けては、気がつけばいつの間にか見世に戻ってきていて、自室でくつろいでいたりする。寒がりの彼が火鉢の傍で大きな背中を丸めて暖まっている様は、本当に猫のようだった。
それを見るたびに、どこかほっとしているわたしがいた。
いつか彼がふらっといなくなってしまうのではないかと、わたしはいつも少し不安に思っていたからだ。いつだったか、2日ばかり戻らないことがあった時には、帰ってきた彼に泣きついて「ずっと一緒だ」と約束させたものだ。
それ以来、彼もどこへ出掛けているのかだけは「子供にはまだ早い」とか言って絶対に教えてくれなかったが、出る前にはこうやってわたしか誰かに声を掛けていくし、見世が忙しくなる前には必ず帰って来てくれるようになった。
だから特に気にすることもなく、その日もわたしはいつものお決まりの返事を返した。

「気をつけて行ってきて下さいね」
「ああ。分かってるって」

飄々とした口調で返しながら、彼は玄関の扉に手を掛ける。
その途中で、

「ああ、そうそう貴舟」

ふいに名前を呼ばれた。

「はい?」

まだ何かあるのだろうか?
彼がこんな軽い口調で切り出すときは、大概何か重要なことがあるときだ。前に聞き流して大変な目にあった。聞き逃してはあとあと大変なことになるかもしれない。
思い出したような声に、廊下掃除を再開し始めていたわたしは後ろを振り返ろうとする。
すると、冷たい風が突然吹きこんできて頬をなぜた。一つにまとめた髪がなびき、前髪が目に入りそうになって一瞬目をつぶる。
何も見えない。
真っ暗ななか、彼の声だけが耳にやけに大きく響いた。

「いってきます」

短いが、暖かさを含んだ声。目をあけると、そこには誰もいなかった。
もう行ってしまったようだ。
開け放しにされてちらちらと雪が入り込んできている玄関扉だけが、そこに彼がいたことを証明している。
また開けっ放しにして。
彼のずぼらさにため息をついて少し呆れながら、わたしは土間に下りて玄関扉を閉める。

「"いってきます"って言ったんなら、"いってらっしゃい"ぐらい言わせて下さいよ」

 
 
その夜、彼が帰ってくることはなかった。
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