平和に行きましょう。

杉山屋敷


 頭蓋の裏側に、泥のようにしつこくこびり付く睡魔が意識を絡め取る。身動ぎすら億劫な程に重苦しく気だるい身体だが、気分は妙に軽い。
 睡魔を甘受しようとすればする程に、無情にも意識は浮上する。ずっとずっと眠りたいのに起きなければならない。ジレンマがせめぎあい、しかし身動ぎした瞬間に頭部へと激痛が走り、瞼の上から光源が差し込んだ。暗闇に沈んでいた中ではあまりにも強過ぎた刺激に、強制的に目覚めが促された。
「…っ」
 呻き声が思わず漏れる。
 やけに重い頭を庇いながら、分厚い布団に包まれていた上半身をゆっくりと上げると、ずるりと何かが落ちる。タオルに包まれたそれは氷の入った袋で、即席の氷嚢なのだろう。頭痛の原因の一端であるそれを放置し、他に何か違和感がないかと未だ睡魔の泥に捕らわれた寝惚け眼で確認する。
 そこは二人部屋なだけあって、少し痛む頭を回せば部屋の全貌は窺える。自宅の和室に比べれば真新しさは劣るものの、丁寧に使い古したように小綺麗な旅館の一室だ。小型の冷蔵庫や金庫を視認し、窓の方へ見ると、沙良は急減に意識が晴れ渡る感覚を感じた。あるいは、肝が冷えたとも。
「た、多々良先生…」
「あぁ、兎山。ようやく起きてくれたか」
 窓枠に肘を付き、胡座をかいて火の付いていない煙草を嗜んでいたのは多々良だ。普段と何ら変わらない態度と穏和な表情だが、起き上がった沙良を見て安堵したようにも見えた。
「頭の方は大丈夫か?」
 一瞬馬鹿にされているのかと殺意が芽生えるが、ジェスチャーのように示された部分に反射的に触れると、確かに若干腫れた部分があった。皮膚も切れているのか、ピリピリした痛みを感じるが、冷やし過ぎたせいか感覚は鈍い。
「あぁ、二、三日は運動は控えておきなさい。頭の怪我は怖いぞ」
「…」
 あくまで柔らかい物腰のまま世話を焼く目の前の男に、沙良は形容し難い薄気味悪さを感じた。「あねや」での男らといい、多々良といい、やっていることの異常性の割に随分とこちらを優遇するのだ。
 警戒心を隠さない沙良の表情に、多々良は楽しげに笑う。
「」




 柔和な目が細められる。僅かに変わった雰囲気に、悪寒だけではなく身体が震えた。






 長い道のりというのは退屈との戦いでもある。決して意図しない変化であっても、それが面倒事だと分かっていても、既に睡眠と沈黙の帳が落ちたバス内で面白くもない景色を延々と眺めている単調な意識ではそれを歓迎する。
 だから虎杖赤彦と赤城十影の間に挟まれるように座る少女、兎山沙良が微睡みから覚めたのも、そういった変化の一つだった。
「……………今何時?」
「1時前。あと少しで着く予定な」
 少女にしては呻くような低い声の沙良へ赤彦が弄っていた携帯から目を離さずに答える。狭い車内で軽く背伸びをする矮躯や年齢不相応のあどけなさを残す容姿は、恐らくクラスの中でもかなり可愛い方だろう。猫めいた鋭い目付きが玉に瑕だが、そこは単純に能面めいた無表情を崩さないのが原因だろうな、と同じく釣り目気味の赤彦と見比べつつ十影は思う。バスケ部で躍進する赤彦も目を引く方だが、釣り目や大柄な身体といった外見で損をするタイプの人間である。自他共に認める至って平凡な顔の十影が「癒し系」という若干不本意な感想を持たれているのは、良くも悪くも印象の強い二人に挟まれているからでもあるのだろう。





