戯曲の作為


放課後終わり。人気のなくなった校舎の音楽室からピアノの音が聞こえてくる。
そんな怪談じみた話がまことしやかに囁かれるようになったのは、一体いつぐらいのころからだったか。
学校にはつきものな噂の一つであったが、同級生の口にはっきりと登るようになったのはごく最近であったと斎藤は認識している。確か7月の頭あたりか。この時期らしい話ではある。
誰が発端であったのか、誰が広めたのかは分からない。教師たちは学生たちのたわいもない噂の一つだと思っているようだった。斎藤も最初に耳にした時は、くだらない話だと思っていた。
だが、火のないところに煙は立たないのも確かである。定番の怪談が今更になって騒がれ始めたのには、何かきっかけがあったのではないかと、斎藤は同時にぼんやりと考えていた。
それからは、なんとなく音楽室の窓を気にかけるようになった。我ながら柄にもないことをしていると分かっていたが、どうしてだか気になったのだ。
部活終わりに剣道場から2階の音楽室の窓をなんとなく眺めていたとき、沖田に「はじめ君気になるの?」とにやにや顔で問われ、肘鉄をあっさりかわされたことは余談だ。
しかし、噂が広まるにつれて夜の音楽室からピアノの音を聞いたという者はだんだん少なくなり、斎藤も夏休みに入る頃にはやはり単なる噂話だったかと思い始めていた。

「あ、はじめ君が最後?」

男子更衣室で剣道着から制服に着替えていると、入口からひょっこりと沖田が顔を出した。
沖田は制服にすでに着替え終えた後で、剣道場の鍵を片手にぶら下げている。
斎藤に近づいてきた沖田は言う。

「今日用事あって僕先に帰るから、はじめ君職員室に鍵戻しに行ってもらってもいい?」
「ああ」

断る理由もなかったので二つ返事で斎藤は頷き、鍵を受け取る。不意に視線を感じて顔を上げると、沖田がにやにや笑いながらこちらを見ていた。
嫌な感じがしてちょっと眉間に皺を寄せてみせると、沖田が口を開く。

「はじめ君、夜の学校は危ないからね。……間違っても綺麗なピアノの音色に惹かれて音楽室に入っていっちゃダメだよ?」

「こわーいお化けがでるかもしれないからね」だらりと両手の指から力を抜けさせてぶらぶらと振ってみせる総司。

「そうか。ではあんたも早く帰るといい」

明らかにからかわれていると分かり、斎藤は無言で沖田を男子更衣室から容赦なく追い出した。

――とはいえ、沖田の言うことにも一理あり、夏休みでとくに閑散とした校内には不気味な静けさがあった。暮れなずむ斜陽の橙色の光が、廊下と自分を染め上げる。夏だから日が長いといっても、もう数分もすればあっという間に日が暮れる。
剣道部以外に部活を行っていた野球部もすでに帰ったあとで、窓の外から見えるグラウンドも静かなものだ。昼間あれほど聞こえていた蝉の鳴き声も遠い。ただ、廊下を歩く自分の足音がかすかになるだけだ。きゅっきゅという学校指定のスリッパの音がわずかに反響して耳に届く。
廊下の角を曲がったところで、職員室が見えてきた。誰かいるのか、職員室入口の扉から明かりが漏れている。その明かりを見た瞬間、ほっとしている自分を感じるとともに、斎藤は猛烈にばつが悪くなった。
………総司に言われたから、気にしているわけではないぞ。
苦虫をかみつぶしたような顔になりながらひと声かけて職員室の扉をくぐり、入口付近の鍵かけに鍵をかける。ついでにまだ残っていた教師に挨拶をすると、斎藤は職員室を後にした。
靴箱のある中央玄関は、コの字型の校舎の東棟と西棟をつなぐ中央棟の階段から降りたほうが早く行ける。東棟と中央棟のつなぎ目にあたる角を曲がり、斎藤は中央棟に差し掛かる。そこで、ポーンという音を聞いたような気がした。
はっとなって斎藤が顔を上げて耳を澄ませてみると、ほんのかすかだが澄んだ音色が聞こえてきた。弦や打楽器、吹奏楽器などの音ではない。ささやかだが胸に迫るようなこの音は、ピアノの音だ。しかも音がするのは今いる中央棟のもっと奥。
知らず斎藤は眉をひそめた。
西棟の音楽室か。
そこしか心当たりがなかった。
行くべきか、行かざるべきか。斎藤は一瞬迷った。頭の中に子供に言いつけるかのような沖田の言葉が浮かぶ。

