スクランブル



地下鉄の出口階段を昇り切るとそこは、片側2車線道路のクロスする大きめのスクランブル交差点である。会社へ向かうにはA1出口から出るのが最も早いが、俺は毎朝A3を使う。上がってすぐの処に在るコンビニエンスストアに立ち寄る為であった。
地上でA3の位置から斜向かいのA1へと渡るのは、スクランブルの性質上大した手間ではないが、信号待ちの時間は長い。しかし俺は判で押したように、毎朝そのコンビニエンスストアへと通うのだ。
購入するものは缶コーヒー1本である。
俺のオフィスビルの休憩スペースに、同じ飲料メーカーの自動販売機が在ることを、知らないわけではなかったのだが、いつも通りその朝も俺はコンビニエンスストアのガラスドアを押す。

「いらっしゃいませ!」

店内に一歩踏み入れれば、レジカウンターの中からかけられる朗らかな愛らしい声に、心だけでなく冷えた身体までが温まる心地がする。
僅かに顎を引き挨拶に応えたつもりだが、彼女に伝わっていない事は解っている。また彼女の声が、特別俺だけに向けられているわけではないという事も、元よりよく解っていた。
毎朝その店で顔を合わせる彼女のネームプレートには、“白川”と書かれていた。彼女について俺の知るのはそれだけだ。
出勤前にコンビニエンスストアに立ち寄る客は、言うまでもないが俺だけではない。
いつ訪れてもほぼ一定人数で混み合っている。
レジのすぐ脇にある、ホット専用のケースから目的のコーヒーを取り出し、今朝もサラリーマンやOLに混じって会計の順番を待つ。オフィス街らしく、様々なルールや不文律に従うことに慣れたここの客達は、割り込みなど決してすることなく整然と、所謂『フォーク並び』というやつをする。
レジについている店員は右側の彼女を含め2名。毎朝二分の一の確率に俺は一喜一憂するのである。

「おはようございます。今朝も寒いですね」

今日は彼女の手によって会計をしてもらえる幸運に恵まれた。前の客にも同じ科白を言っていたのを聞いている。恐らく「いらっしゃいませ」と全くの同義と思われる型通りの挨拶であろう。それでも俺はそれを嬉しく聞き「あ、ああ、おはよう…」と小さい声で不器用に答える。
このような時、何故もう少し明るい表情を作れないのかと、己を歯痒く思いながら。
しかし次の言葉はいつもとは違った。俺は目を瞠る。

「このコーヒーがお好きなんですか?」

「……え?」

「いつも、これ、買っていかれるから」

缶コーヒーのバーコードを機械で読み取りながら、彼女が言うのだ。俺を見覚えていてくれたのであろうか。
しかしあまりに突然のことで、感激をどう表していいかも解らぬうちに、曖昧に頷く俺の指先から百十数円が彼女の手に渡り、チンと軽快な音と共にあっさりと会計が済んでしまえば、もう其処から退くしかない。後ろが閊えている。

「ありがとうございました!」

それは俺にとっては悲しい別れの言葉と同義だ。未練がましく振り向くのも気恥ずかしく、黙って唇を噛みガラスドアを押し外へ出た。
だがしかし、決まりきっていた筈のやり取りの中のほんの僅かな変化が、その日の俺の心を浮き立たせたのも事実だった。
夜まで俺の頭の片隅から彼女、“白川”さんの事が消えることは無かった。
いつか彼女に話しかけることが出来たならば。
その一歩を踏み出すことが出来たならば。
彼女は下の名を何と言うのだろうか。
最初にそれを聞ければよいのだが。
とりとめなく夢想しながら、俺は温かい気持ちで眠りに就いた。
そのような毎朝の小さな幸せから、奈落に突き落とされたのはそれから間もなくだった。





オフィスのデスクに着く頃にはかなり温くなったコーヒーのプルタブを引き、切ない気持ちと共に味わっていると、同期の沖田総司が出勤してきた。

「ねえ、一君さ、時間ある?」

「あんたの言葉には主語がない。いつの時間の事を言っているのだ」

「外回りに余裕があるかってこと」

常であれば、予定などあろうがなかろうが聞き流す彼の話を聞いてしまったのは、その日の朝の出来事が僅かばかり影響していた所為であったかも知れない。
俺はひどく傷ついていた。
俺達の会社は大手R社ホールディングス傘下にある一部上場の広告代理業であり、企業広告を主に請け負っている。入社後は誰もが概ね2年程は営業部に配置されることになっており、それは制作部を希望している俺も例外ではなく、クライアント企業回りをする毎日であった。
ビジネス手帳を繰るまでもなく、午前の時間がぽっかりと空いていた。

