株式会社こよみ。十二もの事業を抱え、急成長し続けている有数の大手大企業。ビルが丸々ひとつ会社のもので、一階から十二階まで、各事業部が入っている。少数精鋭、実力主義を謳うこの会社。各事業部が独立していて、各部の部長はほぼ他の会社で言う社長と言っていい。そしてその下に組織されている、事業部を実質動かしているのが事業室。事業室は次期部長、まあつまりは社長の椅子に座ると言っていい人たちが動かしている。ここ数年のこよみの成長は著しく、室長たちの手腕が話題になっている。

「ハナレさん、お世話になりました」

「ああ」

亥事業部事業室・ハナレ室長。他社対応、自社スタッフの育成を主に行っているこの事業室で、わたしは一年間育成と研修を兼ねて働いていた。いわゆる秘書的な役割を全て叩きこまれ、頑張って頑張って、一年で室長補佐の役目を頂戴した。そうして今日は、亥事業室最終日。実力を買って貰って異動になるのは素直に誇らしいけれど、厳しく優しくわたしを育て上げてくれたハナレ室長と離れるのはやっぱり寂しい。

「…お前はよく頑張った。どこの事業室に出しても恥ずかしくない」

「や、やめてください。泣いちゃいます」

ふ、と笑うハナレさんはわたしの頭をそっと撫でてくれた。ハナレさんの長い髪からふわりといい香りがして、この香りを毎日嗅ぐことはもうないのかと思うと余計に寂しくなった。

「頑張ったコトカにプレゼント」

「やめてください泣きますから!!」

しまいに結局泣いたわたしをハナレさんは珍しくおかしそうに笑って、「何かあったら相談しろ」と撫でてくれた。同じビルの中にいるのだから、会うことはそれほど難しくはないはずだ。

プレゼントはシャンプーとコンディショナー、ヘアケアセットで、値が張ってしまうことは一目瞭然だったので思わず個人的に連絡した。返事の返ってきた画面には、「では今度おいしいきな粉もちでもご馳走してくる」のあと、一文字だけ「れ」と送られてきた。誤字が少なくないのはハナレ室長のかわいいところである。

その晩は早速そのプレゼントを使って、あまりの香りの良さに明日からも頑張ろう、と期待を新たにして、早めに布団に潜り込んだ。枕に沈み込んだ髪からは、ハナレさんと同じにおいがした。

「未事業室は、っと…」

どきどき暴れる心臓を抱えて、エレベーターに乗り込む。同じビルの中とはいえ、わたしは亥事業部以外のところに出入りした回数は多くない。雰囲気の違うところへ向かうのにはやはり、それなりの緊張が伴うものだ。

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未事業室前、扉の前で深く息を吸う。ハナレさんの綺麗な姿勢を思い出しながら、背中を平らにするイメージで、しゃんと背筋を伸ばす。ぐ、と手を軽く握りこんで、重たそうな扉を三回、叩いた。

「どうぞ」

扉の奥から角のない声がする。失礼します、と声を張って、ドアノブに手をかけた。

「待ってたよ」

奥で椅子に掛けていた男性。癖の強そうなふわりとした白い髪、長い毛束を顎の辺りでひとつに結っている。わたしを見て彼は立ち上がって、こちらに寄ってきてくれる。もろハナレさんとは違うタイプだ。柔らかい雰囲気、穏やかそうな笑顔。正直、仏頂面の達人のハナレさんより第一印象はずっと良い。

濃いグレーのスーツの前は開けられて、同じ色のベストを見せている。ネクタイはスーツよりも淡いグレーの色。中に着ているシャツはブラックで、見るからに仕立ての良い服だとわかる。背は驚いたことにハナレさんより高そうだ。…一年も一緒にいたせいで、男性を見る目がハナレさん基準になってしまっていることに気が付く。ハナレさん以外に男性と長くいることはなかったし仕方がないけど。

突っ立ったままのわたしににこりと微笑んで、未事業室、ヒノト室長殿――は、「どうぞ」そう言ってわたしをエスコートするように、その手でわたしの手を取った。

「(えっ)」

明らかに部下にするものではない行為に、わたしの頭は消化不良で爆発しそうになる。男の人のごつごつした手だ。する、とわたしの手の平を確かめるように室長の親指が動いて、得体の知れない感覚が背中に走る。

動揺するわたしを知ってか知らずか、ヒノト室長はまた、困惑しているわたしに綺麗に微笑んで見せた。

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