……間違っても綺麗なピアノの音色に惹かれて音楽室に入っていっちゃダメだよ?
こわーいお化けがでるかもしれないからね。

くだらん。
斎藤は首を振ることでそれを打ち消した。もし残っている生徒がいるならば、風紀委員も務める立場としても早く帰宅するように促すべきだ。
斎藤は再び廊下を歩みだした。
西棟に入ると、音はますます大きく響くようになった。
どこか物悲しさを感じさせる旋律だ。しかし、訴えかけてくるようなものがる。束の間、斎藤は旋律に聞き惚れた。
音楽室の入口の扉が少し開いている。なおも音色は途切れない。
ほんの少し逡巡して、斎藤はしかし音を立てないように入口の扉をそっと横に滑らせた。これほど美しい音色の邪魔をするのが、はばかれたのだ。
そして中の光景を見た瞬間、斎藤の頭からは沖田の言葉などすっかり消え去っていた。
鮮やかな橙色の光に染まった部屋の中、黒々としたグランドピアノの前に誰かが座っている。
ほっそりしたシルエットと長い髪、夏服の形からしてそれがこの学校の女子生徒であることは間違いなかった。女子生徒の極端に薄い色素の髪が夕日に透けてきらきらとして見えるのに、斎藤の目は惹かれた。窓から吹き込んだ風がふわりとカーテンを膨らませ、彼女の髪を揺らす。
クライマックスに差し掛かった旋律がより高く澄んだ音色を響かせる。その光景に生徒たちが噂しているようなおどろおどろしさはまったくなく、むしろ幻想的といえた。無骨な方だと自負している斎藤だが、思わず見とれ感嘆の吐息が漏れそうになったぐらいだ。
斎藤が見入っているうちに、いつの間にか曲は終わりに近づいてたようだ。
ゆっくりと消えいくように音が小さくなり、やがて最後の一音がじんわりと空気ににじんでいくように消えていった。音が、止む。静かになった音楽室の様子に斎藤ははっとした。
それと同時に、顔を俯かせていた彼女の顔が上がった。
色素の薄いまつげの下の、これまた色素の薄い瞳が、斎藤の姿を捉える。斎藤と彼女の視線が絡みあった。
途端。彼女の目がみるみる見開かれていき。

「き、」

き?

「きゃーっっ!!!!!!」

斎藤は女子生徒の大声に驚きたじろいた。
叫び声をあげた女子生徒はというと、一目散にピアノの椅子から半ばすべり落ちるようにして降りるや、ピアノの椅子の下にもぐりこんだようだった。
ピアノの椅子の脚をしっかりと掴み、小さく丸められた背中が、ピアノの下を覗き込んだ斎藤の目にはしっかりと映っていた。もちろん、その後ろ姿がぷるぷると震えている様も。
ど、どうすればよいのだ!?
いきなり怯えられたことに斎藤はひどく狼狽し、おろおろとした。
しかし、足元に伸びる自分の黒々とした影を見た瞬間、ある予想が頭をよぎった。女子生徒の側からは、こちらはちょうど逆光になっていた。だから自分の顔や姿は黒く塗りつぶされてよく見えなかったのではないかと。
よくよく耳をすませば、女子生徒は「悪霊退散、悪霊退散、悪霊退散……」とかぶつぶつ呟いている。
………つまり、斎藤は彼女に幽霊と勘違いされているようだった。
それが分かるやいなや、斎藤はおろおろとしていた気持ちが落ち着き、すとんと肩から力が抜けるのを感じた。ようは脱力したのだ。
ピアノを弾く幽霊とも噂されている少女に、よもや自分のほうが幽霊扱いされるとは。

「おい」

ため息をつきながら斎藤はピアノの下に潜り込み、椅子の下に潜む女子生徒の肩をつかんで揺らす。
最初こそびくりと肩を跳ねさせ、身を固くしていた彼女だったが、幽霊にしては生々しい感触だと思ったのか、やがてゆっくりとこちらを振り返った。
滲んだ涙に濡れた長いまつげ。それに縁どられた目が数度ぱしぱしと瞬いた。