「ちよっと、付き合って欲しいんだけど」

全く気は進まないが仕事は仕事である。そして今の俺は個人的な事柄で占められた己の脳内を、仕事の形態に変換する必瑞希があった。
気難しいのを絵に描いたような総務課長が満面の笑みで俺の肩を叩くのを、同じく満面の笑みを浮かべた総司がニコニコと見ている。
あと一歩で契約に漕ぎつけるところであるこのクライアントが、広告料の事で何やら渋っていたという事らしい。後からよくよく聞けば「沖田君みたいにチャラチャラした営業に何百万からの金を落とすのは心配だ」と難癖をつけて値引きを迫られていたという事だ。
深く何度も頭を下げ先方のオフィスを出ると、総司は判を押されたばかりの受注票をヒラヒラさせ、高ぶった声を上げた。

「やっぱり正解だった。あの課長、一君みたいに生真面目なのがタイプだと思ったんだ」

「己の仕事は己で始末をつけてくれ」

「この御礼はするからさ。あ、今日の夜は暇?」

「暇ではない」

「呑みに行こう。僕が奢るから、ね?」

相変わらず人の話を聞かない男だ。
常ならば。
そうだ、常であればその誘いに乗ることなどなかったのだ。
この日の朝、いつものように訪れたコンビニエンスストアに彼女の姿が見えなかった。その存在を知った日から、彼女の笑顔を見ない日は一度もなかったのに。
俺は動揺した。
缶コーヒーをレジ袋に入れ、愛想よく差し出す初めて見る男性店員に向かい、思わず口走ってしまった言葉に自身で驚愕する程、俺は平常心を欠いていたのである。

「今日、白川さんは…、」

「白川さん…?ああ、彼女なら昨日までだったんですよ」

彼は俺にとって絶望的な言葉を事もなげに告げる。目の前が真っ暗になると言うのは、こういう状態を指すのだろうかと俺はぼんやりと考えた。





空虚な気持ちを抱えたまま総司に案内されたそこは、全く俺の守備範囲外といった趣の店だった。洒落たインテリアに飾られ照明を落とした店内には、よく見れば男女連れが多い。俺が専ら好むのは男同士が集まるような、日本酒などを数多く置く和風の酒場だ。
楽しげな総司は「取り敢えずビールでいい?」と四人掛けテーブルにさっさと座り、通り掛かった店員に生ビールを注文してから、慣れた手つきでメニューを取った。
仕方なく向かい側に腰掛ける。
程なくしてビールを運んできた店員を彼は振り返ってじろじろ見ているが、俺は背の高いグラスに目を遣ったまま、生ビールとは本来ジョッキに注がれてくる物ではないのかと心で思いつつ、三分の一程を一息に呷った。

「今の子、可愛かったな。見た?…って、ちょっと一君、乾杯は?」

呆れたような顔で俺のグラスに申し訳程度に自分のグラスをカチリと当てると、俺と同じような量を喉に流し込み、徐に顔を覗き込んできた。

「でさ、早速だけど、一君って好きな子とかいるの?」

「…っ!」

グラスを置くなり前置きもなく放たれたその言葉に、危うく口の中のビールを噴きそうになった。口元を手の甲で押さえる。

「な、なな、何を…っ、」

「君の事だからそう言う分野は、疎いんじゃないかと思ってさ、」

「あ、あんたに関係ないだろう。いらぬ世話だっ」

「まあ、そう言うだろうとは思ったけどね、…あ、来た来た。大手の受注が取れた御礼にね、紹介するよ」

立ち上がった総司は店の入り口方面を向いて「こっちこっち、」などと言いながら、嬉しげに大きく手を振る。現れたのは若い二人の女性だった。茫然とする俺を置き去りに彼女らを座らせると、二人は口々に「初めまして」とか「こちら、かっこいいですね」などと浮わついた声を上げるが、俺は目の前の展開についていけない。騙し討ちに会ったような不快感すら込み上げてくる。

「この子達、僕の大学の後輩。えーとね、こっちの子が、」

「悪いが俺はこのような事は好まない」

皆まで聞かずに、ガタッと椅子を引いて立ち上がれば、怪訝な顔をする女性二人と口を尖らせる総司の視線が一斉に向けられた。踵を返しかけた俺の腕を、向かい側から伸びて来た総司の手がガッチリと掴む。

「ちょっと、何言ってんのさ。空気読んでよ、一君」

「他を当たってくれ」

「勘弁してよ。取り敢えず一度座ってよ、ねえ」

勘弁して欲しいのは此方だ。俺はひどい傷心を抱えているのだ。このような時にこのような浮かれた気持ちになれる筈などないではないか。
立ち去ろうと身を躱しその手を振り払った時。
直ぐ背後で呑み物を運んでいた店員に、気づかずに振り向きざま、丸いトレンチが腕に触れた。

