平和に行きましょう。

杉山


⚫導入-1

 時刻は正午前。片田舎という言葉がぴたりと当て嵌る沿岸部を走るその電車内には、驚く程に人が乗り合わせていない。義務なのか、弱冷房と謳う割には過剰とも思える車内には、少なくともこの車両にはぽつねんと女が一人いた。
「…流石田舎…少ない」
 人も、電車の本数も。
 呻きに等しい低い声は、長時間座り続けることで疲労したというよりも、うんざりした色の方がより濃く出ていた。乗り継ぐにつれ少なくなっていく本数や人間にこれから赴く土地が正真正銘の田舎であると実感させられ、傾いだ視界のまま眺める車窓の向こう側は、最早民家と緑の割合が逆転しつつあった。
 千葉の南房総。このクソったれな気分で行われる遠出の最終目的。私的に外出を好まない沙良がわざわざ有給を取ってでも赴かなければならない余程の訳は、手の内に収められた便箋にあった。
『拝啓
 突然のお手紙を差し上げる失礼をお許し下さいーー』
涼やかな青のインクで書かれた謝辞から始まる内容は、少なくとも現代では珍しい程に慇懃かつ優雅な言葉使いで記されていた。
 今日から一週間前、印刷紙のハガキばかりの山から異彩を放っていたそれを手に取ったのは、ほんの好奇心からである。内容はかなり突飛であるが、優美な透かしの入った便箋や封筒といった、いかにも「手書きです」といった手間のかかる様子に絆されたという訳ではない、決して。
 柔らかな女性の文字は穏やかに今回の邂逅を提案しているが、それ以上の意図は見えない。遥か先の霧の向こう側のように判然としない何かに疑問を覚え、だというのに電話の手段も許されていた中で問いかけなかったのは無理矢理に自分を納得させただけに過ぎなかった。
 考えるだけ無駄。ある意味潔いそれは単なる逃避でしかないが、もう一つの意味では正論だ。
「…どうなることやら」
 頭を揺らす冷房の駆動音に紛れた呟きは、困惑というよりも型通りに言ってみただけのようにも聞こえる。諦観が意識の根底にある以上彼女がするべきことは何もなく、ただ目的地まで人形よろしくちょこんと黙って揺れる他にない。
 いや、ただ一つあるとすれば。
「…………………。………あ、ヤバイ…」
 胃腸を掻き回す吐き気が消えた瞬間、伽藍堂の車内に彼女を中心とした嵐の目の静けさが広がった。慈悲のように許された数秒の猶予に沙良の手元には既に袋が手繰られていた。衝動的に顔を突っ込みーー

 …その後の惨状は、あえて特筆すまい。


⚫導入-2

閑古鳥と蝉の大合唱。木造の無人駅は最早自然に喰われている有様で、当然ながら往来などあるはずもない。
「うっわ田舎だ」
唯一の道である林道は、駅を出てすぐの左右に広がる。アスファルトで舗装もされていないそこにあるのは、くの字に折れて尚健気に立つバスの時刻表くらいなものだ。錆びて朽ちる一歩手前のそれは時代と共に取り残されたような、使い物にもならなさそうな寂寥を思わせる。
茹だるような暑さの中、太陽に容赦なく焼かれている蜃気楼めいた道は、見ているだけでうんざりするような道程だ。
棗裕希はその双眸を細ませ、
「あ、すみません○○タクシーですか?」




⚫合流-1

切れ長な目付きに収められた瞳が、流れるように向けられ、視線がかち合う。僅かに首を傾ぐその仕草は、記憶の奥底の澱に沈んだ何かを引き摺り出すような、そんな微かな既視感を頼りに探り当てんとする意図を含んでいた。
女性を縁取る黒髪は静かに垂れる。純粋に疑問を持ち探っていた視線は瞬きの内に消え去り、次には関心が薄れたものとなっていた。
「初めまして、兎山沙良と申します。あの祖母にご友人がいたことに驚い………いえ、亡き祖母とご交友を深めた所縁の方々にお会いしてみたいと思い、やって来ました。
古美術商の職に就いているので、若輩ながら少しでもお役に立てれば幸いです」
兎山沙良は口端に笑みを浮かべる。定規のように伸ばされた背筋や細い身体付きで実際より長身に見えなくもないが、恐らく立てばかなり小柄なのだろうと感じさせる。
思わず意表を突かれたが奈緒美に着席を促され、裕希が腰掛けると返ってきたのは沈むような、しかし押し返す弾力もある上質なソファの感触だった。この場に一人なら、子どもの悪戯めいた考えで上下に揺れてみたいと考えてしまうようは魅力がある。実際無意識に掌でクッションを撫でていた。