「…あれ?」

心から湧いたような疑問の声。
わかりやすい反応に、小動物のようだと思いながら斎藤はこたえた。

「…俺は幽霊などではない」

ぶしつけな態度をとられ、少々憮然とした声になった斎藤の言葉を聞いた瞬間、女子生徒の顔がさーっと青くなっていく。
おそらく先輩を幽霊と間違えた挙句、叫んだことに対してとんでもなく失礼なことをしてしまったと思っているのだろう。事実そうなのだが。
夏服のポケットに刺繍されているラインの数からして、女子生徒は斎藤よりも1学年下のようだった。
実際、斎藤のその予想はあたりだったようで、次の瞬間彼女はものすごい素早さで立ち上がると斎藤に向かって頭を下げた。

「ご、ごめんなさいっ!!!」

そしておそるおそるといった様子で見上げてくる。
随分弱々しい幽霊もあったものだと、斎藤はため息をついた。

「もう下校時刻をとっくに過ぎている」

日が暮れた音楽室は、もうすっかり薄墨色に染まっていた。そろそろ残っていた職員も帰る頃だろう。その前に学校をでなければ。
女子生徒もあたりの暗さに気がついたようで、「!もうこんな時間」と携帯電話の時間表示を見て驚いた様子だった。どうやら無心で今まで弾き続けていたようだ。
譜面台に置いていた譜面を慌てて片付けはじめた女子生徒の背中に向かって、斎藤は言う。

「女子一人で出歩くには危ない時間帯だ。家まで送っていこう」

かけられた言葉に、女子生徒は目を見開いて後ろを振り返った。
そう言われるとは思いもよらなかったが、内心ではありがたい申し出だと思っている様子が表情から伝わってくる。
けれど、斎藤は良心だけからそう言ったわけではなかった。

「…その代わり、何故こんな時間にこんなところに居たのか。帰り道でじっくり聞かせてもらおうか」

有無を言わさぬ斎藤の言葉に、女子生徒はがっくりとうつむきながら「…はい」と頷いた。



女子生徒は、1年C組の白川瑞希と名乗った。
それは、女子生徒の顔を見た時から斎藤も薄々気づいていたことだった。
白川は薄い色素の目と髪に、日本人にしては彫りの深い顔立ちをしている。街灯に照らされた肌の色も黄味がかったものではなく、透き通るような白だ。おそらく両親のどちらかが外国人なのだろう。
初夏の終わりに1年にオーストリアから帰国子女の転校生が入ってきたという話を、斎藤も沖田から聞かされていた。だからそうかもしれないと思っていたが、斎藤の予想は当たっていたようだ。
まぁ、それは置いておくとして。

「何故あんな時間に音楽室でピアノを弾いていたのだ?」

今まで黙って歩いていた斎藤が喋り掛けてきたからか、それとも質問された内容が白川にとってまずかったからか、はたまた両方なのか。白川は思い切りよく肩をはねさせた。気まずそうに顔まで逸らす始末である。
音楽室での反応といいい、何か後暗いことがあるような様子だ。もしそうならば、なおさら聞き出せばならぬだろう。風紀委員としての使命感が、斎藤のなかで首をもたげた。

「吹奏楽部に言って貸してもらえれば、昼間にでも弾けるだろうに」
「…貸してもらえれば、こんな苦労しませんよ」

ぼそりと呟かれた言葉はしかし、しっかりと斎藤の耳に届いた。
前を向いていた視線を横に向ければ、唇を少し尖らせた白川が横目で自身を見上げていた。

「もうすぐ、ピアノのコンクールにでないといけないんです。私」

突然切り出されたものだから、なんのことだかよく分からなかったが、斎藤は白川の言葉を辛抱強く待った。

「でも運悪く家に置いてあったグランドピアノが壊れてしまって…代わりにアップライトピアノで練習しているんですが、コンクールに使うのはグランドピアノなのでどうしてもそれで練習したかったんです」

白川の言葉に、斎藤は音楽室に置いてあった大きなグランドピアノを頭に思い浮かべた。そして、小学校の音楽室に置いていたアップライトピアノとかいう背の高いピアノを思い浮かべる。
形は違えど、同じ鍵盤のついたピアノであることには違いない。斎藤には、白川がどうしてもグランドピアノを使いたいという理由がよく分からなかった。

