6時40分発。



6時40分発の急行、3車両目の入口を入ってすぐの角の席。
そこが彼のいつも座る席だった。
車内に乗り込んでその席に座るなり、彼はウォークマンの白いイヤホンを耳に詰めてうたた寝をする。時折携帯を見てメールをチェックしたりもするが、大体は目をつぶって寝ていることが多い。目を開けているときも眠たそうに目をしょぼしょぼさせている。多分、遅くまで部活をしているせいだろう。
彼の足元にはいつも大きなエナメルのバックが置かれていて、そのおもてには海常高校バスケ部の文字がプリントされている。海常高校のバスケ部といえば全国クラスの強豪校だ。
学校はわりと近いのに朝の大分早い時間帯から出てくるのも、朝錬があるためだろう。4月からこの電車で彼と乗り合わせるようになってから、彼と会わない日はなかった。毎日さぼることなく朝錬に行っているんだろう。毎朝大変だ。
そう思っていると突然電車内にあどけない声が響いた。

「おかたん!こっちこっち」

少し驚いて声のしたほうを見てみると、2、3歳くらいの小さな女の子がこっちに走ってくるのが見えた。まだちょっと足元がおぼつかない感じで危ない。
母親もこけやしないかとはらはらしているのか、狭い車両の中必死でその後を追ってきている。その後ろからは大きな荷物を背負った夫らしき男の人がついてきている。多分、これから旅行に行く家族だろう。この電車は空港行きになっているから、よく旅行者が大きなキャリーバッグを持って乗っているのを見かける。
女の子はぽてぽてと瑞希の前を通り過ぎると斜め前の空いていた席によじのぼり、そのまま窓の外を眺めはじめた。追いついてきた両親にあれは何?これは何?と指をさして聞いている。好奇心いっぱいに目をきらきらさせる女の子はかわいらしく、そのいとけない様子に瑞希は思わず微笑んでいた。
かわいいなぁ。よく見ると、まわりの人の表情も心なしかやわらかい。隣に座る年配の女性の目もとはきゅっと下がり、口元はやわらかく微笑んでいる。みんなほほえましいと思っているんだろう。
あんまりじっと見ているのも失礼だから、瑞希はそっと視線をはずし前を見る。それからなにげなく彼の方を見て、瑞希は驚いた。
笑ってる。
いや、人形じゃないんだからそりゃ笑いもするだろうが。瑞希が彼の笑顔を見たのは、それが初めてだった。いつもの眉間に皺を寄せた険しい顔からは想像できない優しい笑顔に、目が釘付けになった。

瑞希が名前も知らない彼のことが気になり始めたのは、それからだった。


「それって恋じゃないの?」

親友である友美にそのことを話すと、ずばりそう言われた。
やっぱりそうなんだろうか?

「でも」

全然知らない人だよ?
ずいっと机から身を乗り出して言う瑞希に、友美はからからと笑ってみせた。

「恋をするのにそんなの関係ないわよ」
「そういうもの?」
「そういうものなのです」
「あたっ」

返事とともに、額に軽い衝撃。でこピンをされた額をさすりながら瑞希は乗り出していた身を戻し、おとなしく席に座った。

「少なくとも、気にはなっているんでしょう?」
「…うん」

友美の言葉に、瑞希は彼のあの笑顔を思い浮かべた。そうすると、ほんわりとした気持ちとともに、どこか苦しい気持ちがこみ上げてきた。消え入りそうな、淡い思い。でもそれが恋と呼べるものなのか、瑞希にはイマイチよく分からなかった。
自分の気持ちなのに自分でも分からないなんて、…なんだかすっきりしない。
そんな瑞希の気持ちを映したように、何気なく見た窓の外はどんよりと曇っていた。




その日の帰りは、土砂降りだった。
おかげで電車に遅延が生じ、いつになく電車のなかは人で満員だった。しかし駅に着けば、満員だろうが容赦なく人がのりこんでくる。運悪く席の前に立っていた瑞希は、なだれ込んできた人に押し流され、とびらの前に張り付く形で身動きが取れなくなってしまっていた。
うっ、苦し。
背後と左側を押しつぶされ、瑞希は思わず前のめりになって扉に手をついた。すぐそばの足元に大きな荷物が置かれていて、うまく立つことができないのだ。
持たれて背中やら腕やらにぶつけられるのもつらいが、足元に置かれるのも邪魔になってつらい。
誰なのよ、こんな大きな鞄置いてるのは。いらいらして瑞希は背後の人物の顔を見上げる。
あ。
見上げて、思わず声をもらしそうになった。
瑞希の背後に立っていたのは、いつもの彼だった。帰りに一緒になるのははじめてのことだ。
互いの視線が重なり、彼が目を見張るのが分かった。彼が何かを言おうと口を開く。
その時だった。
駅のホームに差し掛かった電車が急に減速し、どどどっという音とともに、乗車していた人々がバランスを崩した。その波は瑞希たちのいる場所にもおよび、瑞希はさっきよりも強くとびらに押し付けられた。
うう。またしても。
ぷるぷると震える手でなんとか身体を支えながら瑞希はちょっと上を見上げ、息を止めた。