⚫遺産-1

「…これは、とても素晴らしい物ですね」
 恐らくは何気ない感嘆を込めたのだろうその呟きは、室内に張られていた妙な空気に一石を投じた。水面を揺らす波紋のように、その変化は如実であった。
 呟いた沙良は驚いたような周囲の視線に気付かず、しげしげと絶妙な技巧により生み出された芸術を眺めている。
「…随分と原始的な技巧です。それに、構図としては未完成とも見えます。そして同型のものは例えあったとしても、非常に希少性の高いものかと」
 興奮を抑えきれない風に語る様は、頬を紅潮させ目を輝かせた、ある種子どもじみているようにも見えた。しかし滔々と語る内容は、確かに古美術商に恥じない分析であり、側にいた綺羅子は「すっごい沙良ちゃん、専門家みたいだね」と口を開けた。
「…いや、専門家なんだよこれでも…」
 ぽつりと呟かれたぼやきは今度は綺羅子の歓声に紛れる。人に向ける視線は無感情であるのに対し、浅浮き彫りへ向ける視線はいやに熱っぽい。
「金銭価値は、おおよそ200万程と見ますが?」
「ですね。同意します」
「…ちなみに、円ですよね?ドルじゃなく」
「ドルだと、この面子だけで済む話ではなくなりますね」
 訳知り顔の金谷と沙良が頷き合う。学識を持つ者たちで交わされた会話に裕希が口を挟めば、沙良がニコリともせず真顔で物騒を吐く。
 どういう意味だそれは。
 思わず裕希の口端も引き攣った。表情や感情が伺えない分、彼女の曖昧な意図の言葉は周囲を神経質にさせるのだ。しかし沙良は小首を傾げ、
「冗談ですよ」
とまた無表情で言った。

⚫遺産-2

「そういえば兎山さん、こちらはお気付きになりましたか?」
「えっ、何か仕掛けでも施されてたんですか?」
思わず間抜け声を上げた沙良に、金谷は微笑みながら浅浮き彫りに手を掛けた。一応手袋をしているとはいえ、百年単位で存在している骨董品…いや、歴史そのものと言っても過言ではないそれを持ち上げられるのは、例え相手がその価値を十二分に理解していたとしても一抹の不安が過ぎる。
「っよっと…!」
力んだ声と共に、浅浮き彫りが回転した。事前に用意されたクッションに上部の細工を支えられ、腹底を見せたことにより“それ”は眼前へと晒された。
「…文章…?」
「えぇ。製作時に彫られたものでしょう」
黒檀めいた材質から直に彫られたのだろう、一見紛れているそれは、文字であった。とは言っても、沙良がそれを辛うじて言語だと思えたのは、その奇妙な形状からではなく単純に並びがそう見えただけに過ぎない。けれど金谷は見せるだけで良かったらしく、沙良へと考察を述べ始めた。
「このレリーフを作った彼らは、恐らく何らかの存在を崇拝する為にこれを作り、この一文を刻んだのでしょう。非常に硬く、重い材質であるこれに、文字を刻むだけでも常識で考えれば相当な労力を必要とします。だというのに、大昔でこれ程美しい細工を施せるのですから、余程技術に秀でた民族でしょう」
「…不勉強ですね。まさかこれほどの技術と芸術性を持った民族がいたとは寡聞にも…」
「不勉強でも恥でもありませんよ。私にだって分からないのですから」
「…………。分からない方が想像も掻き立てられますね」
「そういった楽しみ方もまた一興でしょう」
講釈めいた言葉の後に潔く頷く金谷を横目に、沙良は彼女にしては珍しく微笑みながら浅浮き彫りに刻まれた文をなぞる。
神秘的で奇妙な細工と謎の言語。曰くありげな何かが込められたそれは、少なくとも沙良の好奇心と想像力に火を付けた。

「ははっ」
震える声が引き攣った笑いを含んだ。
自分を殺そうとした相手への本能的な恐怖や、活きた肉を無理矢理抉る冒涜的な感触。自分がこれまでに築き上げてきた道徳と理性が音を立てて崩れ落ちるギリギリの精神状態で、既に足は哀れみを誘う程に震えている。
「っぐ、……ッ!?」
右目から溢れる血潮はリズミカルに湧き出ては顔面を、背広を伝っていく。喉に赤黒く変色しつつあるアザを残した少女は、嘲笑うでも怒るでもなく、
ただ平坦としていた。






 扉が開閉に軋む音に裕希は振り向いた。精神は木材を鑢で削るように、ゆっくりとしかし確実に疲労しつつあるが、それを表に出す程子どもでも無神経でもない。日本茶の柔い香りが鼻孔をくすぐる中で、そこにいたのは予想通り金谷であった。服装は昨日と変わらないラフな装いだがだらしない雰囲気はまるでない。それが彼の自然体であるような、洒落た無作法さだ。
「棗さん、ご気分はいかがですか」
 笑い皺が刻まれた顔が心配そうに顰められる。しかしあくまで扉から一歩先より距離を詰めないその気遣いには安堵し、そしてそこまで気遣われる程自分は酷いのかと自嘲した。
「ご心配、ありがとうございます。大分良くなりました」
 丁度キッチンは薄暗い。誤魔化された顔色で微笑めば、金谷も僅かに表情が緩む。思えば、この屋敷に集まった人物は何かと沙良や裕希に不思議な視線を寄越す。そこに込められた意図は不明だが、まるで友人に向ける親しげなものばかりだ。
 その日出会った他人にそんな感情を持てるのだろうか。