「…どちらも同じピアノではないのか?」
「全然違いますっ!まったく違いますっ!!」

ぶんぶんぶんと猛烈に首を横に振る白川。ものすごい勢いで否定された。

「そ、そうか」

あまりの勢いにさしもの斎藤もたじろいた。そんな様子の斎藤に、ため息を吐きながら白川は続ける。

「それで吹奏楽部の顧問の先生にもお願いしてみたんですけど、ちょうどそっちも吹奏楽のコンクールに向けて練習の真っ最中で……」
「貸してもらえなかった、ということか」

斎藤が白川の言葉の続きを引き受ければ、頷きが帰ってくる。

「でもどうしても練習したかったから…それで音楽室に幽霊が出るって噂を流して、夕方吹奏楽部のいなくなった後で練習してたんです」

言葉は最後に行くにつれて消え入るような音になり、最後は蚊の鳴くような声になった。

「…つまりはこういうことか?誰にも邪魔されないよう、また見とがめられないように幽霊が出るという噂を流してピアノを弾いていた、と」
「すみません」

咎めるような斎藤の声音に、白川は身をすくませる。しょんぼりして縮こまる様子は小動物のようだ。
だが、噂を流してうまく人払いなどをするあたり、見た目に反して白川は大胆かつなかなかしたたかな性格をしているらしい。
噂通りのピアノの音を聞いた瞬間、ほんの少し緊張してしまった身としては、まんまとはめられたようでいささか面白くない。

「あ、あのっ…このことは……」

むっつりとして黙っていると白川がわたわたとうろたえたように声をかけてきた。斎藤が教師などに話しやしないか、気が気でないという様子だ。実際、斎藤も教師にこのことを話そうかと考えていたところだった。
しかし、白川が別段何か迷惑をかけたというわけではないし、何か壊したわけでもない。強いて言えば、噂を流したことぐらいだろうか。
しばらく黙って考えていた斎藤だったが、やがて口を開き、

「…今回のことは先生たちには報告しないでやろう」

言葉を聞くなり、白川は顔を輝かせる。
しかし、それは一瞬のことだった。

「だが、今後音楽室には勝手に入らないように」

斎藤が釘を刺すなり、ぶすっくれた顔になったからだ。

「嫌です」

間髪入れずにふくれっ面の唇から、かたくなな声が飛び出す。
噂を流すという策を弄するあたりから一筋縄ではいかないと思っていはいたが、やはり白川は見た目通りの性格をしていないようだ。
再度斎藤が「駄目だ」と言うも、帰ってきたのは「嫌です」の一言のみ。
大概の者は有無を言わせぬ斎藤の言葉に従うが、白川はそうではなかったということと、少し脅かされて悔しかったことが火をつけたのだろう。一切ひかない様子の白川に、斎藤もだんだん意地になってきた。

「駄目だ」
「嫌です」
「駄目だ」
「嫌です!」
「駄目だ!」
「嫌です!!」
「駄目だ!!」
「嫌です!!!」

しまいにはお互いに声が大きくなって息切れがしてきた。ぜーはーぜーはーと肩で息をしていると、斎藤はふと視線を感じた。後ろを振り返ってみると、コンビニ帰りらしい若い男がビニール袋を片手にじっとこちらを見ていた。そして斎藤と目が会うなり、さっと目をそらしそそくさとどこかへ行ってしまう。内心、斎藤は冷や汗をかいた。己が往来でどれほど醜態をさらしていたのかに、今やっと気がついたからである。柄にもないことをしていると、常にないことをしている自分に対して頭が痛くなった。隣を見るも、白川は相変わらず臨戦態勢で「まだやるのか!?コラ!!」という視線で斎藤を見上げてくる。それに、この様子ではきっと先生方に報告したとしても白川はやめないだろうという気がした。
結局、先に折れたのは斎藤だった。

「…分かった」
「い…!?へ?」

また駄目と言われると思っていたのだろう。ため息混じりに斎藤が言った言葉に、白川は驚いたように目をまんまるに見開いた。まぬけな声が口から漏れている。
ころころとよく表情の変わる娘だと思いながら、斎藤は「ただし」と続ける。

「夕方一人で校内に残っているのも、夜に帰るのも危ない故、俺がつきそおう。…それが先生に黙っててやるための条件だ」

これ以上の譲歩はない、という思いを視線にこめる。
さすがの白川もここらへんが引き際だと思ったのか、「…分かりました」と不承不承ではあったが頷いた。
これが、俺と白川の奇妙な音楽室通いの始まりだった。

