願って願って諦めて、それでも捨てられない



道の途中、ぽつんと古びた一つの神社がある。
小ぢんまりとした階段とこれまた小ぢんまりとした鳥居。
巡察経路の途中にあるので俺はその神社の前をよく通っていた。
人の話によればその神社――正確にはその神社の境内に生える桜の木だが、縁結びのご利益があると評判らしい。実際、巡察の折にちらりと見れば噂の桜の木のあたりにぽつりぽつりと人の姿が認められた。
その前を通るときばかりは、隊士たちのみなが判を押したようにきりりとした顔つきになる。
おそらく格好をつけようとしてだろう。というのも、神社を訪れてくるのは、大半が年若い娘達だからだ。男だらけの屯所じゃめったにお目にかかれない町娘の可憐な姿に、神社の前を通るたびに隊士どもは少し浮き足立つようだった。その必死さと男という生き物の馬鹿さに、正直初めて見たときは腹がよじれて古傷が開きそうだった。
いや、俺も男だから女の前で格好をつけたいという気持ちは分からなくもない。
だから隊列の最後尾で気づかれないようにこっそり笑いをかみ殺した。





非番の日、何となしに通ったその日も神社の境内には人の姿があった。
花の盛り。噂の桜の木の前。萌黄の着物。
熱心に手を合わせる娘の姿があった。
すらりとした姿勢のいい立ち姿にどことなく惹かれるものを感じ、気がつけば俺の足は止まっていた。
娘はこちらに向けた横顔を微動だにもせず、じっと手を合わせている。
しばらくして、気が済んだのかその面が上がった。娘は伏し目がちに木の幹をじっと見つめる。
まだ少し幼さを残した面立ちに対し白いうなじにかかった後れ毛が色っぽい。なによりも、散る花弁の紗幕に垣間見える、満たされたような満たされないような物憂げな表情に、心を奪われた。
胸がぎゅっとわしづかみにされたような苦しい感覚に、それと分かった。何度か味わった、しかし今までにはなかったほどの衝動に、一瞬翻弄される。
無意識に一歩踏み出す。
けれど、目の前まで降ってきた桜の花弁を目の端に捉えるなりすぐにはっとした。冷や水をかけられたように急激に頭も心も冷えていく。さっきまで浮き立っていた自分が急に馬鹿馬鹿しくなった。甘く苦しい感覚のかわりに苦々しい想いだけが胸に残る。
踏み出していた足を元に戻し、自嘲の笑みを唇に乗せる。
……遣る瀬無い話だ。
「この女だ」と思い惚れた瞬間に失恋するとは。
以前、笑いをかみ殺すと同時に隊士どもには伝えなかったことを思い出す。
きっと伝えるとがっくりくると思ってあえて伝えなかったこと。
神社に参ってくる娘達は、みな片恋が実るように願いにきていることを。

「こんにちは」

鈴を転がすような声に、ぼんやりしていた意識が引き戻される。はっとして見やれば、ちょうど自分の脇を会釈しながら人が通り過ぎるところだった。
萌黄の着物。
あの娘だ。
上げられた顔が一瞬不安と怪訝の色を宿す。かけた挨拶に返事がないことに対してだろう。
俺は慌てて挨拶を返した。

「あ、ああ。…こんにちは」

浮かべた表情はきっとさぞぎこちなかっただろう。
しかし、苦し紛れに浮かべた笑顔にも娘はほっとしたように目を細めて笑ってみせ、俺の脇を通り過ぎる。
その可憐な笑顔が、今ばかりは胸に刺さった。






あくる日も、はたして桜の木の前に娘の姿はあった。
俺の視線に気がついたのか、手を合わせていた娘の顔がこちらを振り返る。
最初は警戒するような雰囲気がただよっていたが、ある一点でそれが緩んだ。娘の頭が下がり、会釈の形をとる。
すれ違った俺のことを覚えていたようだ。
神社の前を通り過ぎざま、俺も小さく会釈を返した。



次の日も、また次の日も、桜の木の前に娘の姿はあった。
毎日、娘は熱心に通ってきているようだった。
そのことがまた俺の胸を重くさせたが、そう悪いことばかりでもなかった。

「原田さん、というんですね」

すれ違った日からちょくちょく顔を合わせるようになり、俺と娘はあいさつ程度ではあったが会った時にはちょっとした話をするようになった。
娘は名を瑞希といい、近くにある呉服問屋で丁稚奉公をしているのだと言った。