 体内に逆巻く熱をエンジンの排気の如く吐き出す様は白い靄を幻視させた。その目は最早人を見ていない。ただ排除すべき的めがけ、矮躯が振りかぶる。
 低く研いだ息遣いが、嗄れ潰れた声が、絶叫した。
「だあ”あああああああああああああああッッッ!!!」
「っ、なんで生きーー!?」
 綺羅子が体勢を変え、銃を構えるよりも速く、影が眼前まで迫った。肉を刺し、骨を掻い潜り、柔い内臓を引き裂き、彼女の命を確実に砕いた。







「あぁ、そうだわ…兎山さん」
「はい?」
奈緒美に呼び止められた沙良の顔はやはり青白い。元々白い肌から血の気が引いた病的なそれは、柔い矮躯からして今にも倒れそうである。
「ご気分が優れないようでしたら、外へ出てみてはどうかしら。庭にはバラ園もあるし、そこから海辺にも出られますの」
「………なるほど」
わずかに逡巡した後、沙良は微笑した。
「ならお言葉に甘えて、屋敷の周囲を散歩してきます。写真を撮っても?」
「えぇ、もちろん構いません」
「(…身体弱そうだから、大人しくしてる方が良さそうな気がするんだけど)」
口にするのも無粋だと判断し、裕希は小さな背を見送った。

「実を言うと、兎山さんを初めて見た時にとても驚きました」
「そうなんですか?」
「えぇ。昔写真で彼女のおばあ様を見たことがあるのだけれど、本当にそっくりでしたわ。まるで本人のようで…」
「へぇ、その写真って今もありますか?」
ほぅ、と溜息をつく奈緒美へ裕希が尋ねれば、しばし逡巡した後緩く首を振った。
「残念ながら、当時の写真はもう残ってないの」


 たおやかな、女性特有の細い指が汗で冷えた頬を撫でる。本来ならば人肌の温もりが伝わるというのに、どういうことだろうか、まるで陶器のように人の温度を感じさせない無機質な、有り得ない体温が触れ合う。それを心地よいと感じてしまう程度には心臓は脈打ち、身体を火照らせていたが、次第に異質さに気付くにつれ吐き気とは異なる何かが喉を鳴らした。
「気分はどうかしら」
 吐息が掛かる程距離を詰められ、目を覗き込まれる。頬や髪を撫でる手付きは愛おしい者へする行為と同義である。
「っ、…吐き気は良くなりました」
「そう?でもまだ無理をしてはいけないわ。貴女は昔から身体が弱いんだから」
 会話が噛み合わない。微妙にすれ違う双方の意図は、少なくとも沙良からすれば殊更おかしく感じられた。
「ホットチョコレートはいかが?また火傷しないように冷ましてあるの」
 あぁ、この人は。この女性は。
 漠然と浮かび上がった推論は、しかし喘ぐように開いた口からは僅かに吐息が漏れるだけで音とはならず、言葉と成らない。
 ただ、用意された飲み物に付随する意図は、それは
「っう、っ…」
 視界が薄く膜を張り、ポロポロと涙が零れた。恐怖とも喜びとも表せぬ曖昧な感情が心から溢れ出し、涙と嗚咽として雨のように降り注ぐ。
 子どものように泣きじゃくる沙良の髪を撫で、涙を拭う奈緒美の表情は妹の世話をする姉のように静かだ。ただ当たり前のことを当たり前として行う、柔らかい笑みだ。
「ふふ、泣いているのね。不安なの?それとも怖いのかしら。
でも大丈夫。貴女はずっと一人で泣いてきたけれど、これからはいてあげられるから」

「…残念ですが、一緒には行けません」
 その一言で、奈緒美の表情が凍てつく。
「きっと貴女の手を取ってしまえば、取り返しのつかないことになる。それはあの人との約束を破ることと同じです」
「約束…?それは、この私よりも大切な物なの…?」
 震える奈緒美の声に、沙良は目を細めてくつりと自虐的に笑んだ。

「初恋の男性との約束ですよ?人生で一番大切に決まってるでしょう」

 瞬間、部屋に朱が走った。








泥の上を転がった身体は猫のように器用な受身を取り、四つん這いから立ち上がる様子は脱力しているようにも見える。
しかし、浅く小刻みな呼吸が意図して律されたものであるように、それは彼による「戦闘」を意味した。
「…空手とかムエタイはともかく、流石に柔道技とは初めてだなぁ…」

「ごめんなさい、金谷さん。僕は帰らなきゃいけないんです」
真っ白な少女が脳裏を過ぎる。真っ暗闇の部屋でたった一人残されていたか弱いあの少女を、こんな所でまた一人にするつもりは毛頭ない。





導入
合流(自己紹介)
遺産(浅浮き彫り)
幕間(適当に交流)
晩餐(触手)
団欒(過去)
事件(1日目終了)
起床(回想)
探索(散歩)
異変(消えた女と死体)
逃走(命の危険)
収束(終わる)
終幕・後日談(その後の話)


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