どうやら白川は吹奏楽部が夜遅くまで練習する日を除いて、夕方音楽室にこっそりやってきてはピアノを弾いているらしい。噂が加熱しすぎたときはわざわざ肝試しにやってくるものも出てきて、少々広めすぎたと思い控えていたらしいが、ようやく落ち着いてきた最近はまたピアノを弾き始めたのだとか。
ほぼ毎日やってくる白川に、斎藤も部活の練習が終わった後に音楽室へ行って、白川の練習に付き合った。
白川と揉めたあの夜の後で聞いた話だが、吹奏楽部の顧問は白川がこっそり音楽室を使っていたことに気がついていたらしい。白川の練習が終わったあと、白川を先に行かせてこっそり職員室に鍵を戻しに行ったとき、偶然遭遇してしまったとき苦笑されながら教えられた。「斎藤君がついているなら、大丈夫だろう」とも。
というわけで、名実ともに白川のお目付け役兼家への送り役となった斎藤は、今日も音楽室へ来ていた。
白川はもう来ていたようで、音楽室からピアノの音色が漏れ聞こえてくる。
はじめて会った時とは違う旋律に興味を覚えながら、邪魔をしないようそっと音楽室の扉を開けてくぐる。音が大きくなった。
グランドピアノの前には、一心不乱にピアノを弾く白川の姿があった。集中しているようで、近づいてきた斎藤に気づく様子はまったくない。
曲に合わせて白川の表情も変わる。楽しそうに、時に切なそうに。
白川の白い指が鍵盤の上を滑る度にあまたの澄んだ音が生まれ、複雑に絡み合い、胸に迫ってきた。切なく甘いメロディに、爪でやわくひっかかれるような苦しさが胸に沸き起こる。
音楽にはまったく詳しくない斎藤だったが、白川が上手いことは感じられた。そして、白川がピアノを弾くのがとても好きなことも。
やがて最後の一音の余韻が消えた頃、いつも白川はやっと斎藤の存在に気が付くのだ。

「あ、斎藤先輩」

主人が帰ってきたのを喜ぶ犬のようにぱっと顔をあげた白川に、ちょっと嬉しくなりながら斎藤は頷いてこたえる。

「今日のはいつもと違う曲だな」

思っていたことを率直に聞いてみると、うろたえたような声が返ってきた。

「え、ええ。たまには息抜きに別の曲も弾いてみようかなって」

白川はそそくさと楽譜台に開いて置いていた楽譜を片付ける。挙動不審極まりなかったが、白川が変なのは今に始まったことではないので、斎藤はとくに気にとめなかった。

「そうか」

だが、本当を言うと少し惜しい気がした。とても美しい曲だったのに、と。
名残惜しさを感じていた斎藤だったが、やがて白川がまたいつもの曲を弾き始めるとそれもだんだんなくなった。白川がピアノを弾く様に、気が惹かれるようになったからだ。
嬉しそうにピアノを弾く白川の姿が、斎藤は好きだった。


―――思わず目が奪われる。それが放課後以外のときでも起きるようになるのには、時間はほとんどかからなかったように思う。
校内で白川の姿を見かけると、目が釘付けになっていて、いない時でも、いつの間にか目が白川の姿を探しているのだ。どんなときでも、脳裏に嬉しそうに笑う白川の姿が浮かんでくる。そしてそれを思い浮かべると、決まって胸の奥がぎゅっと鷲掴みにされたようになった。
それを沖田に相談するとひどく笑われて、「恋わずらい」だと言われた。沖田に言わせると、自分は白川に恋をしているのだという。最初はそんなまさかと思った。
けれど思い返せば思い返すほど、だんだん白川に惹かれていっている自分の姿があり、自分に対して言い逃れできないようになった。自覚すると、ますます想いは募っていった。
その一方で、白川の出場するコンクールの日はどんどん近づいてくる。コンクールが終われば、白川とあの音楽室で会うことはできなくなる。一緒に帰ることもできなくなる。なにより白川に会うための口実が、なくなってしまう。
そう分かっていてもなかなか言い出せず、そうこうしているうちに、ついに最後の日がやってきた。