「兎山は無事か?虎杖側にいるから心配だったんだぞ」
「…そもそも他クラスより移動時間が長ぇ原因、先生だけどな」
 赤彦の嫌味にも多々良は然程気を悪くした風でもなく「そりゃそうだなぁ」と笑う。何かと突っかかる問題児を軽くいなす手捌きは、たった数ヶ月の付き合いといえどそれを遥かに超える経験により裏付けされた確かなものだ。
 やたらと多々良を敵視する赤彦をよそに、沙良は吐き気が残る胃を摩る。軽度の酔いならば日常茶飯事である為に、この程度なら大丈夫だろうと判断した。
「結構平気です」
「なら良いが、旅行先で無理して倒れたら元も子もないからなぁ」
「分かってますー」
 む、と唇を突き出しムクれる。その物言いはまるで兄そっくりであり、昨夜から今朝まで散々忠告されてきた内容そのものだからだ。


「よっし無事に兎山回収したし、何する?」
「…そもそも、ここ何かする物あるのかなぁ…」
「歴史資料館」
「沙良、せめて遊ぼ?歴史馬鹿なのは知ってるけど」
「こんな村にあるのか?歴史も資料館も」
「この地図に書いてある」
「あ、なら見せてよ」
「何で持ってんだよ」
「さっきの口悪い女中さんが“顰めっ面解してのんびりしといで!”ってさ」
「……………」
「……………」
「どうしたの?」
「いや、本気で何もねェな。資料館あるけど…」
「雑貨屋が唯一の救いかなぁ…」
「それが旅館から一番遠いとか最悪だな」
「んー、旅館の上に神社あるよ」
「そこ二日目に行く場所だからやめといた方が良い?今行ったら超フライングで面白くないよ」
「絹納…“きぬさめ”?当て字みたいに無理やりだな」
「後で調べようかな」
「あぁ始まった…。で、赤彦どうする?旅館で駄弁るか、沙良ご所望の歴史資料館の二択。ちなみに僕駄弁る方ね。暑いし動きたくねー」
「旅行初日で究極の選択か。……あー、なら雑貨屋ついでに資料館。お菓子買おうぜ」
「あ、お菓子欲しい」
「うげ…。ならせめて自転車とかない?結構山奥だし、ここ」
「さっきの女中さんに聞く?」
「いや、それならさっき鍵が玄関に吊るしてあった。六時までには返すならご自由にって」
「今二時だから四時間…。ちゃっちゃと行こうか」
「んー」




 脂の乗った鴨肉や山菜を物珍しそうに平らげ、概ねその成長期の子供の空腹を満たす程度の満足は得られた夕食後、沙良と十影は人気のない二階にて何やら一人で準備を進める赤彦をよそに談笑と洒落込んでいた。
「山菜美味しかったけど、やっぱりこの山で採ったりしたのかな」
「何で山菜の善し悪しが分かるの…?」
「お婆ちゃんに死ぬ程食べさせられたから」
「…さてと、こんなもんか」
「赤彦、バケツまで用意して何するの」
「沙良、コイツを見ろ」
「花火?まさか赤彦、持ち込んだ?」
「まさか。雑貨屋で買ったんだよ」
「あー、あそこ結構色々新しいの揃ってたよねぇ。安かったし」
「ふーん。でも火使うなら先生言わなきゃ駄目だよね」
「おー、確かにな。俺、多々良以外なら誰でもいいぞ」
「出たよ赤彦の多々良嫌い…」
「多々良先生、良い人だよ」
「良い人だからって万人に好かれる訳じゃねーだろ。逆に副担好きだわ、たっきー」
「あぁ、あの鬱陶しい体育会系ハイテンション先生」
「沙良、本名より長いあだ名覚えるなら、ちゃんと滝川先生って呼んだげようね」
 滝河副担任。二年生に上がってから体育の担当となった滝川は、良く言えば馴染みやすい、悪く言えば馴れ馴れしい性格で瞬く間に生徒から賛否両論で支持が分かれた男だ。沙良のように煙たがる生徒もいれば、赤彦のようにその距離の近さを歓迎する生徒もいる。少なくとも、物静かで洒落た物言いの多々良とは対極にいる教師だろう、というのが全員の意見である。
「じゃあ十影、多々良先生と滝河、呼ぶならどっちが良い?私多々良先生」
「俺たっきーな」
「この二人の敬う気の無さが凄いね。…僕も多々良先生ね。滝河先生、うるさいし」
「なら十影、呼びに行こ。赤彦は準備よろしく」
「へいへー」



