お前は車の趣味が悪い、と元カレに言われたことがある。でも、私はその批判を気にも留めなかった。愛車というものは、一人のためだけに存在するものだと考えているから。
所有者の家族や恋人を何人も乗せた車でも、真の主人、友人となるのは所有者のみである。例に漏れず真っ赤なジュリエッタは私だけの愛車であり、彼の愛車ではなかった。

キーを握る私の手は震えていたが、ジュリエッタはエンジンを吹かせてくれた。美麗な曲線に似合わない、相変わらず勇ましい音だ。つかの間の安心感を覚え、ハンドルを握った。その手がジュリエッタに似た鮮烈な色をまとっていること以外、何の変哲もない。
大丈夫。いつものドライブだ。
そう言い聞かせて駐車場を後にした。感傷に浸る間なんてあるはずがなかった。



サイレンが近くなって右折した。道変更はこれで9回目になる。火事でもあったのだろうか。サイレンが途絶えている時間の方が少ない。大通りをパトカーと消防車が交互に通り抜けるものだから、彼らのために道を開けなければならない。迷惑な大名行列だ。混乱に合わせてクラクションと怒号も増えてきた。
結局、私は大通りを行くのを諦めて裏道を行くことにした。高速には当分乗れそうもない、とため息をつきながら左にハンドルを切る。権力に屈することには慣れていたし、長いものに巻かれるのは得意だった。

お気に入りの歌手の新曲が流れる。マイナーな彼らの曲をセレクトしてくれたラジオパーソナリティに感謝をして、ジュリエッタとワルツを踊る。終わり良ければ総て良し。晴れやかな気持ちで一日を終えることが出来れば、どんな嫌なことがあっても、その日は“良き日”なのだ。
〈速報です。現在、連続強盗殺人犯が…〉

アナウンサーの冷えた声が割り込んできた。右手を伸ばしてつまみをいじる。が、流れてくるのは野球の中継、CM、どうでもいい会話ばかりだった。音楽系ラジオはやってないのか、と心の中で悪態をつきながらつまみをいじるのに必死になっていた。

ドシャッ。

だから、急ブレーキを踏むのも遅くなった。これは言い訳にはならないだろうか。

愛車を飛び出して見ると、男が車の前でうつ伏せになっている。両手を地面に這わせて足を投げ出している男は、まさに倒れているという感じだった。ヘッドライトはそんな彼の倒れっぷりを、まざまざと照らしていた。

「ごめんなさい…生きてますか?」

じんわりと汗を額に浮かべ、陳勝な質問をした。どうしよう私、またやっちゃったのかな。でも生きてなかったら、この質問無駄だよなあ。

「うん、生きてるよ。だから責任取って車乗せて」

意味不明な返事をされて私が戸惑っている間に、額から赤い汗を流す男はぴょんと起き上がった。待って、と私が言う前に彼は後部座席に乗り込んでいた。

しまった。当たり屋だ。

私はヒールが脱げるのもお構いなしに走った。運転席だけはダメ。渡さない。その一心だった。

「運転席取られたよ、アズール」
「意外と肝が据わった方のようですね」

ハンドルに埋めた顔を上げると、しばらく使っていなかった後部座席に男が二人座っていた。彼らは同じ顔に同じ笑みを浮かべていた。ドッペルゲンガーって本当にいるんだ。
鏡写しのような人間にぼうっと見とれていると、左の方から滑らかな声が発せられた。

「ではお嬢さん。これを」

助手席に座る眼鏡の男の左手には拳銃が、右手には真っ白なハンカチが握られている。どちらも私へのプレゼントらしい。

「まず、その手についた血を拭きなさい。私は潔癖なんです」
「拭かなかったら?」
「残念ですが、この車内にさらに血が付着します」

もう車内を血だらけにするのはごめんだ。
私は大人しくハンカチを受け取り、手に着いた赤を丁寧に拭った。頭にくっつけられた冷たいものはアイスだと思うことにする。
貸してくれてありがとうございます、と言おうとしたが寸でのところで思いとどまった。そういえばこの人潔癖って言ってたっけ。洗って返さないと頭ぶち抜かれるかもな。

「さあ、早く出して下さい」

底なしの冷たさを持ちながら、さざ波のような声。そう思いながらハンカチをそそくさとポケットに突っ込み、裸足でアクセルを踏んだ。
ジュリエッタの光沢が荒んだ夜道に浮き上がっていた。

血は立ったまま

豊穣の彼方