キバナさんに別れ話をする話

「別れて欲しいんです」
 その一言を絞り出すために私は少なくはない時間を浪費した。大事な話があると言って呼び出されたキバナさんからすれば随分と不審に思えただろう。
 誰が見ているかわからない場所で別れ話なんてできるはずもなく、キバナさんの家へお邪魔させてもらった。これから赤の他人になるのにプライベートな空間へ立ち入るのは酷く居心地が悪かった。
 きっと思い詰めた様子を隠しきれなかったであろう私をキバナさんはいつも通りの笑顔で迎え入れた。長居せずにさっさと言ってしまわなければと思いつつも、なかなかどうして口が重くだんまりを決め込んでしまう。
 気遣い上手なキバナさんは急かすような真似はせず私が心を落ち着けられる時間を稼いでくれる。ヌメラを型どったマグカップには琥珀色の液体がなみなみと満たされていい香りがする。マグカップは私と付き合い始めてから用意してくれた専用のもので、紅茶はデートで行ったカフェで購入したものだ。
 こんな時だというのに楽しい記憶ばかりを思い出してしまってますます話を切り出すのが億劫になった。キバナさんが当たり障りない会話で私の緊張を解こうとしているのがよく分かる。彼のそんな優しいところが好きだった。
 派手な見た目からして粗野に思われがちだが、本当は思慮深くて穏やかな気質のひとだ。不用意に大声を出したりしないし、大きな音を立てないように物を丁寧に扱う。人と接する時はその長身で怖がらせないように海色の瞳をゆるく下げて声をかける。ゴシップでは数え切れないほどスキャンダルが取り沙汰にされてきたけれど、その全てがデマカセでキバナさんは相手に迷惑をかけないように距離感を気遣ってくれる。初めて会った時は苦手意識さえあったのに、キバナさんと関わっていくうちにいつの間にか好きになってしまっていた。
 別れ話は予想外のことだったようで、普段はヘアバンドで隠れている眉がへにゃりと曲がった。罪悪感から胸がズキンと痛む。
「オレさま、何か嫌なことしちゃった?」
「……いいえ、何も」
「他に好きな人でも――できたようには思えなかったんだけど、理由を聞いてもいい?」
 つい数週間前のデートではいつも通りに過ごしていたし、電話もラインも変わりなかった。私はまだキバナさんのことが好きだ。でももう彼の恋人でいることが嫌だった。
「キバナさんは何も悪くないんです。ただ私が疲れちゃっただけで」
 順当に仲を深めていって両想いからお付き合いをスタートさせた私達は至極順調だった。キバナさんは私には勿体ないくらいよくできた彼氏で、私はただただ甘やかされているだけ。そのことに気付いてから少しずつ何かがズレていった。
 私が自分に自信を持てないのは元からのことでそれは今更変えようもない。それでもキバナさんのために何か行動を起こさずにはいられなかった。
 察しのいいキバナさんにはそんな不器用な努力は丸わかりだったんだと思う。無理してないかと心配してくれつつも、私がすることに対して嬉しいと笑ってくれた。
 そう、始めはキバナさんから受け取ったものを返したかっただけだった。それがキバナさんに見合うような彼女にならなくてはいけないという強迫観念に育っていって、キバナさんの“彼女”の私に周りが後ろ指をさしているような心地にさえなっていった。
 本当はそんなことないって分かっているはずなのにキバナさんの優秀さが私に劣等感を植え付ける。
「キバナさんといると自分がどんどん嫌な人間に思えて仕方がないんです」
 どこよりも安心できると思っていたキバナさんの傍は私にとって緊張感の伴う落ち着かない場所になっていた。それがどうしようもなく悲しくて別れを決意せずにはいられなかった。
 キバナさんは私の話を静かに聞いて、瞬きをひとつすると謝罪の言葉を吐いた。
「今まで気付かなくてごめんな」
 労わるようにテーブルの上にのった私の手にキバナさんの手が重ねられる。キバナさんは何も悪くないのになんでそんなに苦しそうなんだろう。
「こんな不甲斐ない彼氏だったら愛想つかされても当たり前だよな。……もう一度だけチャンスをくれないか。今度は必ずオマエのことを守るから」
 不安げな、けれどしっかりとした意志を感じる瞳が私を刺した。
 キバナさんは本当に心根が美しいひとだ。自分が面倒くさいことを言っている自覚はあるのに、それを一切責めたりしない。それどころかこんな私を守ろうとするなんて
 目頭が熱くなって視界がゆらゆらと揺らいだ。
「キバナさんのそういう優しいところが私を惨めにさせるんです」
 今度こそ明確に相手を傷つける意図を持って吐かれた言葉にキバナさんが息を飲んだ。
 キバナさんが私を気遣えば気遣うほどに釣り合わなさが浮き彫りになっていて嫌になる。誰よりも好きなはずなのに憎く思えてきてしまう。こんなぐちゃぐちゃな感情を愛とは呼ばないだろう。私にはキバナさんの彼女でいる資格なんてない。
 話すべきことは全て話した。これ以上は無為に傷つけ合うだけだと判断して席を立つ。今までありがとうございましたと告げて背中を向けた。
「……オレさま、そんなに優しい人間じゃないよ」
 ポツリと吐かれた言葉は今まで聞いた事のない暗さを伴っていた。思わず後ろを振り返るとキバナさんは無表情でそこから感情は読み取れなかった。
「オマエがキバナがいない何も出来なくなってしまえばいいなって思っていたのは事実だし、もしキバナ以外に目を向けていたら優しくなんて出来なかった」
 初めて聞かされるキバナさんの心情に私はどう受け取っていいのか分からず戸惑うしかできなかった。これが温厚だとよく人から褒められる彼の本心だとは思いがたい。
「何も返せてないって言ったよな? じゃあ今から返してよ。キバナの隣から離れないで」
「……できません」
 理解できないなりにどうにか拒絶の意志を伝えるとキバナさんは唇の端を歪めて笑った。バトル中のパフォーマンスでだってこんな顔見たことがない。体感温度が急に下がったような気がして体が震えた。
「うん、オマエの言う通り薄情で酷い女だよ」
「っ……」
 キバナさんが席を立って私のすぐ近くまで寄ってくる。
 この人は誰なんだろうか。キバナさんはいつも誰にでも優しくて人を傷つけるような言葉なんて口にしたりしない。タチの悪い悪夢だと思いたかった。
「キバナも最低なやつだからお似合いだな。……男の家に無防備に上がり込むなんて馬鹿な女」
 肩に乗せられた大きな手がめり込むように力が込められていく。身動きが取れずに固まる私にキバナさんが身をかがめて囁いた。
「全部キバナのせいにしていいよ。責任とってあげる」