夜、共にここを発つ




叶わないのなら諦めるべきだなんて言葉を誰が言っただろうか。否、どんな偉人もそんな後ろ向きな言葉を残したりはしない。諦めるのはいつだって自分自身が決めることだ。

貴方は弱いのだから、傷つかないうちに彼女からは離れましょう、と天使は言う。それに対し、離れたところで後悔するんだろ、諦めるくらいなら奪ってしまえと悪魔は反論する。パイソンはふっと笑って頭の中に居座る真っ白な天使を追い出した。

パイソンが心を寄せる彼女は、クレーべと同等かそれ以上の位の貴族のお嬢様。気持ちを伝えたところでどうにもならないし、どうせ叶うはずもないと決めつけてこのままやり過ごそうと思っていた矢先彼女から想いを告げられ、晴れて恋人同士になった。

「パイソン?あの、私何かおかしなことを言いましたか?」
「ん?ああ…何でもない。あのさ、名前。分かってると思うけど、俺は貴族でもなんでもない、ただの大工の息子だよ」
「はい、もちろん承知しています」

それが何ですかとでも言いそうな雰囲気だ、とパイソンはにやりと笑って隣に座る名前の髪を撫で、くるくると指で遊ばせた。彼女はそんな彼の様子を不思議そうに見ているだけで、その手を退けようとはしない。そんな彼女が愛しくてパイソンは艶やかなその髪に唇を寄せた。

「あの……?」
「俺は諦めが悪いの。だから名前のこともそう易々と離してあげらんないよ?」
「…それで、いいです」

まるで強引に連れ去るような言葉を掛けたのに、まさかの返事がきた、とパイソンは意外そうに彼女の顔を覗き込もうとしたが、下を向いた名前の表情はわからない。その代わりに赤くなった頬が彼女の言葉の真相を伝えてきた。

「パイソン…!」
「えっ、何?」
「私のこと、連れて行ってください…!パイソンが行くところへ、一緒に…!」

突然顔を上げて名を呼んで、何を言い出すかと思えば、このお嬢様には敵わないとパイソンは名前の背中に手を回して抱きしめた。小さな悲鳴が聞こえた気もしたが、この際聞こえなかった振りをしてそのまま彼女の頭を自分の肩へと押し付けた。

「そんなこと簡単に言っちゃだめよ、名前。俺だって名前のことは勿論何処へだって連れて行きたいけどさ。お前は大切なお嬢様でしょ。だから、そう簡単には行かないもんなの」
「…っ!そんなの、パイソンも一緒です!パイソンのお父様にとって、貴方は大切な息子です!身分なんて関係ありません…!」

パイソンの腕の力を振り切って顔を上げた名前の両目に浮かぶ涙を、彼は優しく拭った。他の人間に言われたら面倒だと感じそうな家族の話も、彼女だからこそ許せるのだとパイソンは感じた。
腕に収まるほど細い体で何を背負って生きてきたのだろうか。親や周囲の期待に答えて生きる毎日は平民の自分の過ごしてきた日々よりもずっと堅苦しく、息が詰まりそうだと彼は考えた。小さい檻の中で大切に、美しく育てられた小鳥のようだと。

「名前」
「は、はい…!」

パイソンが真っ直ぐ彼女の瞳を見つめると、彼の真剣な眼差しにびくっと体を震わせながら名前は返事をした。

「俺はお前より頭も悪いし、色々大雑把だし。それでもいいの?」
「…はい……」

ふにゃりと柔らかく微笑む名前に心をぎゅっと握られたようだ、とパイソンは暴れる鼓動を隠すつもりで唇を塞いだ。目を閉じる名前の睫毛が長いことも、その目尻に光る涙も、見飽きるほど見られるのだろう、とパイソンは口角を上げた。

「じゃあ、決まりね」
「えっ?何が…ですか?」
「今夜、駆け落ちしよっか」

驚く名前に本気だよと笑ってみせれば、彼女も困ったように頷いてくれた。

ほら見てみろ上手くいっただろと悪魔が頭の中で得意げに笑ったが、別にお前のお陰じゃないよとパイソンは悪魔を追い出した。

自分の生きる道くらい自分で決めないとね、と自分のために言い聞かせた言葉を名前が拾い、そうですねと良い返事を寄越した。
次に太陽が目を覚ました時は2人で何処にいられるだろうか。否、何処だっていいのだ、彼女が隣にいるのだからとパイソンは小さく笑った。