小さな湖上でカエルやフラミンゴが、「人魚姫にキスを」と王子に歌いかける。幸せたっぷりの音楽に包まれながら、王子と人魚姫は目を合わせたり、合わせなかったり。二人乗りの小舟が夕日にユラリと揺れている。あれは良い映画だったような気がする。

終わりのない暗闇と赤い海。沈みかけの小舟。風一つなく立ち込める腐臭。それが心底心地良い。あの色彩豊かなワンシーンよりも、私にはこちらの方が性に合っているみたいだった。

「還りましょう」

ジェイドはほんの少し眉を歪めている。まるで子どもを宥めるようだった。そうだね、あなたの性には合わないかもしれない。第一、髪が青すぎる。

「どこへ」

たったの三文字。なのに、一音を発するたびに呼吸が乱された。全力疾走をしたわけでもないのに身体中から汗が溢れる。汗は拭われる前に手に滲む赤と混ざっている。透明度が減っていく掌をじっと見た。視界がぼやけているのかもしれなかった。

「オールないね」

私の声は僅かに震えていて、波に伝っているのが分かる。赤く透明な手ときめ細かな手はどちらともなく触れ合っていた。何の温度もなかったことが、溶け合う世界を感じさせた。

大丈夫。辿り着く場所は無いけれど、あなたはきっと王子のように溺れたりしない。この腐臭の中で海の香りをまとっているあなたは、人魚姫なのだろうか。



私は小舟を蹴り上げて赤に飛び込んだ。小さな水飛沫が上がった。この海に起きた最初で最後の大波だ。

沈むことで、呼吸を知らずに生きていた頃に戻れる気がした。私にとって最初で最後の幸せの記憶。そうだ、あの頃は膝を丸めてたっけ。私は記憶に従ってよいしょと膝を抱え込んだ。小舟の影がぐんぐん遠ざかっていった。体育座りというものは、沈むためにあるのかもしれないと思った。

「今度は正しい方を選んだのですね」

随身と地上から離れているはずなのにジェイドは耳元でそう囁き、縮こまる私の足を自由にした。私を解放した手は船の上で覚えた感触とは違い、とてもゴツゴツしている。何故だろう。そもそも、あの映画はこんな結末だっただろうか。

私は水の中の現実を見るために目を開けた。

Kiss The

豊穣の彼方