カラスの鳴き声。鳥が飛ぶ時の翼の音。正体の分からない獣の声。風に揺られる木々の音。それでも、何故人はこの森を静かだと言うのか。それは結局、人の手が加えられているかどうかという違いなのではないかとも思う。
森に入り、町から離れるにつれより一層自然の中への潜り込む。だがそれでも彼女は歩く足を止めない。例え空腹で倒れそうになっても、疲れ果てていたとしても、彼女は人に見つからない為に更に奥へ奥へと進んで行った。
どれくらい歩いたのだろう。
どれくらい森の中を進んだのだろう。
気になっても、それらを気にする余裕すらも無かった。とにかく歩く、とにかく進む。それだけに必死で、彼女は足元にある雑草で覆われ見えなくなっていた、浮き出ている木の根に気付かず躓いてしまった。
「いっ……!」
派手に転び、前方へ倒れ込む。だが、起き上がる体力すらも残っていない今、ただその場で何もしなかった。擦りむいて痛む膝にすら関心は無い。
瞼は段々と重くなっているようで、疲労どころか眠気にも襲われている。このままじゃ別の何かにも襲われかねない状況ではあるが、彼女にとってそんなものはどうでもよかった。
(……もう、なんでもいいや)
全てを諦めた。達観した。
そして、抗うことなくそのまま目を閉じた。息はしていても、再び目を開ける気配は無い。皮肉にも、こんなになるまで歩き続けてきたから人里からは遠く離れているせいで助けなど来る可能性は、もはやゼロだ。
普通の人間は、誰も立ち入らない深い森の奥に、何があるかも分からない自然の中に飛び込もうとしない。ましてや真夜中だ。人間など来るはずがない。
――そう、ニンゲンなど、来るはずがない。
だが、遠くから音がする。それは自然の中では不釣り合いの音だ。
段々と音が、彼女の方へと近付く。
その音は、まさしく足音であった。一定のリズムで、森の地面にある枝や草を踏む音。それは迷いもなく彼女の倒れている方向へと進んで行く。
そして、足音が止む。
月明かりによって出来た人に似た影が、ちょうど彼女の顔にかかる。
「……人間の、女の子?」
その声は、彼女に直接に届くことはないのは明白だ。
◆
贅沢にも、膝の痛みで目が覚めた。そしてその直後に感じたのは、身体全体で感じる暖かさだった。
起床したばかりの、まだ半分寝た状態の脳みそで現状を把握しようも、混乱だらけだ。昨夜、森の中を必死に歩いたはずなのに、今はどこか分からない部屋のベッドで起きただなんて想像付かない。
だが不思議なのは、窓は木の板で全て打ち付けられていて、外の様子が一切見えないということ。それ以外は特に可笑しなところはないというのが、余計その不可解さを強調させる。
痛む膝を確認すれば、手当を施された跡がある。
一体誰がこんな親切なことを、と思いつつ窓の木の板を見て、危ない人物なのでないかとも考察をする。しかし、今となってはこの家の主がどんな人物であるかなんて、彼女にはどうでもよかった。
思考は、半ば放棄している。
だから、これからどうしようかなんて特に考える訳でもなく、上体だけ起こしたまま、ぼうっとする。あとはもう、その時その時で適当に考えればいいやと思ってる。
自分が今までいた環境に戻されなければ、なんだっていい。
あまりにも気を抜いていたのか、こんなにも静かな中微かな音さえ拾えそうなのに、部屋のドアをノックされて足音すらも聞いていなかった事実を把握する。
そのドアノック音の主は、私の返答を待つ訳でもなく、キィと少し古びた音を立てて顔を見せてきた。
「あ、目が覚めた? おはよう」
その声の主は、彼女が目覚めたのを確認すると部屋に入り、ベッド横にイスを移動させるとそこに座った。
明るい茶色の髪の毛に、パッチリとした垂れ目と朗らかな表情は人に猜疑心を抱かせない風貌だ。だがその肌の白さと、かすかに見える口の中の鋭い牙が、彼が只者ではないと確信させた。
「君が森の中で倒れていたのをぼくの屋敷に運んできたんだ。中々人なんて来ないから、ちょっと人間向きじゃないのはごめんね」
声色からして、人柄も明るいことは分かる。それと同時に、目覚めたばかりの彼女に対して様子を伺っているのも。
先程警戒した程の、怖い人物ではないことに少しは安堵するかもしれないが、それてをも彼女は彼への警戒を緩めない。否、警戒というより安心を見せない、と言ったところだろうか。きっとどんな人物であったとしても、心が休まることなんて無かったはずだ。
「……貴方、吸血鬼でしょう? 先程から牙が見えているわ」
馴れ合いなど、不要だった。だから単刀直入に、気になっていることをそのまま質問した。
彼は驚いたように目を見開いたが、すぐに声を出して笑った。その様子に気がおかしくなったのか、と彼女は驚くが吸血鬼と呼ばれた彼は「ごめんごめん」と言いながら、笑いを堪えた。
「吸血鬼って分かったら怯える人間ばかりで、君みたいに肝が座った子は初めてだからついつい。そうだよ、ぼくはこの屋敷に住む吸血鬼、レイジさ」
レイジ、と名乗る彼は口端に指をかけ、改めて鋭い牙を見せた。血を吸うことに特化し、突き刺さることだって容易い形状をしている。
言わずもがな、人間は吸血鬼を恐れている。血を吸われて足りなくなって、そのまま死んでしまうことは簡単に想像出来る。そんな理由で、本来、昨日彼女が倒れた森だって立ち入り禁止と言わずとも、人が近寄らない程だった。何故ならこの森は、吸血鬼が住むと言われているからだ。
だが、人から人へ、噂から噂の話なんてどれもが不確かな情報で、もはやただの吸血鬼伝説と化していた。昔から恐れられていたというだけで、特にその話を掘り下げることなく人々は森に触れないようにしていた。
だから、彼女はそんな森の中に迷い込んだ。
そして、そんな伝説の張本人を前に、丁度いいとさえ思った。
「なら、お願いがあるの」
「ん、なあに?」
レイジは、首を傾げてそのお願いとやらが何なのかを待った。
「……私の血を好きなだけあげるから、ここで死なせて欲しいの」