序 02



 
花街は夜からが忙しい。日が落ちた島原は昼にもまして明るく、煩雑な賑わいをみせた。
見世見世の軒先につるされた赤提灯のやわらかな光。見世の門口に据えられた台座の上に座る妓夫の客を引く声。時折どこからか聞こえてくる清掻きの音や芸者たちの華やかな笑い声。大通りを埋める客たちが発する熱気と喧騒。すれ違う人間の顔はどれも楽しげで酒気や興奮からほんのりと上気し、その陽気な雰囲気につられて踊りだす者もいた。
相変わらず祭りのような賑わいだ。
しかし、貴舟はそんなまわりの人と同じように浮かれた気分には到底なれなかった。
いつもだったら、自分も馴染みの店に顔を出したりそこらへんをぶらぶらと見て回りたい気分にもなっただろうが、今はそれどころではない。
そっと背後を盗み見ると、人ごみの中に編笠をかぶった頭がちらりと見えた。
やっぱり尾けられてる。
茶屋を出てからというもの、数人の男たちが後ろをつかず離れず尾けてきていた。
向こうは気づかれていないと思っているのだろうが、ばればれだ。鋭い殺気ですぐに気がついた。
本人たちは押し殺しているつもりなのだろうが、漏れ出た殺気がちくちくと背中に刺さってくる。それは明らかに自分へと向けられたものだった。
それほどこちらに恨みがあるのか。
そう思ったりしたが、こっそりうかがった男たちの顔に見覚えはない。だが、尾けられる理由については…心当たりがありすぎた。
まぁどうせ、私かあいつのどちらかに用があるのだろう。あれこれ考えても仕方ない。連中に直接聞けば済むことだ。
そう簡潔に思考をまとめると、貴舟はさっそく行動に移した。
店々が軒を連ねる大通りから逸れ、賑やかさとは無縁の暗くうら寂しい路地へと出る。
わざわざそんな人気のない場所へ歩いてきたところで、

 
「この辺りでどうだ」

足を止め、貴舟は背後をぴったりと尾けてきていた男たちを振り返った。
距離は四間(約七メートル)。
人相の悪い浪人ふうの男たちが七、八人、編笠を目深に被った男に従うように立っている。おそらくこの男が頭なのだろう。
編笠の男が一歩進み出て、貴舟へ声をかけた。

「…"椿屋の用心棒"とは、お前のことだな?」
「だったら?」

違っているわけではないので、特に否定はしない。
貴舟がそう言うやいなや、浪人たちは一斉に刀へ手を掛けた。

「先日の美津濃屋での借り、返させてもらう」

美津濃屋。
それでぴんときた。なるほど、あの時の仕返しにきたのか。
そう思いつつ、貴舟は二日前のことを思い出す。


二日前、貴舟は雇い主の遣いで、ひいきにしている呉服屋である美津濃屋へ来ていた。
頼んでいた着物の仕立てが終わったと聞き、引きとりに行ったのだ。
だが、いざ着いてみると門口に人だかりができていて中に入ることができない。何かあったのかと、野次馬根性を出して人垣の前へと行ってみると、顔見知りの手代が数人の浪人にすごまれているところだった。
ああ、またか。と貴舟は思った。
この時代、巷には食い詰めた浪人が溢れていて、そういう輩たちは大体強請のような真似をして糊口をしのいでいた。お店に顔を出しては、用心棒の押し売りをするのだ。
用心棒を買って出るくらいだから浪人たちはみな厳つい容貌をしていて、食い詰めているので控え目にいって汚い。そんな男どもに店のまわりをうろうろされては、店としてはたまったものではない。客が怯えて売れるものも売れなくなってしまう。
だから、たいがいの店ではこのような浪人がやってくると、いくばくかの小銭を渡してお引き取り願っていた。
目の前の浪人たちの手にも、小銭が入っているのであろう袋がある。しかし、この浪人たちはかなり意地汚いようだった。こんな小銭では足りぬと、手代をさらにゆすっている。厳つい男たちに囲まれて、手代の顔はかわいそうなほどに青くなっていた。おろおろしている間に、しびれをきらした浪人が手代の胸倉をつかんだ。すわ刃傷沙汰か、とまわりの野次馬がにわかに騒ぎ出す。
これはまずい。
あまり目立つことはしたくなかったが、主人がひいきにしている店だ。それに、自分もここの女将にはたいそうよくしてもらっていた。このまま見過ごすわけにもいかず、貴舟はため息をつくと人垣から前へ出た。
視線が一斉に刺さる。

「ちょっと失礼するよ」
「!椿屋の用心棒さん」

手代は貴舟の顔を見るなり、ほっとした顔になった。反対に、浪人たちは突然の闖入者に怪訝な顔をする。

「用心棒だぁ?」
「ああ、そうだ」
「ふん。そんな細腕で満足に刀を振れるわけがないだろう」

貴舟がうなずくと、浪人は鼻をならした。明らかにこちらを馬鹿にしている。取り巻きらしい浪人たちもそれに追従するように、みなにやにやと下卑た笑いを浮かべた。嫌な感じだ。
浪人たちの態度にカチンときて、貴舟は眉をひそめた。喧嘩を売られてそのまますごすごと引き下がれるほど、殊勝な性格をしていない。こと剣に関してはそれなりの自負があったので、こんなふうにけなされて黙っていることはできなかった。
…穏便に済まそうと思っていたが、やめた。

「じゃあ、試してみるか?」
「試す?」

訝しがる浪人に向かって、貴舟は腰から刀を鞘ごと抜き前につきだす。

「あんたらが勝ったら、これをくれてやる。でも、あんたらが負けたら二度とここへは来ないと約束しろ」

突き出した刀は使い込んではあったが、売れば一年遊んで暮らすには十分な金になるだろう代物だった。立派な拵えの刀に、浪人の視線が釘付けになる。
下卑た笑みが深まった。

「面白いじゃねぇか。乗ってやるよ」
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