「こんばんは、先輩」

その日も、白川はピアノの前に座っていた。
ただいつもと違うのは、真っ先に斎藤に気がついたことだろうか。白川は、ピアノを弾いていなかった。
まるで自分が来るのを待っていたかのように、ピアノの蓋の向こう側から微笑む白川の姿に、斎藤は瞠目すると同時にこれで最後なのだと思った。きっと世話になったと言いたかったのだろう。
次に白川の口から出た言葉は、斎藤の予想通りだった。

「ほら、今日で最後だからちゃんとお礼を言っておきたくて」

照れ隠しかおどけたように言う白川の姿は、しかし少し寂しそうに見えた。そう思ってくれているなら嬉しいと、斎藤も思う。

「わがままに付き合ってくださって、ありがとうございました」

無茶を言っているという自覚は、どうやらあったらしい。斎藤は微苦笑するとともに、告げられた言葉に感謝の気持ちが込められているのを感じ取り、嬉しく思った。
だが、それが別れの言葉なのだと思うと辛かった。これで接点がなくなってしまうのだ。
何か答えてやらなければと思うのだが、そう思うほどにうまい言葉が見つからない。まごついている間に、沈黙が二人の間に横たわってしまった。
窓から吹き込んできた風に、ふわりとカーテンの裾が膨らむ。どこからか風に揺らされた木々の葉擦れの音が、かすかに聞こえてきた。
折しも時は夕暮れどき。
まるではじめて白川に会った時のことのようだと、斎藤は顔を夕陽色に染めながら思った。もし足りないものがあるとすれば、それは。
ピアノの音。
斎藤がそう思った瞬間、耳に飛び込んできたのは紛れもなくピアノの音だった。
やわらかな音色が響いてきているのは、ちょうど目の前に置かれたピアノからだ。
白川がピアノを弾いている。それはいつぞやか、息抜きだと言って白川が弾いていた曲だった。
斎藤は呆然として赤色に染まるその姿を見つめた。
切なげに、けれど嬉しそうに弾く姿に、鼓動が大きくなる。いつの間にかこれほど飲み込まれてしまっていたのだろうか。
胸が、苦しい。
笑った顔も、怒った顔も、拗ねた顔も、嬉しそうな顔も、切なげな顔も、屈託がない性格も、ときどき変な行動をするところも―――すべて好きだ。
白川が、好きだ。
ほとんど無意識に胸のあたりのシャツをつかみ握りしめる。
いつの間にか曲は終わっていたようで、また元の静寂が音楽室の中に戻ってきていた。
夕陽が沈んだ後の部屋のなかは、群青色に満たされている。斎藤の高ぶっていた気持ちも、冷えていくようだった。
想いを告げたいという気持ちと、白川の気持ちが分からないのに告げてどうなるという畏れがぶつかり、また斎藤の口を重くさせる。
今しかないだろうに。
そんな斎藤の心中を知ってか知らずか、沈黙を破ったのは白川だった。

「『献呈』」

ぽつりと呟かれた言葉が静かな部屋の中に響く。

「…けんてい?」

突然の言葉と意味のよく分からない単語に、斎藤は思わずオウム返しする。
薄暗闇のなか、白川はほんの少し笑ったようだった。

「有名な作曲家がその妻に贈った熱烈な愛の歌を、ピアノ用に他の作曲家が編曲したものです」

曲の説明をする白川の言葉に、斎藤はさっき聞いた曲のことを思い出す。恋の曲だと言われてみると、たしかにそんな気もしないでもない。
一人納得して頷く斎藤に投げかけられた言葉は、なぜか冷たかった。

「……分からないんですか」

今度聞こえてきた白川の声は、いささかげんなりしているように聞こえた。じとっとした視線さえ感じる。
何かそんなに失望させるようなことをしただろうか、自分は。首をひねる斎藤に、白川はじれたように「ですから」と言う。

「好きです、って言っているんです」

尻すぼみになった言葉はしかし、しっかりと斎藤に届いた。
白川が、俺のことを好き…?
言われてしばらくは理解できなかった斎藤だったが、じょじょにその言葉がしみてきて、にやける顔を見られまいと咄嗟に口に手を当ててそっぽを向いた。
薄闇で分からないだろうに、そのときは完全に舞い上がってしまっていて、そこまで頭が回っていなかったのだ。