 担任の多々良純一が寝泊りする部屋は、当然ながら男子区域に分けられた中での最奥の角部屋だ。鶯張りとは違う老朽により軋む廊下を進みながら、「教員」と張り紙のされた襖へと辿りついた。
 そこで下座へと正座し、定規を差し込んだように背筋を伸ばす。
「多々良先生、失礼します」
 訝しむ十影を無視し、沙良は引き手で僅かに襖を開いた。次いで引き手から手を離し、僅かに下の部分で中央まで押し開く。決して全て開かず、軽く覗く程度だ。部屋は六人部屋と比べ大分狭いが、それでも多々良一人が使うとなればそこそこに広い。机も荷物も隅に片付けられており、多々良は出窓の縁に肘を突き煙草を吸っていた。
 視線は既に手元の携帯から沙良と十影へ移っていた。
「兎山たちか」
 じゅ、と熱が水に触れる音と共に煙草が潰される。「入りなさい」と手招きされ沙良はようやく襖を開け放ち、一度立ち上がって部屋へと踏み入れる。十影が中途半端な中腰のまま恐る恐ると室内へ踏み入れると、入室とは違う所作で襖が閉じられた。彼女の丁寧なそれは付け焼刃などの辿々しいものではなく、経験に裏打ちされ、手馴れた風でさえある。
「どうした?虎杖が面倒事でもやらかしたのか」
「いえ、まだ何もやらかしてません」
 あくまでも素直に頷く沙良と、その隣で顔を引き攣らせる十影。二人の様子に多々良がくつくつと笑うが、先を促すと十影が口を開く。
「実は花火がしたいんです。火を扱うから、先生に引率をお願いしたくて」
「別に構わないけど、そういうのなら先に滝河先生が駐車場でやってるぞ。面倒だから僕が押し付けたようなもんだが、そこに混じった方が良いだろう、片付けとか」
 朗らかに吐く微量の毒は、どちらかと言えば滝河と生徒達へ向けてのものだった。目立たないだけで、この人結構性格が悪いよなぁ…、と十影がしみじみと実感していると、こてんと小首を傾げた沙良は
「…多々良先生が良いです」
と言った。
 必要最低限だった言葉の補足として十影が口を開く。
「確かに混じった方が良いんですけど、僕達ちょっと…結構滝河先生が苦手で…」
「あぁ、そういうことか」


「…暇だしお前達は大人しいしな。お誘いに与って引率してあげよう」
「やった」
「ありがとうございます!」
「先に行ってなさい。玄関先の所でいいんだな?」
「はーい」






「先生、質問いいですか?」
「どうしたんだ、兎山」
 線香花火の小さな火玉を落とさないように、と幼げで健気な努力をしている沙良へ多々良は促す。
 山中に程近い位置にあるこの旅館は、空を見上げれば少なくとも都会よりは輝く夜空が臨める。鈴虫と蛙による涼やかな合唱の他には、聞こえる他の生徒達の喧騒が遠くより響いてくるだけで、かえってこの場の静寂が目立った。
「先生、ここのご出身ですか?」
 足元にしゃがみ込み、線香花火を見つめる沙良の表情を窺い知ることは多々良には出来ない。声も淡々としたもので、恐らく顔を見ていても彼女の真意を探るなど難しいのだろう。しかしそれは沙良も同じことだ。きっと頭上の多々良が今一体どんな間抜け面を晒しているのかも知らず、線香花火に夢中なのだ。
 口内にある苦味は、決して紫煙だけではないのだろう。
「へぇ?どうしてそう思ったのか、教えてくれよ」
「んー、何となく?妙に楽しそうな感じがしたので」
 あ、落ちた。そんな無感情な声と共に、その場を照らしていた光源が潰えた。少女の頭は立ち上がり、背伸びをしようと目線より遥かに低い。ただ、普段感情を窺わせない無表情は何故だか羨望していて、今にも泣きそうで、そこにいたのは単なる親の手を無くした迷子の子どもだった。
「………昔」
 紫煙混じりの言葉が、ゆっくりと思考しながら成されていく。
「山の大事な神社の巫女さんにちょっかいかけて、バレて村長と長老にこっぴどく説教されたことがある」
 突如始まったそれは、先程の不躾な質問への肯定だった。
「あの頃は教育方法も容赦なくてなぁ。あと、君らは落盤跡に行ったかな。あそこの落盤事故にも巻き込まれて死にかけたりだとか、親と山菜採りに行ったら猪に追いかけ回されたりだとか…結構ろくでもない思い出はあるなァ」
「…波乱万丈ですね、意外と…」
「それ、さっき赤城にも言われたよ」