「え!?そうなんですか?」

初めて見たときに浮かべていた物憂げな表情とは反対に、普段の瑞希はささいなことにもよく笑う娘だった。ころころと変わる表情は、見ていて飽きない。また見ている者の心を明るくさせるような笑顔に、いつの間にか俺も笑顔になっていた。
そしてさらに笑わせようと俺は面白いと思ったことを大仰に瑞希に話してみせた。
そのたびに、瑞希は面白そうに笑ってくれた。
ふふふとおかしそうに口に手をあてて笑う姿が、好きだった。
愛おしかった。
大切にしたいと思った。
路傍に積もった桜の花弁のように、日に日に狂おしいほどの気持ちが胸に降り積もっていく。
その一方で、その気持ちに出口が無いことに息が詰まるようだった。





その日はあいにくの雨だった。
傘を打つ雨音に下げていた顔を上げる。
ひらけた視界に、桜雨の中、一心不乱に桜を見上げる娘の姿が映った。
濡れそぼる髪を気にするでもなく、かぼそい首をぐっと上げ目前の桜の木を見上げている。傘も持たずに花を見るその姿は、到底桜に心奪われているようには見えない。痛々しいほどに着物の袖を硬く握り締める手から伝わってくるのは、なにかをこらえる気持ちだ。
微動だにしない彼女の顎の先を雨しずくが伝っていく。ざざぶりでかすむ視界の中、引き結んだ唇が時折わななくのが見えた。
嗚咽の音はない。だが、引き絞られるような胸の痛みがこちらにも伝わってくるようだった。
……かなわなかったのか。
憐憫と安堵が同時に胸にわいた。
可哀想だと思いながらも、俺は瑞希の片恋が実らなかったことにほっとしたのだ。
そんな風に一瞬でも喜ぶ気持ちを持ってしまった自分が、ひどく汚れているように思えた。
弱っているところをつけこもうとしているのは卑怯だと思った。
それでも、伸ばす手を引き戻すことはできなかった。

「瑞希っ……」

名前を呼んで腕の中に小さな身体を閉じ込める。濡れそぼった身体はすっかり冷え切っていた。己の着物が濡れるのもかまわず、華奢な身体を背後から抱きしめる。
びくりと肩が揺れる。しかし、それ以上は何の反応もなかった。
大人しく腕の中に納まる身体を、存在を確かめるようにさらにきつく抱きしめる。

「瑞希」

雨音にかき消されないように、耳元にそっと吹き込むように言う。

「好きだ」

たった一言。
それをきっかけに、積もり積もった感情が堰を切ってあふれ出す。
どうしても手に入れたいと思った。
この女でなければ駄目だと思った。
飢えた様な狂おしいほどの感情を、勢いのままぶつける。

「俺なら絶対にお前を悲しませたりしない。お前のそばにいて、お前を幸せにすると約束する」

俺の方が、ずっとお前のことを幸せにしてやれる。
だから。
「ただお前は、『はい』と言えばいい」

雨音が、鼓膜を支配する。抱きしめた身体に自分の熱がじょじょに移っていくのを感じる。
そうしてどれくらいした頃だろうか。

「……はい」

それはともすれば雨音にまぎれてしまいそうなか細い声だったが、確かに俺の耳に届いた。
おずおずと伏せていた瑞希の顔がこちらを振り向く。
いつもの明るい笑顔ではない物憂げな、しかし美しい微笑み。
その胸には、きっと様々な思いが渦巻いているのだろう。泣いていたということは、まだ片恋の相手への未練もあったのかもしれない。それでも、瑞希は俺を選んでくれた。
俺は吸い寄せられるようにして、瑞希に口付けた。






「にしても、ちゃんとあったな」
「何がです?」

雨上がりの空を見上げながら言うと、隣を歩く瑞希が不思議そうに見上げてくる。
独り言のつもりだったから言う気はなかったのだが、あまりにも熱心に見つめてくるもんだから、俺は根負けして種明かしをすることにした。

「ご利益」

最初はぴんとこない様子だったが、じきに分かったらしい。ああっと声を上げた瑞希に、俺は声をたてて笑った。
願って願って諦めて、それでも捨てられなくて。実らない恋がある一方で、実る恋もある。
一度は諦めかけた想い。

「もう逃がしちゃやれねえぞ」

もう捕まえてしまった。もうこの手はお前に触れてしまった。
するりと指を絡ませながら瑞希の手を繋いだ俺の手を、瑞希が握り返す。

「逃がさないでくださいね」

照れたように笑う彼女。
雲ひとつ無い青空に、薄紅の花弁が舞った。

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どめ様、長らくお待たせしました。
自分ではあまり書かないような内容で、書いている最中も大変新鮮な感覚でした。
片恋でかつ即座に失恋というのはなんとも切ない話ですが、きっと左之さんならあきらめないだろうなと。そして機会があれば一気に畳み込んでくる狼なフェミニストというのが今回のイメージです。
しかし私の書く左之さんはどうにもエロ成分が足りないようでして、それは今後の宿題にさせていただければ幸いです(´・ω・`)
この度は本当にリクエストありがとうございました。

題はcapriccioさまからお借りしました。
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