「きゃ…っ、」

「…っ、」

思いのほか強く当たったようで、ガチャンと音を立て倒れたグラスからこぼれた酒をスーツの右腕に浴び、それは手のひらまで流れてきて冷やりとした感触がした。目を上げれば慌てた女性店員が、泣きそうな瞳で俺を見て頭を下げた。

「もっ、申し訳ありません、お客様のお洋服に…っ」

「…あんた……は、」

「あのっ、すみません、此方に…、染みになってしまう、」

「何やってんの、一君は、もう、」

総司の怒声も背後の騒ぎも、俺の耳には入らなかった。
言われるまま店の奥へと誘導されながら、客の服を酒で汚したことに動揺する彼女の後ろ姿を、絶句して見つめていた。心のどこかでこの不始末を喜んでいる自分がいる。この奇跡を齎してくれた総司への感謝の念がチラリと過る。





案内されたバックヤードの椅子に腰を掛ける。
目の前で散々詫びの言葉を口にし、俺の上着を膝に置いて袖に濡れタオルを叩きながら、染み取りをする彼女を黙って見つめ続けていた。
店内で流れるBGMが微かに聞こえている。
慌てふためいた店主が現れ丁重に詫びられて、会計は取らずクリーニング代を支払いたいとの申し出を受けたが、元より不注意をしたのは此方の方である。固く辞退すれば、せめて染み取りをしたいとの彼女の言葉で、現在こうなっている。
必死で俺の上着に向かっている彼女の胸には、この店のネームプレートが着けられているが、何度確認してもそこには間違いなく“白川”と書かれていた。
総司達があの後どうしたのかなどという考えは、完全に飛んでしまっていた。
何と言って声を掛けたらよいだろうか。
これを千歳一遇のチャンスと言わずして何と言うのか。
それにしても彼女は俺に気づいていないのだろうか。
様々な想いが胸中を駆け巡るが、何一つ言葉が出てこずに俺は焦った。逡巡を続けるうち不意に鳴ったスマートフォンの振動音が沈黙を破り、心臓がドキリと跳ねる。
それは彼女の膝上の俺のスーツの内ポケットに収まっていた。

「すみません、スマホが…、」

「…あ、ああ、…すまない」

手渡された上着から取り出し、画面を操作すればそれは総司からで、店を出るという内容だった。画面を見下ろしていた俺が顔を上げれば、彼女の瞳がじっと俺を見ていてまた心臓が音を立てる。
我知らず熱の上る顔を再び俯きかける俺に、柔らかな声がかけられた。それは毎朝俺の心を震わせたあの声だ。

「あの、失礼ですけど…、お会いしたこと、ありますよね?」

「………コ、…コーヒーを、いつも…、」

「コーヒー、」

それだけ言ったきり言葉を詰まらせた俺は、彼女の復唱に我ながら何と瑞希領を得ない間抜けな返答をしたものかと、頭を抱えたい気持ちになった。しかし、彼女の次の言葉に舞い上がる。

「そう、そうですよね、やっぱり。毎朝、コーヒーを買ってくださってた…、」

「お、覚えて、くれていたのか…?」

「はい、もちろんです。このお店に入って来られた時から、そうじゃないかって…、」

「そ、そう、か、……お、俺の名は、斎藤と言うのだ、斎藤、一…、」

「斎藤一、さん…、」

彼女が覚えていてくれたことが嬉しくて、上擦ってどもりながら名乗る俺は、完全に可笑しな人間に見えたのではないだろうか。
しかし彼女は花が綻ぶように可憐に微笑んで、俺の名を形のよい唇に乗せた。長い睫毛に縁取られた目の縁が薄っすらと朱に染まったようにも見えた。
初めて目にしたその表情はなんと愛らしいのか。
そして彼女の唇から紡がれる己の名は、なんと甘美な響きを持っているのか。
いよいよ熱くなる頬の熱を持て余しつつ、今彼女の瞳に映っているのが俺一人であるということに、この上ない喜びを感じる。あのコンビニエンスストアでの一時とは違うのだ。
俺を見つめた彼女の目元の桜色に勇気を得て、俺は言葉を唇から押し出した。随分と掠れた声ではあったと思うが、それが俺の精一杯だ。

「あ、あんたの…、」

彼女の透き通った綺麗な瞳が、真っ直ぐに俺を見つめている。

「……白川さんの、その…、下の名を、教えて貰えないだろうか、」

「…瑞希…、です。白川瑞希、」

「瑞希、か…、よい名だな、」

俺は沸騰した脳内で次に続ける言葉を必死で考える。
ずっと見つめていたのだと、もう一度会いたかったと伝えたら、彼女は驚くだろうか。
だが今ならば、きっと言える気がする。
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