「…本当、なのか?」

おずおずと聞く斎藤に、蚊の鳴くような声で「はい」と白川が返す。
そこでやっと斎藤は入口の方からピアノの方へ近づいた。白川は薄闇の中、ピアノの椅子の上に両足を抱えるようにして座っていた。小さい顔は膝小僧に埋められている。

「………最初はピアノが壊れたからって言ったんですけど、あれ、本当は嘘です」

斎藤が近づいた気配を感じたのだろう。白川はぽつりとこぼした。

「ずっと喧嘩してるんです、親と」

斎藤は、じっと白川の言葉を待った。

「私の両親って有名な演奏家なんです。だから、コンクールでも一番をとれって言われてて。家で毎日毎日レッスン漬けで。…嫌気が差してたんです」
「それで、学校に練習しに来ていたのか」

こくりと白川の頭が揺れる。

「家にいたら嫌いになりそうだったんです、ピアノが」

悲痛な色の声だった。よほど辛かったんだということが伝わってくる。
「でも」と白川は続けた。

「今は違います」

そっと白川の腕が持ち上がり、斎藤の手をつかんだ。膝小僧からあげられた顔は、笑顔を浮かべていた。

「先輩がいたから、また好きになれた」

「”うまい”って、”綺麗だ”って言ってくれたとき、本当に嬉しかった」白川に言われた言葉に、斎藤は思い出すことがあった。
あの時のことか。
白川の練習に付き合い始めるようになってしばらく経った頃、一度だけそう言ったことがあったのだ。白川はそのことを覚えていたらしい。本人はすっかり忘れていたが、白川にとってはそれが支えになっていたようだ。
思い返せばたしかに、それまでは淡々と弾くばかりだったのに、その頃から弾いている白川の表情が豊かになっていったように思う。
思わぬところで自分は白川に変化を与えていたことを知り、斎藤は嬉しくなった。

「先輩、好きです」

ぎゅっと手をつかみながら腕に顔を押し当ててくる白川の声は、少し震えていた。拒絶されるのを畏れながら、それでも必死に想いを伝えてくる白川の姿に、斎藤は愛おしさを感じた。
いてもたってもいられず、椅子の上の白川を強く抱きしめる。

「ああ、俺も好きだ」

熱にうかされたように、熱い吐息とともに言葉が滑り出す。そっと白川の顔を膝の上からあげさせると、うるんだ目とぶつかった。
自分と同じように熱い吐息が漏れ出る赤い唇に、斎藤はそっと唇を落とした。








1週間後、斎藤のもとに嬉しい知らせが届く。
それは瑞希がコンクールで入賞したという知らせだった。結果は堂々の1位。
斎藤は携帯電話の画面を見ながら、微笑んだ。後でお祝いをしてやらなければ。
そう思い席を立ち上がりかけ、ふと耳を澄ませる。向かいの西棟から、ピアノの音が風に乗って聞こえてくる。

「上手ね」
「誰が弾いているんだろうな」

それが件の幽霊騒ぎの張本人だとも思わないクラスメイトたちは、口々にそんなことを言う。
あれほど不気味がっていたクラスメイトたちが手放しで褒める様子が、事情を知っている斎藤には面白かった。それが思わず顔に出ていたのだろう。

「何だかはじめ君楽しそうだね。何かいいことでもあったの?」

前の席の沖田が振り返ってきて言う。
斎藤はどう答えようか少し考えて、こう答えた。

「さぁな」


それはある夏の、二人だけの秘密。


*****************************

カナタ様、長いあいだ大変お待たせいたしました。
ピアノに日墺ハーフ主人公という素敵な設定を頂き、よし素敵な曲を登場させるぞ( ノ゚Д゚)と色々ドビュッシーやらバッハやらの曲をひっくり返しリストが編曲した「献呈」を使うことにしました(とても素敵な曲なので、クラシックが好きな方はぜひ一度聞いてみてください)。
あとは今が夏なので季節感に合わせて幽霊ネタを掛け合わせ。
幽霊が出ると噂を流して人払いをするというのが出てくるのですが、実はこの話にはネタ元があったりします。昔の部活の先輩の弟が実際にやったらしいのです。伝聞なので事実かは分かりませんが、今でも本当だったら面白いなと思っております。
序盤はばたばたと、後半はしっとりと。楽しんでいただけたら幸いです。
リクエストありがとうございました!

※お題は「capriccio」様からお借りしました。
ALICE+