「悪い」

彼が扉に手を突っ張り、覆いかぶさるようにしてすぐそばにいた。吐息を感じられそうなほどの至近距離に、瑞希の胸がばくばくと音を立てて動き出す。慌てて瑞希は顔をうつむかせた。それでも、ほんの少し背中にあたる彼の胸板を感じてしまって意識してしまう。服から伝わってくる温かさに、急速に体温が上昇していく。
それからどれくらいたっただろうか。
やがて大きな駅の一つに電車は止まり、車内にみちみちに詰まっていた人たちの大半が外へどっと流れ出していった。それと同時に詰まっていた空間があき、新鮮な空気が外から流れ込んでくる。
瑞希はそれまで詰めていた息をはきだした。
く、くるしかった。
しかし、圧迫感から解放されてほっとしたのもつかの間、

「おい」
「は、はははい!?」

いきなり肩をつかまれ、私は飛び上がらんばかりに驚いた。振り返った先には、彼の顔。
呆けたようにしばらく見つめあった後、お互いあまりにも近い顔の距離に気づき、どちらともなく顔をそらした。

「わ、悪い!」
「い、いえこちらこそ!」

顔に熱が集まってきているのが分かり、ものすごく恥かしい。きっと今の自分は真っ赤な顔をしているんだろう。
き、気づかれていませんように!
頬を両手で覆って冷やしていると、遠慮がちに声をかけられた。「これ」と視界の端に傘の取っ手が映る。
頬から手を下ろし振り返ると、彼が傘を差し出していた。水玉地にフリルのような縁取りがついた傘は、自分のお気に入りだ。

「落としてたぞ」

自分の腕を見るが、そこには何もかかっていない。最初は腕にかけていたのだが、満員電車でいつの間にか落としてしまっていたらしい。

「ありがとうございます」

お礼を言って受け取る瑞希に、彼は少しそっぽを向いて「おう」と言う。心なしかその頬が赤く見えるのは気のせいだろうか。
ぼーっとして見ていると、耳にアナウンスの音が飛び込んできた。

『次は…』

アナウンスで流れてきた駅名を聞くなり彼ははっとして、足元においていたエナメルバックを拾い上げ、肩に下げた。
次の駅で降りるようだった。
窓の外に駅のホームが映る。電車は徐々に速度を落としていった。落ちる速度に瑞希は焦った。
彼がいってしまう。このまま何も言わずじまいでいいのだろうか。
何か言いたい。でも何を言えばいいのか分からない。
そうこうしている間に電車は完全に止まった。反対側の扉の前に立った彼の背中が見える。開く扉。動く彼の足に、反射的に瑞希は口を開いていた。

「あの!」

彼が振り返る。

「わたし、白川っていいます!」

電車のなかの空気が、一瞬凍った気がした。
あああああ!!!!なんでいきなり名乗ってるのわたし!!!これじゃただの変な子じゃない!!
後悔先に立たず。勢いで言ったものの、口から出した言葉を今更戻せるわけもなく、瑞希は自分がしでかしたことに頭をかかえた。
猛烈な後悔に襲われる中。

「知ってる」

ぽつりと言葉が返ってきた。

「へ?」

顔をあげて見ると、少し怒ったように顔をしかめる彼の顔があった。その頬はやっぱりほんのり赤い。
ちょいちょいと胸ポケットのあたりを示す彼のしぐさに、自分の胸ポケットを見る。そこにはケータイが入っていて、一本キーホルダーが垂れ下がっている。垂れ下がったキーホルダーには、ローマ字のチャームで白川とある。

「俺は笠松だ」

「また明日の朝な」そう言って彼は扉から出て行く。閉まる扉の隙間から見えた彼の口元は、笑っているように見えた。
動き出した電車の中、瑞希は口元を押さえ扉に頭をくっつける。
胸が破裂するかと思うぐらいうるさかった。
これは、やっぱり恋なのかな…?
窓から見た空は、いつの間にか青い晴れ間がのぞいていた。
ALICE+