 血に沈む、ある一組の男女を調べ終えた多々良は先程までの焦燥が嘘のように消えていくのを感じた。代わりにこみ上げるのは堪え難い笑いだ。怒号の飛び交う洞穴内でも良く響く多々良の哄笑に、側にいた男が顔を顰めた。
「笑うとる場合ですか、多々良さん。あんたが無理言って置いといたガキも主犯ですよ」
「いや、いや。焦ることはないさ、諸君。子ども、ましてやたった四人でアレの封印を解けるとでも?こちらは何日掛かろうと構わんが、子どもは飢えには勝てんよ。…洞月苗に関しては最早タダでは済ますつもりはないが、あの女子生徒は少なくとも今日には帰ってくる」
「…?担当の親を殺されとるんですから、またやり直す必要があるでしょう」
「よく見てみろ。…殺されたのは別の奴の親なんだよ」
 あぁ、本当にお前は素直だなぁ。
「諸君。気は進まないだろうが、見張りを置こうではないか」






 旅館を背景に従業員が並ぶ白黒写真はありきたりな記録の一つだ。
 何か、微妙に違う。
「ん、んー…?」
 額縁に飾られる写真の数々を眺めながら、そんな間違い探しのような違和感を探る。













「た、多々良先生…?」
「一体お前はどこに行ってたんだ!虎杖と赤城はまだ想定内だったとしても生徒の半分もいなくなって、心配したんだからな!」
 痛いくらいに肩を掴まれ、詰め寄られる。普段の穏やかな雰囲気はなりを潜め、その身に危険は無かったのかと、ただただ純粋に心配しているような様子に沙良はその場にへたり込みそうになった。
「違う、朝、朝に起きたらここみたいな、変な旅館にいて、誘拐みたいで、えっと。その、いきなり堀川さんが男の人に殴られて連れ去られて、それでその、真っ赤な気持ち悪い箱があって、こ、怖くなって赤彦達と一緒に、出てきて、それで、えっと、他の皆もいたけど、ずっと起きなくて、置いて、きて…」
 これまで状況整理もままならなかった中で、気付いてしまった事実に血の気が失せる。自分は、自分達は一緒に逃げられたかもしれない仲間を見捨てて、協力者である苗と共に四人だけで助かろうとしたのだ。




 がり、と柔い肉へ歯が食いこみ皮を突き破る瞬間、後頭部への衝撃が走り共に視界が白んだ。力が抜けた隙を見逃さず、顔面を掴まれ思い切り床へと叩き付けられる。板張りの廊下が嫌な音を立てた。
「がっ…!」
「全く…、毛並みはいいから躾されてると思ってたんだけどな」
 手にくっきりと残った歯型に忌々しげに舌打ちする多々良は、そのまま力無く倒れ込む沙良の喉を片手で締め始める。
 一瞬、呼吸が止まる。
「逃げたと聞いた時は肝が冷えたけど…僕の所に戻ってきたのは日頃の行いと言うべきか」
 じわじわと喉仏を押し込まれ、気管が狭まっていく嘔吐感と苦しさに視界が滲む。片手とはいえ容赦なく親指を抉り込まれ、意識がゆっくりと引き剥がされるような恐怖から、標本の虫のように押さえ込んでいる手をどかそうとなりふり構わず暴れ始める。
 頭上から微かな笑いが零れるのが聞こえた。
「やんちゃな生徒が多いのは構わないけど…あんまり仕事増やすのは勘弁してくれよ」



「何でもないから部屋で待っていなさい」
 静かで優しい声でそう言うと、赤彦の周りに集まりつつあったクラスメイトらは、言われた通り口をつぐみ、静かに部屋へと戻っていく。
「…マジかよ、アンタ」
 呆然とした赤彦を階下から見上げながら多々良はわざとらしく肩を竦めた。
「流石に大婆や長老らとまではいかないけど、僕もそこそこ古株でね。それにあの子らは君らを裏切った訳じゃない、あんまり責めてやるな。…おっと兎山、悪かった」
 既に微動だにしなくなった沙良から慌てて手を外す。


















































prev next
Back to main nobel